17、
ほら貝の鳴らないうちから下りてきた娘たちに、大広場で日に当たりながら石の器で海草の茎をすっていた島長が声をかけた。
「どうしたんじゃ?」
島長相手なので普段よりは丁寧な口調で答えた。
「漁に出た男の人たちが帰ってくるんですよ! 東の岬のむこうに帆が見えました」
「水潮が教えてくれたんです。いい風が吹いてるから早く帰ってくるだろうって」
娘たちははしゃぎながら大広場から浜の方へと歩いていく。ほどなくしてほら貝が男たちの帰りを知らせた。島長は空を見上げた。
「風?」
島長は、空を見上げてばかりいた祖母のことを思い出した。
水潮は大広場を囲む壁にもたれてふてくされていた。
少し離れたところでは魚をさばく作業がすでに始められている。上部を真平らに削られた腰丈ほどの高さの岩が八つあり、捕ってきた魚が上にぶちまけられていた。その中から干物に適した魚を選んではさばいていく。さばかれた魚は網の上に並べられ天日に干され、島の食用や売り物になる。岩の周りでは男女が入り混じり、強烈な生臭さに顔をしかめながらも楽しそうに作業をこなしていた。
水潮ももちろん加わるつもりだったのに、両手の当て布を外そうとしているのを逆浪に目ざとく見つけられてしまった。頭三人にも囲まれる。三人は水潮の手を取りじろじろ見ながら、本人そっちのけで「力を入れたりふやけたりしたら新しい皮膚が破れるな」「魚に触ればまた腫れ上がるだろう」などと話し合い、最後には「これくらいのこと、頭領は手を出さずみんなに任せておけばいいんだよ」と言い含められて、短刀を取り上げた。
その短刀を今澪筋が胸に抱いている。近くに居たら手を出したくなるだろうと作業場から離れたところに連れてこられた水潮の、見張りと話し相手をするために隣に居た。
水潮は空を仰いではぁーとため息をついた。
「あーあ、計画狂っちゃった」
「計画?」
「澪と波穂をくっつける計画」
澪筋はぼっと顔を赤らめた。
「な、な、何言ってるの!?」
「皆の様子を見て回りながら、澪を波穂に預けるつもりだったんだけどな。ほら、波穂もさっきから気にしてる」
「えっ?」
澪筋が思わず作業場の方を向くと、波穂はぱっと背を向ける。
「気にしてるだけじゃなくって誘いに来ればいいのに。波穂も案外奥手よね。ね、今回こそ魚さばけるようになりたいって言ってたじゃない。行っておいでよ。その短刀貸してあげるし、あたしはここでおとなしくしてるからさ」
「でもさばき方わからないし……」
水潮はにやにや笑った。
「それこそ好都合なんじゃないの。波穂に手取り足取り教えてもらったら?」
「水潮!」
顔を更に赤くして、水潮にこぶしを振り上げる。
そこへ急に影が差した。影が伸びてくる方向に目を向けた澪筋は、歩いてくる波座の姿を見て小さく悲鳴を上げ水潮の影に隠れようとした。水潮は澪筋の慌てぶりに頓着せず、気軽な声を波座にかける。
「何?」
「おい、そこの澪筋。水潮の見張り代わってやるから行ってこいよ」
思わぬ言葉に澪筋は目をぱちくりさせる。波座はにっと口の端を上げた。
「最近頑張ってるんだって? 食事の当番にも加わるようになったんだってな。……ほら、奴が来たぜ」
顎をしゃくった先に波穂が来ていた。軽く波座を睨みつける。
「何をしている?」
「澪筋に魚のさばき方教えてやれよ。水潮の見張りは俺が代わるからよ」
「──は?」
波座から聞くとは思わなかった言葉に一瞬呆け、波穂は間の抜けたつぶやきを返す。
「ほら澪筋、行っておいで」
水潮に背中を押され、澪筋はおずおずと波穂の前に進み出た。波穂は澪筋を目の前にして頬を紅潮させたが、すぐに表情を引き締めると背を向けながら顎をしゃくり歩いていってしまう。おろおろと振り返った澪筋に、水潮は笑顔で手を振った。つられて笑顔になった澪筋は小走りに波穂を追いかける。
澪筋が居た壁際に波座はもたれた。
「ちゃんとここに居るから、波座も行ってこいよ」
「女の格好してるんだから女言葉使ったらどうだ? 女とは女言葉で話してるんだろ?」
水潮はちょっと驚いた顔をして波座を見上げた。
「意外に細かいところまで見てるんだな」
「まぁな。一応頭だからよ」
面倒くさそうに頭を掻きながら波座は言った。水潮は苦笑する。
「大変だな。やりたくもない役目を押し付けられて」
波座は、本当のところは人の上に立つことに興味ない男だ。自由気ままを好む性格には、人の面倒を見なくてはならない役は窮屈だ。そのことに水潮は早いうちから気付いていた。一対一で戦った時、最初から勝ちを譲るつもりだったのだ。「本当は波穂に譲ろうと思っていたんだが、なかなか煮え切らない奴でな」勝負の後、波座はそうぼやいた。
澪筋に言い寄っていたのには本来の目的とは違う二つの理由があったのだという。一つは澪筋に想いを寄せる波穂にはっぱをかけるということ。もう一つは澪筋の相手が定まらないせいで、女は誰も波座を相手にしてくれないということだった。強い男は巫女を妻に望む。島の誰もがそう考えているせいで、波座が言い寄っても女は遊ばれていると思って本気にしてくれない。澪筋が求婚を受け入れてくれるならばそれはそれでよかった。そうでなければ波座も二十六歳になるし、澪筋には早々に相手を決めてもらって相手選びを再開したかったのだと言った。
「で? 女言葉で話してくれんのか?」
流し目を向けられて水潮は顔をしかめる。
「何の冗談?」
「おいおい。おまえまでそんなこと言うのかよ」
波座は水潮の肩に腕を回す。作業場から見ていた者たちの間からきゃーっと悲鳴が上がった。水潮はため息をつき、さして動揺した様子なく波座の腕を肩から外した。
「本気だとしたら相当の物好きだな」
波座は水潮の言葉を片手を上げて遮った。
「おっと、俺はまだ何も言っちゃいないぜ? 俺のことそういう目で見たことないだろ? おまえがそういう目で見てくれるようになるまで待つさ」
余裕ありげな笑みをつくる波座に、水潮は呆れて肩を落した。
漁の日の夕飯はごちそうになる。小さい魚や干物に向かない魚などが、麦を炊く火で焼かれるからだ。薄暗くなりかまどの火に照らし出された大広場に香ばしい匂いが充満する。焼けた魚はどんどん皆にふるまわれた。
その頃水潮は高台に上がっていた。
「いいかな?」
先に高台に居て膝を抱えてうずくまっていた女は、びくっと震え振り向いた。水潮だとわかると、警戒心あらわに立ち上がった。時津だった。
水潮は隣に歩み寄りながら、小さく笑い穏やかに話しかける。
「どう? 調子は」
何もなかったような口ぶりに、時津はかっとして思い切り水潮をひっぱたいた。派手な音が響き渡る。水潮は避けなかった。赤くなった頬を押えることもせず立っている。
「気の済むまでなぐっていいよ」
痛くもかゆくもないと馬鹿にされた気がして、時津は腹立ちに任せ何度も交互に両頬を叩き続けた。叩かれている合間に水潮は言った。
「好きなだけ何をしてくれてもいいけど、あたしの命をとることだけは勘弁してね」
時津は殴るのを止め、両手で胸元に掴みかかった。
「黒瀬を殺しておきながら何を!」
「黒瀬を死なせてしまったから、あたしが死ぬわけにはいかないのよ。死んだら黒瀬の意思を継げないでしょ?」
「黒瀬の、意思?」
喉元を締め上げられた状態で、水潮は小さく頷いた。
「あなたを、守るんだと言っていたわ」
時津は水潮を突き飛ばした。水潮はよろけて数歩下がる。
「嘘!」
「嘘じゃない。自分をかばったせいで名誉をおとしめられてしまった妻を、今度こそ守るんだって言っていたわ」
「そんなの嘘よ!」
「どうして嘘だと思うの? あたしの言うことだから信じられない?」
時津は頭を抱えてわめいた。
「あの人がそんなこと言うわけないじゃないの! 私のこと愛してなかったんだから!」
「え? あなたたち、夫婦だったんでしょう?」
「夫婦だからって愛し合ってるとはかぎらないわ!」
「でも黒瀬はあなたを愛してたわよ。だって、あなたのために一人飛び出したんだもの」
時津は頭を抱えていた手を下ろして水潮を見た。水潮はまっすぐ時津を捉えて言う。
「あなたの名誉も守ると言っていたわ。だからだと思うの。敵を追ってはいけないと指示を出したのに聞いてくれなかった。手柄を立てて自分の名誉が回復すれば、あなたの名誉も守られると思ったんでしょうね。あたしはその決意の強さに負けて、大切なことを言い忘れた」
「大切なこと?」
「あなたを大切に思うのなら、絶対に死んではいけないって」
風がふわりと上がった。風向きが変わる前の乱れ。凪で停滞した空気が、新しい風に押し出されようとしている。そして新しい風が吹いた。海風より少し温かい乾いた風。
時津はその風に巻かれ黒瀬のぬくもりを思い出していた。
泣いて眠った翌朝、時津は黒瀬の腕の中で目を覚ました。いつのまに抱き込まれたのかわからない。腕は時津の背をやさしく包んでいた。
思えば黒瀬はいつだってそうだった。時津がわめくのを聞いてない振りで、そのくせわめくのをやめると腕に抱きこんであやすように頭や背中をなでてくれた。我儘放題にわめき散らしたと思うのに、黒瀬は一度もわめく時津の前から立ち去ろうとしたことはなかった。
今更、黒瀬の不器用なやさしさが身に染みてくる。そんな人が、どうして愛してくれていないと思ったのだろう。
放心して立ち尽くす時津を、水潮は黙って見つめていた。背後に気配を感じて振り向くと、二人の女が岩陰から心配そうに顔を覗かせていた。水潮は道を空けるように一歩退く。二人は水潮の腫れた頬を少し気にしながら時津に駆け寄った。肩に手を置きながら涙声で言う。
「時津、ごめんね」
「わたしたちが離れたばっかりに」
「泣かないで!」
時津が怒鳴った。二人はびっくりして鼻をすんとすすり上げる。時津の目にみるみる涙があふれた。
「私より先に泣かないでよ……!」
時津は大声で泣きじゃくりはじめた。
黒瀬が死んで、はじめて流した涙だった。泣きながら思う。黒瀬を愛していたんだということを。あの朝のぬくもりが好きだった。わかりあいたいと思った。あの固い口をこじあけて、いろいろと話させてやればよかった。ずっと一緒に生きていくのだと思いため息をついたこともあったけれど、黒瀬と一緒に暮らせる日はもう来ない。二度と会うことができない。
「時津……」
時津の二人の友人も一緒になって泣き出す。
水潮はその様子を見届けると、こっそり高台を出ていった。




