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16、

 波穂は逆浪の家の前に立ち、聞き耳を立ててからひっそり声をかけた。

「ちょっといいか?」

 ああ、と中から声がする。入口をめくってみて波穂はあきれた。

「夫婦になる約束をした間柄とは思えない微笑ましい様子だな」

「約束といっても子どもの遊びのようなものだ」

 逆浪はあっさり言い捨てる。が、昨夜の様子を見ていた波穂にはそうは思えなかった。

 浜の端の岩陰に消えた逆浪は、しばらくして水潮を両腕に抱えて戻ってきた。水潮を心配して残っていた澪筋は、水潮の真っ赤に腫れた両手を見て真っ青になった。両手を真水に浸した布で冷やし、冷えて青ざめた体に湯をかけて温めている間中、逆浪は意識のない水潮を抱えて支えていた。その時の心底案じる苦しげな表情。波穂も吹走も心配したが、そこまでのものはなかった。どう見てもあれは特別な感情があるようにしか見えなかったのに、それをこの男は戯言と片付けるのか。

 今日水潮が着ているのは澪筋の服だ。水潮の服は血の色が染み付いてしまい取れなくなってしまっていた。澪筋が、水潮は替えの服を持っていないからと言って自分の家から取ってきたのだった。女服を着ると意外に娘らしく見える水潮は、逆浪の手を胸に抱え安らかに眠っている。その手をじっと見ていると、表情に乏しい逆浪が眉間にしわを寄せ顔を背けた。

「こうしないと眠らないと言うから」

「眠らせるためだけに連れて来たのか?」

「足がふらついていた。相当疲れがたまっているんだ。昨日の今日だし、その前から──島に戻ってからずっと気の休まることはなかったんだろう」

 波穂は気付かなかった。よく見ていたものだと感心するのと同時に、不調を抱えながらそんな素振りを見せずに立ち回っていた水潮の意思の強さに驚く。

「たいしたもんだな」

「使命感がそうさせるのだろう。水潮は誰よりも島を守りたいと思い、必死にならなければ守れないことを知っている」

労しげに水潮を見下ろす逆浪の様子をじっとうかがいながら波穂は訊いた。

「逆浪、おまえはこれで危機が去ったと思うか? 大陸を知っているおまえの考えを訊いてみたい。多分水潮はまだ危機は去っていないと考えている。おまえはどうだ?」

 逆浪は波穂の顔を見ながらしばし逡巡した後、目を伏せた。

「俺も危機は去っていないと考える」

 波穂は逆浪の前に胡座をかいて座った。

「その根拠は?」

「あれは先駆けに過ぎない。本気で島を制圧したかったらもっと確実な方法を取ったはずだ。あっさり引き下がったところをみると、島人たちの反応を確かめたかっただけで制圧できれば祝着といった程度だったんだろう。敵は今までに得た情報と昨夜のことを検討し、今度は確実に島を制圧できる対策を立ててやって来る。多分島を制圧するには兵の数を増やせばいいと考えるはずだ。昨日は二隻で三十人くらいだった。もう二隻用意できるとしたら倍の六十人。こちらの戦力は五十人足らずだから、上陸されるとかなり厳しい」

 波穂は口元にこぶしを当てて考え込んだ。

「ということは、次の戦いは更に苦しくなるな……。ところで、そもそもニルフェドとかいう国は何故島を制圧したがるんだ? やはり宝が目的か?」

「ニルフェドは西方で周辺諸国を征服して拡大した国だと聞く。そういう国が噂だけで動くとはあまり考えられない。だが島には利用価値がある。外海に出るための拠点に最適なんだ」

「大渦のせいで外海と行き来できないのにか?」

「行き来ができないのは俺たちの舟や貨物船のような小さいもので、ある程度大きさがあれば渦を蹴散らして進むことができる。ただ、そういう船は陸での移動が難しいために海に浮かべながら造る。潮の流れが大きい場所では池を掘って造船所を造るが、それには多大な労力と月日がかかる。流れの少ない島の入り江は絶交の造船所になるんだ」

 質問すればよどみなく事細かに返ってくる返答に、波穂はめまいを覚えていた。目を覆い胡座をかいた膝に肘をつく。

「水潮が説明しないわけだ。昨日のことがあっても俺には今の話は受け入れ難い」

 昨日の襲撃で人数を数えようとは思わなかったし、大きい船ならば外海に出られるなんて考えもしなかった。島から出たことのない波穂は国というものがどんなものなのか理解できない。いくらか話を聞いた今でも、水潮や逆浪が持っている危機感をろくに感じ取れていないに違いない。

「俺は、もっともっと知らなければならないのだな」

「知って、思いを同じくする者が増えれば、それだけ水潮の仕事は楽になる。受け入れ難いといって避けたりせず、理解できなくとも話を訊いてやってほしい」

「ああ」

 話が終わってほっと息をついたところで、二人同時に水潮を見た。間際で話し込んでしまって、眠りを妨げてしまったのではないだろうか。

 二人の心配をよそに、水潮はこんこんと眠り続けていた。

 ほっと息をつくと、波穂は逆浪に苦笑してみせる。

「おまえのそばがよほど安心なんだな」

 逆浪は少し驚いた表情を波穂に向け、それから目をそらして自嘲気味に笑った。

「よほど疲れていただけだろう?」

 逆浪の頑なな様子に、波穂はわずかに眉を上げた。


 この日男たちは漁に出た。六日前に行うはずだったが、海走りの儀式や襲撃のせいで今日まで遅れたのだった。帆三枚分の大きさの網を、数艘の舟で引いて沖へ出ていく。残った者たちは見送った後いつもの仕事に戻った。

 泉の広場に水潮の姿はあった。漁に出るつもりが手の傷を理由に止められたのだ。傷の深い者はやめるようにと言って回っていたら、まず逆浪に手のことを指摘され止められ、波穂に服のことを言われて止められた。

 手をすっぽり覆った布から指先だけを覗かせて、水潮はするすると器用に糸を紡いでいく。大広場で糸を紡ごうとしていた水潮と澪筋を泉の広場に誘った娘たちは、自分の手を動かすことを忘れてその手さばきに見入った。視線に気付いて水潮がにこり笑うと、娘たちは話しかけてくる。

「すごぉい。早くてきれい!」

「これはね、あらかじめ手のひらでなうようにして、太さを均一にしてから紡いでいるからよ。一手間増やしたようにみえて、逆に太さを心配しながら紡がなくていい分手を早くできるの」

 水潮はかごの中の親指ほどの太さになった繊維を持ち上げて説明した。

「どうしてそんなこと思いついたの?」

「これは教わったのよ。大陸にいる時に」

「えー。大陸でも男の人と同じことしてると思った」

「それにしても精が出るわね」

 話していても手を動かす水潮に、一人が感心して言った。

「服だめにしちゃったから、早く新しいのをつくらないとね」

「私が手元に布を持っていたらよかったのだけど……」

 澪筋が隣で申し訳なさそうに言った。布は商いのために一箇所に集められるが、服を作るための布はとっておいてもいいことになっている。澪筋は替えの服だけでなく予備の服まで作ってあったので手元に布を残していなかった。織ろうにも糸がまだ足らない。娘たちは顔を見合わせた。

「ごめんなさい。わたしたちも持ってないわ」

 しゅんとしてしまった皆に、水潮は明るく声をかけた。

「自分の服は自分で作らないとね。けど漁に出られない頭領は恰好つかないかな?」

 娘たちは色めきだって騒いだ。

「えー? 十分かっこいいわよぅ。男たちは皆水潮に従うじゃない」

「今までは頭を通さなきゃ頭領の指示を聞いたりしなかったのよ?」

「何かこう、ばらばらで全体に動きが鈍かったよね」

「それを水潮が一声でまとめちゃうんだもん。大したものよ」

「あーあ。これで男だったらよかったのになー」

「妻にしてくださいって?」

 きゃー、と歓声を上げる。年配の者たちは眉をひそめたが、口に出してとがめだてはしなかった。

「そういえば水潮。逆浪とはどうなってるの?」

 手元に専念しかけていた水潮は、別の話題をふられてぽけっとして顔を上げた。娘の一人がかごを放り出し、腰掛岩の隅に座っていた水潮の隣に強引にお尻を詰めて座る。

「聞いたわよ、昨日」

「な、何を?」

 別の娘が澪筋の隣の空きに座りべったりとくっついて顔をよせる。

「言ったろ? せめて俺にはおまえの背負っているものを分けてくれ──なあんて言われてたじゃないの!」

 とたん他の娘たちもわっと集まった。

「昨日引っ張ってかれたみたいだったけど、その時!?」

「私も見た見た!」

 澪筋がびっくり目で隣を見ると、水潮は額に手を当ててうなだれている。

「背負っているものを分けてくれなんて、ちょっと求婚っぽいよね」

 また悲鳴のような歓声があがった。求婚する時、男は結婚してくれと直接言うことはない。女もそれを期待している。よく聞かれるのがおまえを守るという言葉だった。頭領が巫女を守る時のように俺はおまえを守ると言われるのが、昔から女の憧れだった。しかし何度も耳にすれば飽きるもの。皆新鮮なものが欲しいのだろう。

「その後どうしたの? もう返事した?」

「あれ、求婚じゃないから」

「えー? 嘘」

「ほんとだってば。仕事を一人で抱えすぎだって注意されてたの。で、そういうあなたたちはどうなのよ? 男の間では娘さんたちの話でもちきりなんですけど」

「え! どんな話!?」

 ころっと気分を変え、飛びつくように訊いてくる。水潮は糸を紡ぎながら、さしさわりのないことを思い出しては話していった。

 一人が急にぽつんと言い出した。

「あーあ。早く帰ってこないかなぁ」

 男たちが漁から帰ってくると女たちにも仕事がくる。捕ってきた魚をさばくのだ。夕飯前までにしなくてはならないので、この時ばかりは男女入り乱れて作業に専念する。男女が話のできるめったにない機会なのでさりげなく意中の相手のそばに場所を取り、さばきかたの手ほどきをしたり受けたりすることで言葉を交わし始め仲を深くしていく。皆わかっていることなので、思いあっている二人を一緒に作業させたり、片思いの相手にさりげなく近寄らせてあげたりと、恋の応援も楽しんでいた。

 水潮はふっと空を見上げた。

「このぶんだと陽が中天にさしかかる前に帰ってくるんじゃないかな?」

 水潮の不思議な物言いに、娘たちはえっと振り向いた。

「いい風が吹いてる。こういう日は魚が水面の際まで上ってきていて、魚がよく捕れるの」

「え? 本当?」

 水潮は笑顔をつくった。

「うん。もう少ししたら東の岬のむこうを見るといいわ。帰ってくる姿が見えるから。それまでここの仕事、頑張ろう」

 かごを放り出していることに気付いた娘たちは、そそくさと戻って糸を紡ぎはじめた。ほっとして糸紡ぎに専念する水潮に、年配の女性たちがちらちらと視線を向けながら何事かささやきあっていた。

 見えたわ、という声で皆手を止めて沖を見た。東の岬のむこうに、波のきらめきでない白いものが点々と見える。もうそろそろ行ってもいいんじゃないかとお願いする娘たちに、年配の女性たちは顔を見合わせあきらめたようにため息をついた。娘たちは先を競ってかごを家に片付けにいく。水潮は澪筋と一緒に娘たちの後に続いた。そこを呼び止められる。振り返ると年配の女性たちが立っていた。一人が進み出て言う。

「あなたの紡いだ糸をください。そうしたら布を一反あげましょう」

 水潮は戸惑いながら答えた。

「私にくださったらあなたが困るのではないですか? それに紡ぐことのできた糸は一反にはとても足りません」

 女は嬉しそうに口の端を上げた。島の女ならば女らしく丁寧な言葉遣いをするべきだ。丁寧な言葉を返してきた水潮に、島の掟を軽んじてはいないことを感じ取ったのだった。

「あなたには頭領という、布を織るより大事な仕事があるでしょう?」

「あ、ありがとうございます!」

 年配の女から頭領であると認める言葉を聞いたのは初めてだった。水潮は満面に笑みを浮かべて深く頭を下げた。

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