15、
敵の襲来、海境の裏切り、黒瀬の死……次々起こった出来事に未だ呆然としている男たちに、水潮はてきぱきと指示を出した。
「洞窟に隠れてる皆に声をかけて。子どもの世話がある者は子どもを連れて帰って一緒に休むように。後の者は手分けして水をわかすよう言って。体にかけて血の臭いを落とすものだから、手洗い水を一肌程度に温めるだけでいい。男たちは血に汚れた砂を海に流して、海水で体や服についた血糊を落とすように。それから湯で体を温めながら臭いを落として。怪我に染みるようなら水を使い、まだ血の止まらない者は作業に加わらず手当てを受けるように」
水潮がぱんと手を叩くと、皆我に返って動き出した。水潮は背後を振り返った。黒瀬の周りに波座をはじめ、親しい者たちが集まっている。
「黒瀬をきれいにしてあげて。傷を布で巻いて、服を替えて」
水潮は自分の服を拾い上げた。たっぷりと血をふくんでいて、揺らすだけでぽたぽたと血が垂れる。
「ひっ!」
女の悲鳴が聞こえた。振り返るとそこに時津が立っていた。水潮が指示を出す前に誰かが呼びに行ったのだろう。血を全身に浴びた水潮を見て、口を押えがくがくと震えている。その時津を引っ張って黒瀬のそばに近付けた者がいた。水潮は止めようと口を開いたが声は出なかった。こんなむごい姿のまま見せてはいけないと思いながら、夫婦なら少しでも早く会わせてあげなくてはならないのではと考えてしまう。
時津は黒瀬を見てへなへなとその場にしゃがみこんだ。まばたきをせず、声を上げず、ただ黒瀬に見入っている。
いつの間にか現れた島長は、黒瀬の隣に立ち目を閉じて冥福を祈ると、水潮の方を向いた。
「そなた頭領になった日から、今日この時のことを知っておったな?」
睨んだ島長の視線を外すように、水潮はうつむいて目を閉じた。
「はい」
「いつから海境のこと、気付いておった?」
「海境が帰ってきた日から。漕ぎ手たちはどう見たって怪しかった。島の様子を見て回ってたんだ。それに一度目と二度目では顔ぶれが違った。島の者たちがよそ者である彼らを避けるのを利用して、入れ替わり立ち代り調べまわってたんだ」
「そのことを何故知らせなかった?」
「言ったら信じてくれた?」
ひねた言い方をする水潮に、島長は怒りをあらわにし杖を砂に強く突き刺した。
「海境が奴らの手先にされていると気付いていながら何故知らせなかったんじゃ!」
水潮は顔をしっかり上げて島長をみすえた。
「あたしは海境にちゃんと言った。助けになるから話してくれって。でもあいつは信じてくれなかった。信じてくれない者は、どうあっても救うことはできないんだ」
「ならばわしに話せばよかったんじゃ! おまえの愚かな判断が海境と黒瀬、二人の仲間を失う結果を生んだ。おまえはこの責をどう負うというのじゃ!」
「ちゃんと取るさ」
ぶっきらぼうに返し海に向かって歩き出した水潮に、島長はかっとして怒鳴った。
「ぬかすな! おまえにどう責任が取れるというんじゃ!」
水潮は勢いよく振り返り、目を怒りにたぎらせて叫んだ。
「考えてあるさ! こうならないようにするためいろいろやってきて、でもだめだった時のこともずっと考えてきた! あたしは全部決めてきたんだよ! 島を守るにはどうしたらいいか、そのために起こした行動がどんな結果を生むかすべての可能性を考え抜いて、それでも予測できなかった事態があったとしても受け入れ償う覚悟もしてきた! 今日のことは海境のことも黒瀬のことも、皆が負った傷の一つひとつも、すべて。すべてがあたしの責任だ!」
とどろく声に、離れて作業をしていた者たちも驚いて手を止め水潮を見た。
黒瀬を照らすためのかがり火が、水潮の姿も浮かび上がらせていた。全身に血を浴び、怒りとも取れる形相で荒く息をつくその姿は、見る者を芯から震え上がらせた。
島人たちの口数は少なくなった。作業に必要な話すらろくにしない。夜のさざなみの音に時折水潮の指示を飛ばす声が響く。
黒瀬は清められ衣服も改められ、浜に静かに横たえられた。それを血縁者や同じ組の仲間など親しい者たちが囲む。これが島の葬儀だった。親しい者は死者のそばで夜を明かし、明朝の葬送までに島の者全員が別れにおとずれる。
血の散った砂の片付けが終わり、男たちは血糊を落として女たちが用意した湯を使う列に並んだ。温められた湯は雨水を溜めるための大きな樽に入れられ、男二人がかりで浜まで運ばれてきた。それを手桶ですくって体にかける。
澪筋は他の娘たちが怖がって逃げているところを、年配の女たちに混じって傷の手当てを手伝ったり、手桶をかたむけたりしていた。ふと気付いて顔を上げる。
「水潮?」
さっきまでしていた声が聞こえなくなっていた。人数が少なくなって探しやすいはずなのに、見回しても姿が見えない。
居ないとわかってひそひそ話しはじめる若者がいた。
「俺さぁ、はじめて人切ったけど、かすっただけでも気持ち悪くて剣を落としそうになったよ。人が死ぬほどの傷を負わせられる奴の正気を疑う」
刃が皮膚を裂く時の抵抗、裂いた後勢いづいて食い込む刃先。切られた時より恐ろしいおぞましさ。
「お、おい」
隣の若者が指差す方を振り向くと、そこに逆浪が立っていた。じっと視線を向けられて、ぼやいた若者は失言に気付き取りつくろう。
「いや、その……」
逆浪はふいと目をそらした。女たちの手助けをしていた吹走に声をかける。
「ここにいる人たちの清めが終わったらこのままにして帰ってもらっていいです。湯を少し残しておいてください。後は俺がやります」
言うだけ言うと、逆浪は浜の右端に向かって歩き出した。逆浪の向かう方向へ、波打ち際から一つの足跡が続いている。
逆浪は浜の端の岩場を登って反対側に降りた。そこには小さな浜がある。その砂浜に立って「水潮」と声をかけた。
「逆浪? どうかしたのか?」
返事があった。波音の間にぱしゃぱしゃとかすかな水音がする。
「あまり海水に浸かっていると、冷えて体をこわすぞ」
水潮はすでに冷え切っているようだった。声が震えていた。
「汚れ落としたら行くから、先に行ってて」
「暗闇でこすってたってわからないだろう?」
「ううん、わかるの。まだ全然とれてない」
水潮の言葉のおかしさに気付いて逆浪は水をかきわけ海に入ると、暗闇の中から水潮の手を掴み上げた。掴み上げられた手は月明かりにさらされる。水潮の手は赤く染まっていた。血糊を落とせていないのではない。すりむけて血だらけになっているのだ。
逆浪は掴んだ手を引いて水潮を海から連れ出そうとした。水潮は水音を立てて抵抗する。
「まだ、落ちないの。いくらこすっても、人を切った感触が消えないのよ。離して。早く消してしまいたいの。わ、忘れたいの。血が、いの、命が流れていってしまう」
水潮の声に狂気がまじっていく。逆浪は水潮の手を離した。ふたたび手をこすり始めた水潮を、その手ごとすっぽり胸に抱きこんで締め上げる。
「い、嫌。流れていかないで。死なないで父さん──!」
逆浪は体と体の間でまだ手をこすりつづける水潮を抱えたまま海に沈んだ。がばごぼと水面がわき、水潮は体の間から両腕を引き抜きばたばたともがく。その手が力をなくしかけたところで逆浪は体を起こした。水潮は両手で喉元を押えながらげほんごほんと咳き込む。その背をさすりながら逆浪は言った。
「おまえはすべての責任は自分のものだと言ったが、一人ひとりが自分の考えで動いている限り多少なりともそれぞれが責任を負うものではないのか? それでもすべてをおまえが背負うというのなら、せめて」
咳き込みの落ち着いてきた水潮を、逆浪はもう一度抱きしめた。
「せめて俺にだけは分けてくれ」
「逆浪……」
名を呼ぶ声はかすれ、同時に水潮の体から力が抜けた。逆浪は腕の中からすべり落ちそうになるのを抱きとめ両手に抱えた。
葬送の船出を全員で見送った。黒瀬と親しかった男たち数人が、死者を舟に乗せて沖に出て、外海に向かうと言われている潮に流す。
送り出した者たちはいつもの生活に戻っていった。しかし手は止まりがちだった。拾い集める石くずは、今紡いでいる糸で織った布は、商いに持っていけずに無駄になるのではないだろうか。船を失い商いをしていた海境も居ない。商いが滞れば日々食す麦に欠くことになる。誰も口にはしないが島人たちの間に不安は募っていった。
そんな島人たちに、元気よく声をかけて歩く女が居る。
「元気出して働いて! 商いのつてはあるから大丈夫」
声には覚えがあっても姿に覚えがないので、誰なのかすぐに気付く者がいない。皆首をひねって女を見送る。女が通り過ぎた後、何人かがあっと声を上げた。
元気のない人々とは逆にいつもより励んでいる者たちがいた。若者たちだ。初めての戦いを経て、若者たちは自分がいかに未熟かを知り、自分たちが戦わねば島を守れないという自覚が芽生えていた。空き地に集って、短刀を鞘に収めたまま一対一で試合っている。
「だめだ、それじゃあ!」
飛んできた怒号に若者たちは鍛錬を中断した。声のした方を向くが視線を定められずきょろきょろする。
「目の前にいるのに、やっぱりこれじゃだめか」
坂の手前に立っている女が、包帯に巻かれた手でやりにくそうに髪をくくった。髪を束ねた顔は水潮になる。見ていた者たちは唖然とした。女服で髪をおろすだけでこうも変わって見えるものなのかと。
「腰が引けてる。敵はそういうところに弱気を見て攻めてくるぞ。演武を教えただろう。毎日やっているか? 身につけばいい剣が振るえるようになる。……何だ? 言いたいことがあるなら言え。男なら言う前に顔に出すんじゃない。演武を覚えるなんて悠長なことをしている場合じゃないって顔だな? 昨日の奴らが倍も攻めてきたら、今のおまえたちではとてもじゃないが歯がたたない。昨日は二人以上で一人と戦ったから勝てたんだ。実戦に近い鍛錬をしたい気持ちはわかるが、剣を自在に扱えるようにならなければ、どんなに実戦を繰り返しても上達はしないぞ」
水潮は自分の腰にさした短刀を鞘ごと手にし、紐でしばって剣が鞘から抜けないようにし構える。
「かかってきな。あたしに切っ先がかすりでもしたらさっきやってた鍛錬を続けるといい。でもあたしが当てたら演武をみっちりやるんだ。いいな?」
勇んだ者から水潮に向かっていく。水潮は軽やかにかわしては腕や胴に鞘を当てた。軽い打撃に見えるのに、当てられた者は患部を押え呻き声を上げる。
「当てられた者は、演武を五十回繰り返してからまたかかってこい」
水潮の言葉に不満に思う者だけかかっていけばよかったのに、いつの間にか腕試しの場になってしまった。水潮は軽々と打ち負かしていく。あらかた負かして挑戦者が減った頃、水潮は背後からくる気配を感じ振り向いて攻撃を防ごうとする。
が、きたのは短刀ではなく素手だった。水潮の短刀を持った腕をつかまえる。
水潮は簡単に腕をとられたことに呆然とした。見上げつぶやいた。
「逆浪……」
逆浪は水潮の手から短刀を取ると、ぽかんとする若者たちを見回した。
「もういいだろう。後はおまえたちだけでやれ」
水潮の腕を引っ張って逆浪は空き地から村へと向かう。
「な、何? ちょっと待って」
すそがからまってつんのめりながら水潮は言うが、逆浪は腕をがっちりつかんだまま速さをゆるめない。坂の途中で水潮は悲鳴に近い声を上げた。
「お願いだから何の用か説明して!」
その声にわずかに手がゆるんだところでふりほどき、つかまれていた腕をおさえた。軽く睨んで不服を訴えると、逆浪はぼそり口を開いた。
「血がにじんでる」
「え……?」
水潮は短刀を握っていた手を見下ろした。手に当ててあった布に点々と鮮やかな赤がにじんでいる。それを見て水潮はにわかに痛みを思い出し顔をしかめた。
「それに足元もふらついてた」
「それは長い裾のせいでしょ」
「そういうふらつきとは全く別のものだ。疲れがたまってるんだろう。休んでおかないと後に響くぞ」
疲労を見抜かれたことを恥じて水潮は目をそらした。
「昨日の今日で頭領が休んだりしたら、皆が不安になるでしょ?」
「疲れている時は誰でも休むものだ。何かあれば呼ぶ。見張りくらいにはなれる」
「でも……」
「言ったろ? すべての責任を抱え込むというのなら、せめて俺には分けてくれと」
瞳を覗き込まれ真剣な表情で言われ、水潮はほんのり頬を染める。
「吹走も心配していた。皆のことは見て回るから水潮を休ませてくれと言われたよ」
水潮から反論の言葉は出てこなくなった。
村の中のがいいだろうと言って、逆浪は自分の家に向かった。寝床を整えてから中に水潮を招く。入れ替わりに出て行こうとすると水潮は呼び止めた。肩をすぼめ遠慮がちに言う。
「手を、握ってもらってもいい?」
「──えっ?」
「じゃなきゃ眠らない」
すねたように言って逆浪の服の端を離さない水潮に逆浪はしばしうろたえたが、水潮の頑として譲らない様子に小さくため息をついて入口の布にかけた手を離した。水潮は寝床に横になり手を伸ばす。逆浪が枕元に膝をついて手を出すと、水潮は両手で握りしめた。
「騒ぎの声とか、あたしを呼ぶ声が聞こえたら起こしてね」
言いながらとろとろとまどろみ、いくらもたたないうちにすやすやと寝息をたてはじめた。起こさないよう手を抜こうとするが、ぎゅっと掴まれ外せない。しばらく困った後、逆浪は仕方なくあぐらをかいて楽な姿勢を取った。




