13、
海境も島に居る間は島の仕事に加わる。海走りの儀式から三日目、海境は陸の役目に割り振られていた。海藻の茎をほぐす作業と鍛錬の合間に、海境は浜に向かっていた。海境は貨物船の中で暮す漕ぎ手たちの世話もしているので、ほとんどの島人たちの目には不自然に見えないはずだ。暴風林に入り人目につかなくなると海境は足を早める。
暁洲国は滅びたのかと何人かに問われて焦った。知っていて隠したと知れたら疑われるかもしれない。商売には関係ないことだからとごまかしたが、国の情勢知らずして商売は成り立たない。嘘がばれるのも時間の問題だ。
それ以上にやっかいなのが水潮だ。今朝吹走に呼び出され、商いの役目で困ったことはないかと訊かれた。二度も大陸でひどい怪我を負った。その際に囚われ、今もまだ囚われ続けているのではないかと。海境は何の話かととぼけ、水潮にも以前心配されたけど水潮から変な話を吹き込まれてないかと笑い飛ばした。吹走はそれで引き下がったが、これで済むはずがなかった。水潮は海境が間諜であることに気付いている。多分それを吹走に話している。このままでは島に拘束されるかもしれない。
逆浪が“裏切った”段階で大陸に戻ることは考えていた。海走りの儀式で逆浪はわざと負けた。逆浪は吹走に阻まれたのだと言い訳したが、その程度の妨害を逆浪が凌げないわけがない。何しろ逆浪は大陸で特別な訓練を受けた人間なのだから。海境はすぐにでも出発したかった。しかし続けて島をそそくさ後にしては疑われると監視役に言われ、数日待てと指示された。だが疑われるのを怖れたところでとうに疑われている。今は水潮が理解者を増やさないうちに島を出ることが先決だ。
「海境」
ふいに声をかけられ、海境は飛び上がった。胸を押えながら隣の木陰に目をやる。
「びっくりしたなぁ。物陰からいきなり声かけないでよ、水潮」
水潮はもたれていた木から背を起こし、海境の前に立った。口の端をちょっと上げて海境を見据える。
「あたしのことを避けてるかと思っていたんだが、違ったか?」
「何で俺が水潮のこと避けなきゃなんないの? それにさ、この間と口調が違わない? せっかく女の子なんだからかわいらしい言葉遣いしようよ」
「今は頭領として話している。甘ったるい話し方をしては聞く気にもならないだろう?」
にこやかだった海境の表情に影が走った。影は一瞬のことですぐに走り去る。
「それで頭領の水潮は俺に何の用? そうだその前に一つ。吹走に変な事吹き込んだでしょ。わけわからないこと言われて困っちゃったよ。頼むから変な妄想しないでくれるかな?」
「妄想? まだとぼけるつもりか? そんなにあたしは信用できない?」
「水潮こそ俺のこと信用してないんじゃない。言ってるだろ? 俺は何も困ってないって」
水潮は懸命に言い募った。
「弱みを握られているなら何とかする。海境が裏切ったら島を攻撃に来るというなら島人全員で迎え討つし、本当は海境の父さんが生きていて囚われてるっていうなら助けにいくよ。だから今海境がどんな状況に居るのか話して欲しいんだ」
「いいかげんにしろっ! 親父はとっくに死んだんだ!」
海境の怒号に水潮は怯んで一歩下がった。人のよさげな仮面をいったん外してしまった海境は、気持ちを偽ることなく水潮を見据える。
「ありがた迷惑なんだよ。親父や親父の仲間たちは本当に死んだんだ。その場に俺は居たんだから間違いない。死んでしまったものは生き返らない。俺のこの傷も」
海境は両腕を突き出す。
「負ってしまった以上、傷そのものは薄れて消えるとしても、傷を負った事実は消えたりなんかしない。もう手遅れなんだよ」
「手遅れってどういう意味? おまえ自分が何をやってるのかわかってるのか? その結果がどういうことになるのか全部わかってて、その上で奴らに荷担してるっていうのか!?」
激昂して掴みかかった水潮を、海境は首をすくめとぼけてかわす。
「何の事を言ってるのかさっぱりわからないね。俺が言ったのは親父たちのことや俺の傷のことだよ? 助けてくれるっていうなら賊に捕まったときに助けて欲しかったってね。で? 疑わしいと思っている俺を、頭領の水潮は捕まえるかい?」
水潮は口を引き結んで動かない。海境は薄ら笑いを浮かべた。
「そうだよね。そんなことされたら俺、泣いて島長に訴えちゃうよ。島のために心骨注いで働いてる俺が、どうして捕まえられなきゃならないんだってね」
海境は水潮の手を胸元からやんわりと外す。そして脇をすり抜けて何事もなかったかのように歩き出した。水潮はその場に取り残される。
海境は島長の了承を得て、また島を出ていってしまった。
最後まで浜で見送りをしていた吹走は、隣の水潮に話しかける。
「行かせてしまってよかったのか。こうしている間にも海境の窮地は深まるのでは」
水潮は力なく首を振った。
「もう手遅れなんだってさ。海境はすでに脅された者なんかじゃない、敵の協力者なんだ。海境自身に救われたいという気持ちがない限り、あたしじゃどうしようもない。今海境を敵として拘束すれば、島の皆に敵視されるのはあたしの方だ。この先あたしが島をまとめていけなかったら、島は悪い方の運命をたどることになる。残念だけど海境は」
水潮が口をつぐんだその先を、吹走は訊ねたりしなかった。
水潮は仕事の分担を今まで通り三人の頭に任せ、自分はろくに仕事をせず一人で日に何度も舟を出した。島人たちは自分勝手にしか見えないこの行動に不満をささやきあう。しかし三人の頭たちが何も言わないので、水潮に直接物言うのは島長だけだった。せっかく縮まりつつあった島人たちとの距離は再び開き始めていた。
浜にひとけのなくなった夕暮れに、水潮は一人舟を引き揚げていた。島人たちは皆、夕飯までに用事を片付けようと村で忙しくしているはずだ。夕飯には理由がない限り必ず顔を出さなくてはならない。事前に理由を言い置いてない者には食事は配られない。食いはぐれるのも辛いが、頭領がそんな罰を受けていては示しがつかない。水潮はありったけの体重をかけ必死に舟にかけた縄を引いていた。そこに横から手が伸びてきて水潮と互い違いに持つ。水潮の手は思わずゆるみ、呆然と相手を見た。
「逆浪……」
「やるから、どいてて」
水潮は慌てて縄を握りなおした。
「そんな、いいよ。自分でやらなきゃだめでしょ」
自分の舟のことは自分でするのが決まりだ。できない者は海に出る資格はない。しかし逆浪はやめようとはしなかった。
「そんな細腕じゃ、一日に三度も舟を揚げるのは辛いだろう」
水潮は急に縄から手を離し、腕ごと背中に隠した。水潮が退いたので逆浪は勢いをつけて三回の引きで舟を揚げ終え、縄を杭に縛りつけてから振り返る。
「どうした? 」
水潮は目をそらし、落ちつかなげに言った。
「へ、平気だったのに。操舵だって武術だって、腕力がなきゃできないじゃない」
「手、どうかしたのか?」
逆浪が伸ばしてきた手を、水潮は体をよじって避けた。
「そ、その。あたしの腕、太いから。手も……ごつごつしてるし」
恥ずかしさに消え入りそうな声を出す。逆浪は目をしばたかせた。
「え……? 俺より細いだろ」
自分の腕を突き出しながら、不思議そうに水潮を見た。水潮は顔を赤らめ、それを隠すように肩をすぼめてうつむく。
「……比べる相手が違う」
「どういうことだ?」
逆浪は本気でわからずに首を傾げる。水潮は気恥ずかしさを吹き飛ばすように声を立てて笑った。
「急ごう。夕飯に遅れちゃう」
逃げるように水潮は走り出した。
水潮はさかんに舟出ししていたのをやめたかと思うと、今度は高台から下りてこなくなった。
4日目の昼下がり、澪筋は高台をおとずれた。細くせまい、村と比べて削りの荒い道を、足の裏が傷つかないよう気を付けて進む。道の先、岩と岩の合間から海が見えてきた。夜に一度おとずれているが、その時は真っ暗で気付かなかった。海のかなたに細く稜線が見える。島どころか村からもろくに出ない澪筋がはじめて見る大陸の姿だった。
水潮は稜線を正面に捉えながら短刀を振っていた。流れるようでいて鋭い一連の動きに、澪筋はついみとれてしまう。水潮は澪筋に気付き、手の甲で汗を払いながら近寄った。
「どうかした?」
そのしぐさが男のようで、澪筋はついうろたえてしまう。頬を赤くし目をそらした。
「な、何をしてるの?」
「見張りしながら鍛錬をね」
見張りと聞いてここに来た目的を思い出した。澪筋は表情を引き締め訴えた。
「ここからだと入り江に入ってくる舟は見えないって皆言ってるわ。潮の流れからすると南側からしか来れないのに、何で北を見張ってるのかって皆──」
勢いづいていた口を急につぐんだ。──やってることが信用できない──そんな謗り、水潮に聞かせられない。でもわかってもらわなくては。水潮のしていることが島人の不信を募らせているのだと。
言葉がみつからなくてうつむいた澪筋の肩を、水潮は軽く叩いて横をすりぬけた。
「心配かけちゃったのね。悪かったわ」
澪筋は戸惑いながら、村へ下りていく水潮の後に続く。道に慣れた水潮に澪筋はついていけなかった。あっという間に姿が見えなくなる。曲りくねって見えなくなった道の先で、水潮の張り上げる声が聞こえた。
「作業中止! 男たちは全員大広場に集合!」
澪筋は泉の広場で女たちに指示を出している水潮に追いついた。糸を紡ぐ道具を片付けて夕飯の準備にかかれと指示された女たちは、まだ高い陽を見遣りながら困惑気味に泉から離れていく。澪筋は女たちの間を縫って戸惑いながら水潮に近付いた。
「ね、急にどうしたの?」
水潮は短刀の鞘を握って澪筋に突き出した。
「え? 何?」
「敵が来るわ」
澪筋の胸はどきんと鳴った。
「村まで上がらせないつもりだけど、戦えない人たちには念のため洞窟に隠れてもらう。その人たちを澪筋、あなたにこれで守ってもらいたいの」
「わ、私短刀なんて扱──」
押し付けられるものを手で押して拒んだとたん、短刀から伝わる感触に澪筋は呆然とした。無意識に受け取ってしまう。
「巫女である澪筋にしかお願いできない。一緒に皆を守って」
澪筋はごくり喉を鳴らして頷いた。澪筋を残して水潮は坂を駆け下りる。
大広場で鍛錬をしていた吹走は、上の騒ぎに気付いて顔を上げ、水潮が下りてくるのを見つけて駆け寄った。
「どうした?」
「知らない船が来る。今、西から南を回っているから、今夜襲撃するつもりなんだろう。今から戦いの準備をし夕飯を早くすませる」
吹走の反応は早かった。
「海への知らせは俺が行く」
きびすを返し走り出す。続いて走り出した水潮は、大広場の入口に杖をついて立つ島長に気付いて足をゆるめた。
「何の騒ぎじゃ、これは」
「ちょうどよかった。今からうかがおうとしていたところです」
「だから何じゃと訊いておる!」
「知らない船が来ます。戦いの準備は一応しますが、最初は話をしようと思います。島の代表として彼らと話してくださいませんか?」
この申し入れに、島長は目を見開いた。




