12、
男たちを引き連れて揚々と帰ってくる水潮を見て、島長はやっぱりとため息をついた。均衡を取るのが難しい舟の上で棒を振り回して手を振るなどという難しいことをやってのけるところも父親の浪煙そっくりだ。浪煙は大陸の生活が長すぎて島の掟にとうとう馴染めなかった。娘の水潮もまた、大陸での暮らしが長い。掟の中に閉じ込めるのは最初から無理だったのかもしれない。
舟を置く順番が変わった。波打ち際に水潮、後は力の差や年齢で順次決まっていく。
舟がすべて揚がり島人全員が浜に並んだところで、水潮は頭領としてはじめての言葉を述べた。
「女で若輩のあたしが頭領になったことで不安をおぼえる者もいるだろうが、あたしは全力で皆を守り導く覚悟がある。信じてついてきてほしい」
胸を張り力強く語るその姿に、女であるとか若すぎるとか問題にならなかった。水潮に喝采がおくられる。
「話しておきたいことがある」
水潮の視線を受けて島人たちが静まり返ったところで水潮は深く息を吸い込んだ。
「島に再び危機が迫っている。八年前の襲撃か、それ以上の危機だ」
場の空気が一瞬で凍りついた。八年前の襲撃と聞いて動揺しない者はいない。八年という歳月は岩に染み込んでしまった襲撃の痕跡を洗い流してくれたが、人の心に染み込んだ恐怖や悲しみを癒すには足りない。
水潮は構わず続けた。
「暁洲国が滅亡したことを知っている者はいるか? 暁洲国は大陸内部の大国ニルフェド王国に侵略され、国の守りを失った街や村は次々と攻め入られ掌握されている。八年前島を襲った襲撃とは比べ物にならない惨劇が、大陸では繰り広げられているんだ!」
惨劇と聞いて多くの者が顔色を変えた。惨劇、まさにそうだった。耳元で鳴る剣戟の音、死に際した者の絶叫、死と隣り合わせの恐怖。朝日に照らされた村は血にそまり、死体がそこかしこに転がっていた。人々の泣き叫ぶ声が日が高くなっても途絶えることがなかった。
「それは大陸にとどまらない。島にも必ず及んでくる。奴らの目的は外海だ。その足がかりに島を手に入れようと攻めてくる!」
「やめんか!」
島長の怒号に、八年前に立ち戻っていた者たちは現実に引き戻された。
「島に攻め入られることなぞありえぬ! いたずらに島人をおびえさせるでない!」
「攻め入られないって自信はどこからくるんですか? 暁洲国が滅亡したことすら知らなかったようなのに、大陸の情勢をあなたはわかっているというのですか?」
「島の守りは万全じゃ。敵を手引きする不届き者さえおらねばな」
島長の嫌味な視線に気付いて水潮はかっと頬を紅潮させた。
「父さんはそんなことしてないって何度言えばわかってもらえるんです!?」
「ならば誰が引き入れたのじゃ?」
水潮は息を飲み顔を引いた。
「あの夜の賊たちは不自然なほど手際がよかった。島の地理を知っていたようじゃし、松明を路地に置かれた砂の桶に差し込んで明かりを増やすなぞ、松明を余分に用意する必要がある分島の習慣を事前に知らねばできぬことじゃ。それに岩礁の多い内海を航海する技は一朝一夕で習得できるものではない。まして月があったとはいえ深夜のことじゃ。島から呼び込む者がおらねばできぬ。そのようなことをする者は島に住んでおったよそ者しか考えられん」
水潮は泣きそうに顔をゆがめ、それを見られないようにすぐさま背を向けた。行ってしまおうとするのを島長は咎める。
「水潮!」
「朝飯をとっていつもの仕事につくように! 当番は頭三人で話しあって!」
「待たんか! まだ話は終わっておらぬ!」
びっこを引きながら林まで走ってきた島長に、立ち止まった水潮は振り向かず声を低めた。
「何がですか? どうせ私の言葉には耳を傾けてはくださらないのに」
「そなたの半分は島の血じゃ。おとなしく掟に従えば快く迎え入れようものを、兆しさえない危機を語り、島の者を不安におとしいれて、そなたは一体何をしたいというんじゃ?」
「選ばせてあげたいの」
水潮は振り返った。その顔は傷つけられて今にも泣きそうな子どものようだった。
「決めさせたいんです。全員、一人ひとりに。これから島に起こる出来事にどう立ち向かっていくのか、あるいは受け入れるのか。まだ選択の余地があるうちに、後悔しなくてすむ道を選べるんだったら選ばせてあげたいのよ!」
最後は涙声になった。水潮は背を向けて駆け出した。
置き去りにされた島人たちは、いつまでも浜に居ても仕方ないとぞろぞろ動き出した。
「なぁ……水潮が言うような危機が本当に訪れると思うか?」
誰かがぽつんと洩らした。その声に答える者がいる。
「……水潮はこの間まで大陸に居たんだから、大陸が大変なことになってるって話に嘘はないと思うが、それが島にまで及ぶとは……。今は十分に警戒をしているし、島長が言うように島はよそ者が簡単に入れる場所じゃない」
八年前の襲撃は浪煙が賊を島に引き入れたからだ。そう納得していることが島人たちの心の拠り所だった。事情があったから、だから襲撃されてしまったのだと。島に裏切り者はもう居ない、だから島は安全になったのだと思うことで心の平安を得ていた。水潮が帰ってきて、浪煙は裏切り者じゃないと言われたことでその安心は多少ぐらついたものの、やはり襲撃は運が悪かっただけで十分な警戒をしている現在二度と起こるはずはないと信じている。
彼らの会話は周囲の者たちに安堵をもたらした。それは伝播して人々は落ち着きを取り戻していく。そして水潮を非難する声が上がってくる。
「水潮は俺たちを不安にさせて何をしたいって言うんだ」
島人たちに広がる水潮への不審を、澪筋は一緒に歩きながらひしひしと感じ取っていた。
どうしてあんな言い方したの? 何を焦っているの?
水潮ならもっと上手い言い方をできたのではないだろうか。あんな性急な物言いしたのでは、誰だって抵抗を覚える。澪筋だって再び島が襲われるなんて考えたくない。水潮がそう言うのなら澪筋は信じたいと思うけれど、水潮の心の内が見えないおぼつかなさが、澪筋をより一層不安にさせた。
全員が村へ引き揚げた後、水潮は一人浜に戻った。砂に腰をおろし膝をかかえて顔をうずめる。しばらくして背後に人が立った。水潮の背に当る風が少しだけやわらいだ。
「……早すぎたみたい。皆があたしを頭領に認めくれたから、あたしの言葉は何だって信じてもらえるって思い込んじゃった。父さんの苦労が今本当にわかった気がする。──吹走も苦労した?」
吹走は隣に腰をおろし、立てた片膝に腕をかけた。
「島人は頭領だから従うのではない。信じられるから従うのだ。おまえの言ったことは島の暮らしからかけ離れている。理解できぬことを信じろと言っても無理だろう。──浪煙はとても苦労していたな。掟や島の慣習を理解できず、島長とよく対立していた。島のことを理解できない浪煙に、島人たちはなかなか打ち解けず敬遠し続けた。だからこそ信ずるということが如何に難しいか、どんなに必要かということをよく知っていた。信じる心が人を動かし、人が動くことで頭領の人を率いる力は生まれるのだということを、あの人が俺に教えてくれた」
水潮は顔を上げた。腫れた目元が風に冷やされる。
「ねぇ、父さんの一番の配下だったあなたは疑われなかったの?」
「俺は生粋の島人だからな。逆に騙されてかわいそうにと同情されたよ」
「何で父さんは無実だって言わなかったの? あなただったらわかってたでしょうに」
「訴えたところで信じてもらいようがなかったからな。それに無駄に疑われて島を追い出されるわけにはいかなかった。追い出されたら島は守れない」
目元の痛みに顔をしかめながら水潮は笑みをこぼした。
「俺に何かあったらおまえが島を守るんだぞって、父さんにいつも言われてたもんね」
吹走は浪煙と同じ未来を、島に豊かさを望む仲間だった。浪煙はよく、吹走に大陸のことを語っていた。波穂などに誤解されていたようだが、大陸に行ったことがなくとも大陸をよく知っていた吹走こそが、変わらぬ島を一番に歯がゆく思っていたのかもしれない。
「そういえば海走りの儀式の時、手を抜かなかった?」
「俺が? 何故」
とぼけたような吹走に水潮は考え込む仕草をしてみせた。
「手を抜いたとは違うかな。標岩から逸れていってるように見えたんだけど」
「儀式は海で決するのではなく陸で決する。という言葉を知っているか?」
「知ってるけど、最初あんなにそばをうろついたのにずっと無視してくれたじゃない」
「浪煙と近しかった俺がおまえを気にかけたら、余計不利を被ったのではないか?」
吹走がそこまで考えてくれていたことに、水潮はみるみる顔をほころばせる。吹走は立ち上がって砂を払い、歩き出した。
「今度大陸の話を聞かせてくれ」
林から波穂が出てきて吹走とすれ違った。後ろに立ち見下ろしてくる波穂を、水潮は体をひねって見上げた。
「何を話していたんだ?」
「他愛のない昔話だよ。用があって来たんだろ。何?」
「訊ねたいことがある。俺や俺の配下たちに話したことは、すべて頭領になるための計画の
内だったのか?」
水潮は愁いを含んだ笑みを浮かべた。申し訳なさそうなその様子は肯定してるのと同じだった。波穂は大きく息をついた。
「まんまとやられたよ。気付いた時にはおまえを頭領にすべく動くしかなかった。……いつの間に波座を手中に入れてたんだ?」
「波穂と話した頃だよ。波座はあたしのこと気にしてたから、儀式の前に決着つけることにして一勝負だけ。波座は力は強いけど、やっぱり技でくる相手には弱いね。でも、あたしの卑怯もいいとこな技に文句一つ言わなかった。……それで? 用は別のことだろう?」
波穂は頷き、さっきまで吹走が座っていた場所に腰を降ろした。
「俺とおまえとでは目指すものが似ていると思っていた。だがさっきの話は何だ? 脅すだけ脅しつけて、危機に対する説明が不十分だった。ついてきて欲しくばわかるように説明するのが筋だろう」
水潮はふふっと笑い海を見た。陽は半分も上がってきていて、水潮のさびしそうな笑みを照らした。
「あの場で、その言葉を聞きたかったな。でも、今は話してもわかってもらえないと思う」
「それで信じてついてこいというのはむしがよすぎるな」
「……そうだね」
あっさり認める水潮に、波穂は眉をひそめた。
「俺にはおまえがわからない。おまえは一体何をしたいんだ?」
水潮は沖を見つめたまま静かに強く言った。
「島を守りたい」
「それは」
わかっていると言いかけて言葉を失った。水潮が向けてくる険しい目が、波穂に何をわかってるのかと問いかけてくるようで。
「父さんが守った島。母さんが守った島の人たち。掟と共に生きる人たちの日々の営みを守りたい。けど、すべてを守り切れそうもない時の覚悟もしている」
「覚悟?」
「何を守って何を見捨てるのかってことさ」
波穂の胸がずきんと痛む。非情な言葉を口にしながら水潮は辛そうに顔をゆがめた。その複雑な表情に、波穂は波穂の知り得ない水潮の背負った深い業を感じる。水潮が男として育てられたのも島を出ることになったのも、島に戻って女と明かしながら男の格好をして男と同じことをしているのも、水潮の負う業によるものだ。波穂はもう、水潮の言葉に反発を覚えることをやめていた。波穂の計り知れない業に幼少の頃から押し潰されまいと戦ってきた水潮に、島で多少の苦楽はあったものの安穏と暮らしていた波穂が敵うわけがない。敵わないならば少しでもその業に触れ、自らを鍛えたかった。
「決めておかないと、いざって時に全部を守ることしか考えられなくて、逆にすべてを失うはめになる。考えておきなよ。波穂はこの島の中で何を一番に守りたい? その次は?」
「俺は──」
問われてはじめて、島を守るという言葉が漠然としたものだということに気付いた。改めて考える。何を守りたいと思っていたんだろう。人か? 掟か? 島という土地をか?
水潮はすぐに答えを出さなくてもいいと言いたげな、見透かした目で波穂を見ていた。




