11、
白み始めたばかりの朝もや立ち込める早朝、ほら貝が短く三度吹き鳴らされた。間を置いてまた三度。集合の合図だ。離れたところに家を持つ水潮は、全速力で村まで下りた。ほとんどの者がそろそろ起きようかとまどろんでいたところだ。眠気が残り、目をこすりながらよろよろと出てくる者もある。
「水潮!」
後ろから声がかかった。澪筋が小走りに寄ってくる。水潮は一旦足を止めた。
「何があったの?」
「わからない。ともかく行ってみないと」
水潮は先に行くねと言い置いて転がり落ちる勢いで坂を下った。
大広場には半分くらいの人が集まっていて、その中の何人かが島長に事情を訊こうと詰め寄っていた。他の者たちも不安げに何があったのかとささやきあう。事情が回ってこないところをみると、まだ何の説明もなされていないようだった。
島長は人々をかきわけ坂の手前に行き、大広場を囲う壁の上に手を借りて上がった。こうして島人全員を相手にするとき上るために、その場所は人が立てるように分厚くなっている。全員が揃ったとみると、島長は壁の上から島人たちを見下ろして声を張り上げた。
「聞け! 昨夕伝えた海走りの儀式をこれより行うことにする。舟出の準備じゃ!」
島人たちは皆唖然とし、一拍置いて騒然となった。
男たちは我先に広場を飛び出していく。女子どもは突っ走る男たちを避けて大広場の隅に逃げる。普段の舟出は自分より上の者を待たなくてはならないという順番があるが、海走りの儀式の時だけは準備が整った者から順に出る。そして開始と同時に優位に立てるよう、入り江から出やすい場所を確保する。戦う者の発する緊迫感に、見ている者たちも同じように厳しい表情だ。
その中で水潮だけがまだ唖然として口を開いていた。人に押されて知らぬ間に島長の前に出ていた。間の抜けた顔で見上げる水潮に、島長はにやりと笑う。
「思い出した。よく父さんと対立しては、父さんの言い出したことをさも自分が考えたことのように取り上げて父さんを悔しがらせてましたね。……家を削り出して出る石くずが大陸では重宝がられてるから売ろうと父さんが言ったのに、聞く耳持たない振りして父さんが知らない内にちゃっかり準備を進めてた時には、そりゃあもうひどい悔しがりようでした」
「三つか四つの頃の話じゃろ。よくおぼえておったな」
水潮は眉間にしわをよせた。
「覚えもします。両親は幼子に数年に渡る対立の攻防をこんこんと教え込んだんですよ。こういう戦いもあるから覚えておけって、嫌味の応酬を事細かに、二人がかりで。両親のことは好きですが、この話をする時だけは逃げ出したかったです」
島長はにんまりと満面の笑みをつくる。
「そりゃあ大変だったな」
「自分が原因つくっておきながら心から愉快そうに笑わないでください!」
こぶしを振って怒鳴る水潮に、島長は空をあおいでかっかっと高笑いした。
吹走が沖から戻ってきた。海走りの儀式の決まりごとで、その時頭領である者は、標岩と呼ばれる、入り江からまっすぐ沖に出たところにある潮が満ちても隠れない岩礁に、布を結んだ棒を立ててこなくてはならない。儀式では一番に標岩にたどりつき、棒を手に入れることを競う。
入り江いっぱいに浮かんだ男たちは、足の踏み込みで重心をとり、帆を小刻みに調整して舟の位置を保っていた。その先頭に立てるのは、棒を立てに一度沖に出た頭領の特権だ。
普段は浜に出ることのない女たちまで浜に集まり固唾を飲んで見守った。寝ている以外は動き回り騒いでいる子どもたちも、今はじっとして息さえ殺す。
ブォーーーーー
さざなみの音だけがやけに響く中、ほら貝が強く長く吹き鳴らされた。
これを合図に舟は走り出す。我先にとひとかたまりになって沖へ出て行く。
陸風を顔に受けながら見送る者たちから声がもれた。
「え? あれ──」
入り江に一艘取り残されていた。
「水潮じゃないの? 」
一面朝焼けに染まって服の色はわからないが、体の小ささからわかる。水潮は入り江の中央に移動して舟をたゆたわせていた。澪筋は胸の前で手を握り合わせはらはらする。出発が遅れるほど不利になることくらいわかっているだろうに、何か問題があったのだろうか。
砂の混じった強い風が急にゆるんで止まった。凪だ。風が入れ替わる。頭上からこおぉと風鳴りがする。浜にいるすべての者の髪と服のすそが水潮に向かってはためく。水潮は帆を広げ風をはらませて滑り出した。風にあおられ高くなった波の頭に舳先をのせて飛び上がる。高く舞い上がった舟は飛沫を描き、飛沫は朝日を受けて金色に輝いた。
子どもをはじめとする若い者たちは大きな歓声を上げる。しかし、十八年前をおぼえている者は、誰もが絶句し、かつて見た光景を重ねていた。頭領になれるはずがないと思われていた浪煙が見せた光景と同じだ。同じ技に挑戦しようとする者も居たが、舟の均衡を保てず転覆して、試す者はいなくなり忘れ去られていた。それを娘の水潮が。
何人かの胸に予感がよぎった。島長の胸の内にも。
ガンッ!
前を走る波座の舟に舳先を当ててしまい、波穂は舌打ちをした。風を奪い進路を断つ攻防の中での小さな失敗だった。ぶつけ合う競い合いはしない。ぶつければ体勢を崩すのは相手だけではないからだ。今の波穂がした程度の小突きあいはうっかりしてしまいがちなものだ。だが波穂はそんな失敗も許せなかった。このくらいの操舵もろくにできない自分に腹が立つ。水潮ならこんな失敗絶対しないだろう。
水潮の姿は見えなかった。前にいる吹走たちの一団にでも混じっているのか。前方を行く吹走は、標岩よりかなり右寄りに細かく舳先を切り替えしながら進んでいた。標岩から島へと風が吹いている今、まっすぐに標岩を目指すことはできない。風を斜めに受けると帆は風上に引き付けられる。その力を利用して風上に向かうが、内海には島から標岩を見て右から左の方向へ強い潮の流れがある。潮に流される分も考えて、やや行き過ぎというくらいに右寄りに進路を取る。吹走の後ろは配下の者たちで隙間なく固められていた。島の男たちをまとめ上げられなかった男だが、やはり吹走は人の上に立つことのできる実力を持っているのだろう。競り合いで速度を落とす波座と波穂の集団をどんどん引き離していく。これでは吹走どころかその配下の者にさえ勝てやしない。いらいらが募って我を見失いがちになる。その時、横からきた高波に気付くのが遅れ、ほとんど構えられずにまともにくらってしまった。舟が大きく傾いで速度を保てなくなる。
まずい! 先を行かれる──。
ところが波座は先に行こうとしない。頭領になろうというのなら、競り合いは配下の者に任せて先に進まなくてはならないのに。
風が弱まった。陸風が海風に、夜の風が昼の風に入れ替わる前兆。しばしの間凪がおとずれる。舟が倒れないよう均衡を保っている最中に波座と目が合った。いぶかしむ目を向けた波穂に、にっと笑ってみせる。
上空で音がした。もうすぐ風が戻ってくる。
その風より先に、波穂の脳裏に風が吹いた気がした。視野を曇らせていた雑多な物事が吹き飛ばされ、この時ようやく事の全容を見渡せるようになる。
──波穂は波座が言ってどうにかなる相手だと思ってるのか?
言葉では動かせない男は何でだったら動かせるだろう。決まっている、力でだ。波座は自分より強いと思っている相手には従う。吹走のことは頭領として立てていたし、島長の言うことに逆らったりしたことはない。水潮は波座を下すことによって、波座とその配下を手中におさめていたのだ。それなら澪筋に言い寄らないよう命令する事もできたはずだ。とすると疑問が残る。水潮は何故、波穂の配下を取り込もうとしなかったのか。
──波穂は頭がいいんだから考えろよ。全体を見通して物事の奥深くまでさ。
あの時の水潮の言葉を思い出し、波穂はやられたと思った。配下の者を引き抜く必要なんかあるわけがない。波穂自身がすでに取り込まれていたも同然なのだ。
目指すものが似ているのなら、どちらが頭領になっても島にとってはさして変わることではない。なら、どちらかがどちらかの援護をした方がより確実に頭領の座を得られる。協力を暗に求められていたのに気付かなかった波穂の負けだ。話し合いを持てば頭領の座を譲ってくれたかもしれないが、波座たちの行動を握る水潮がここにいない以上、波穂の側が援護に回るしかない。最後まで水潮のいいようにされてしまうのは耐え難いことだったが、掟を守るのみの吹走に頭領の座を渡すわけにはいかなかった。
「波座組にかまうな! 吹走組を全力で阻止するぞ!」
腹の底から響かせた声は辺り一帯に響いた。波穂の配下の者たちは顔を輝かせて次々に復唱して伝達の確認をする。すると波座が片手を上げた。前もって決めてあったのか、波座の配下たちは次々と手を上げて仲間に合図を送る。
朝一番の突風が吹き抜けた。突風を受けると転覆すため、帆を畳んでやり過ごす。突風が過ぎ去った後、すぐさま帆を張り直し海風を一杯にはらませ操舵を開始した。もう舳先を何度も切り返しながら進む必要はない。二人の頭がまとめる二つの集団は今一つの集団となり、海風を後ろから受けまっすぐ標岩を目指す。
吹走の集団が右側から前方に割り込んできた。波座と波穂が速度を上げる。
その頃一艘の舟が、島から標岩へと一直線に疾走していた。
逆浪は吹走の右側を走っていた。反対側には海境、鍛錬不足がたたってよろけ遅れがちになりながらも、逆浪から注意を外さない。
標岩の上に棒が見えてきて、吹走を囲む陣形が崩れた。一人ひとりが自分の思惑で動き出す。我こそは頭領の資格ありと思う者は競い出て、誰かを頭領にしたいと思えばその者の援護をする。そこへ波座、波穂の集団が追いついてきた。自分たちの体勢が崩れるのをかまわず体当たりをする。当てられた側も負けじと体勢の維持に全力する。吹走の配下たちは標岩への航路を阻み、波座、波穂たちはそれを突破しようと体当たりを繰り返す。吹走の配下が一人攻防から脱落すると、できた隙間に波座が突っ込んで抜け出した。続いて別の隙間から波穂が。二人を阻止しようとして吹走の配下たちの連携がくずれる。二人を追いかけようとしても二集団の配下たちがそれを許さない。
波座と波穂はあらん限りの力をふりしぼり、前方で争う二艘の舟を目指していた。誰なのかわからない。しかし標岩までに追いつくことは不可能だった。波座が険しい顔を、波穂がくっとうめきをもらして諦めをよぎらせた時、標岩に左から突っ込んでくる影が見えた。
吹走は逆浪の進路を阻んでいた。逆浪は吹走を前へ抜こうとしていた。二艘の舟は標岩の右側に舳先を向けていた。あまりそれると、標岩を大きく一周しないとたどりつけなくなる。逆浪は舳先を切り返した。吹走は動かなかった。舳先が吹走の舟の横腹に強く当り、吹走は大きくよろめいた。二人の上を影が走った。一艘の舟が宙を舞う。帆を真横に倒し標岩の真上を飛ぶ。舟を操る者が伸ばした手が棒にかかり、引き抜いた。
勝負は決した。
吹走と逆浪は争うことをやめ、標岩を越えていった舟を追いかけた。標岩の向こうに飛んだ舟は横倒しになったまま水面に激突し波間に漂う。勝負が決すれば敵も味方もない。海では溺れた者を助けられる者が助けるという決まりがある。二人が水面に現れない操舵者を心配して海に潜ろうと舟を倒しかけたその時、人の頭が水面から飛び出した。げほげほと咳き込んでから心配顔の吹走と逆浪に笑顔とそして手にしたものを見せた。その様子を追いついた者たちも舟を止め、驚愕、あるいは歓喜の目で見つめる。
波間に浮かぶ水潮の手には布が結ばれた棒がしっかりと握られていた。
歴代初の女頭領誕生の瞬間だった。




