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10、

 波穂は路地を歩く水潮をつかまえて、さらに路地の奥へ呼び込んだ。

「昨日の話は理解した。俺は手を引いてもいい。だが波座はどうなんだ? 波座が今まで通り澪筋に迫るのなら見て見ぬふりなどできないぞ」

 恥を忍んで波穂は言った。昨日波穂が怒りだしたせいで話が中途半端に終わってしまっていた。水潮に話の主導権を握られているようなこの状況に屈辱を覚えるが、巫女のためを考えればきっちり話をつけておかなくてはならない。

 水潮はきょとんとした。

「波穂は波座が言ってどうにかなる相手だと思ってるのか?」

「そうは思わないからこうやって話しに来たんだ」

 波座は人の話を聞くような男じゃない。それがわかっていたから波座ではなく水潮と話をつけることにしたのだった。

「じゃあどうしたらいいと思う?」

「波座を牽制する度胸のある人間は俺とおまえしかいないだろう。結局は俺とおまえとで澪筋を守るしかないのではないか?」

「それじゃあ状況は変わんないじゃないか。澪筋は独り立ちしたいんだよ? 守られてばかりじゃ独りで立ち向かう勇気が育たないよ」

「しかし相手は波座だ。もし強引に出られたら、澪筋が敵うわけがない」

 言いながら波穂は焦りを覚えていた。もし、波座が強引に出たとして、波穂が全力で守ったとしても守り切れるかどうか。水潮はそういう心配を考えないのか。

 水潮は頭の後ろをぽりぽりと掻いた。

「あのさ、波穂は頭がいいんだからもう一ひねりか二ひねり考えろよ。澪筋に関して視野が狭すぎ。もっと全体を見通してみなって。澪筋にも言ったんだけど、自分が何をしたいのか、はっきりさせておくことは重要だよ。そうすれば、したいことを達成するためにどんな方法を取ればいいのかもおのずと定まってくる。方法ばかりに気をとられて本当の目的を忘れるなよ」

 波穂は眉をひそめた。

「何の話をしてるんだ?」

「波座にも波穂にしたのと同じ話をしたかどうかの話さ。波座には波座なりの話の仕方がある。あんまりやきもきさせても悪いから言うけど、ちゃんと話はついてるよ」

「……どうやって?」

 話はついてると言われても、にわかに信じられるものではない。何せ相手は波座だ。

「どうやってだろうね? 波穂だったらちょっと考えればすぐ答えがみつかるんじゃないか? ああいう男にはどういう対話方法が必要勝手ことがね」

 水潮は口の端を上げて意味ありげに笑った。


 海境は、今回は六日で帰ってきた。商人の欲しがっている物を届けただけなので、売った金をそのまま持ち帰り、荷はなく、みやげもなかった。子どもたちは面と向かって不満を言ったが、海境はそう頻繁には買ってこれはしないとたしなめた。

 その日の夕飯の輪ができたところで、島長は立ち上がり声を張り上げた。

「聞け! 年寄組と頭領との話し合いで今年海走りの儀式を行うこととなった。日は後日改めて報せる。海納めの前には行うことになるじゃろう」

 皆、特に男たちはざわめいた。自分が頭とあおぐ男の顔を一斉に見遣る。吹走は普段通りの様子で粥をすすり、波座は片眉を上げて笑みを浮かべた。波穂は平静を装いつつ、頭の中ではせわしく思考をめぐらす。

 今海走りの儀式が行われたら頭領になるどころか頭でいることもできなくなる!

 冷や汗の流れる思いだった。波穂の配下は今や水潮に取り込まれていた。すぐ飽きて戻ってくると考えていたのに、水潮が次々に教える演武を熱心に繰り返す。操舵も水潮に教わるようになった。水潮は体が小さく腕力が大きいわけではないので、同じ不利を負った波穂の配下たちは他の組の者より水潮に心酔していた。朝には今までと変わらず波穂の指示を聞きにくるので水潮の配下におさまったわけではないだろうが、今この場で波穂から離れると言いに来てもおかしくない。

「波穂」

 声をかけられ、飛び上がりそうになったのをかろうじてこらえた。

「何だ?」

 配下全員が波穂を見ていた。心臓がきしむ。波穂は覚悟を決め言葉を待った。

「作戦を話し合わなくていいんですか?」

 意表をつかれ、波穂は息を止め目を見開く。

「他は移動始めてますよ」

 吹走組も波座組も食べかけの椀を手に立ち上がり歩き出している。波穂は首を回し、他の組が向かわない方向を見つけた。

「北の岬の方へ」

 すると配下たちは元気よく立ち上がり勇んで歩いていく。内心呆けてついていくと、最初に声をかけてきた若者が、隣を歩きながら申し訳なさそうに言った。

「やっぱり黙っていられないんで本当のこと言いますね。実は水潮の下につこうかと一度は考えたんです」

 波穂の胸にやっぱりという思いが広がった。けれどもその落胆を押し隠し澄まして問う。

「ならば水潮についていけばよかっただろう。おまえたちに水潮は、俺が教える以上に有意義なことを教えてくれる。おまえたちが水潮を頭に選ぶのならそれは仕方のないことだ。それを俺が恨んだりする筋合いはない」

 若者はあははと軽く声を立てて笑った。

「波穂ならそんな感じのことを言うんじゃないかって、水潮が言ってました」

 波穂が眉根を寄せると、若者はすまなそうに苦笑いする。

「でも自分の利害を省みずそういうことを口にできる波穂は立派だって、水潮は言ってましたよ。俺もそう思います。水潮に、あなたを頭に選んだ理由を聞かれました。それで思い出したんです。小柄でも強くなれる操舵や武術の技術も魅力でしたが、それよりもあなたが掲げる理想に惚れたんだっていうことを。あなたは大陸のよいところをもっと島に取り入れたいと言ってましたよね? 島長たちは島の誇りを守るために大陸の物をできるだけ島に入れない方針でいますが、あなたは大陸の物を多少入れたところで島の誇りは失われない。よりよい生活が得られるなら大陸のよい物を買い入れるべきだと言いました。島の生活は強い男主体に成り立っています。体格がよく腕力のある男が何においても優先される。俺たちのような体の貧弱な男は体格のいい男たちの日陰に常に追いやられる。それをずっと屈辱的に思っていました。こんな思いを一生抱えなくてはならないと絶望したこともありました。ですがどうあっても埋められないと思っていた差を、あなたは大陸の食べ物を口にすることで埋めることができるかもしれないと希望を与えてくれた。

 そのことを話したら水潮は、恩人を裏切ってもいいのかって言ったんです。あなたは俺たちの心を救ってくれた心の恩人だ。海走りの儀式の直前にあなたから離れたら負い目を感じるのではないかと。それから男なら一度信じたことを簡単に違えるなって言われました。信じるに至った過程(みち)を信じろって。過程を信じられなかったら自分も信じられなくなる。自分を信じられるゆるがない自分を培うことのできた者だけが真に強い男になるって」

 照れ笑いし、これからも波穂についていきますと告げて先に行く。波穂は歩くのも忘れて呆然とした。これでは水潮に配下を引き抜かれたのと変わらない。配下とは頭に心酔しているということでもあるのだから。もしかして、同じことを全員が?

少しして、波穂の到着を待ちかねていた配下の者たちが呼びにくる。考え事をしていたと取り繕い、輪になった配下たち中に入った。いつものようにきびきびと指示を出したが、心の中は敗北感でいっぱいだった。


 夕飯が終わりそれぞれの家に戻った頃、日はすっかり落ちて村は真っ暗になる。どの家も暗がりになってからは手探りで寝に入る支度をする。ただ、集会所では足腰の弱い老人が暮らしているので、横になるまで小皿に油を張って小さな明かりを灯していた。

「話をしたいのですが、よろしいでしょうか?」

 この時間に訪れる者がいるのは珍しい。声だけで誰なのかわかった。訊ねておきながら水潮は返事を待たずに入ってくる。島長は顔をしかめた。

「まだいいとは言っておらん」

「いいと言ってはくださらないでしょう?」

 水潮は集会所いっぱいに敷かれた砂の上に膝だけを乗せて腰を落とした。

「話してもいいとも言ってくださらないでしょうから勝手に言います。海走りの儀式をできるだけ早く行って欲しいのです」

「早く行うほどそなたには不利なのではないか? 配下の一人も集めとらんようじゃが」

「心配してくださってありがたいですが」

「誰も心配なぞしとりゃせん」

 島長はふんと鼻を鳴らす。気に止めた様子なく水潮は話の続きを口にした。

「わたしの都合より、敵につけいる隙を与えないことの方が重要なのです。海走りの儀式の前後は島人たちも落ち着かず、大きな隙ができます。その隙に時機を合わせられるわけにはいかないのです」

 島長は目をすがめた。

「そなた敵、敵と言うが、敵とは誰のことを言っておるのじゃ? 今の話からすると誰ぞを疑っておるように聞こえるのじゃがのう」

「……今はまだ言えません。特定の人の名を挙げずに済んだらいいと思っています。──海走りの儀式の件を聞き入れてくださるのなら、あたしが頭領になれなかった折には島を出てゆきます」

 まっすぐな視線を向けてくる水潮を島長はねめつけた。

「……分の悪い取り引きじゃな」

 水潮は顎を引き控えめに言った。

「聞き入れてはもらえませんか?」

「そなたに分が悪いと言うておるのじゃ。……よかろう。頭領になれなくば島の掟に従い女として暮らせ。わしはそなたが掟を守りさえすれば追い出そうなどとは思いはせん」

 水潮は指を下につけて頭を下げた。

「ありがとうございます」

 水潮は立ち上がり、頭をぶつけないよう屈みながら入口の布をめくった。そこでふと小さく振り返る。

「掟にだけ従って生きていけたらいいと思います。けれどもそうすることで失ってしまうものがあることを、あたしは知っているから」

 言うだけ言って、水潮は布から手を離した。布は風吹き荒れる外の闇と風届かぬほのかに明るい部屋の中を、そして島長たちと水潮を隔てた。


 水潮が出て行ってから少しして、老人の一人がひょっひょっと笑い声を上げた。白くて薄くなった髪に長い顎鬚をもつ、ずいぶん年のいった男だ。島長はまだ白髪が混じりはじめたところだ。統率力があることから島長に選ばれているが、本当に老人と呼ばれる年齢の男たちから見ればまだまだ若造だった。

「孫娘がかわいくなったかのぅ」

 からかい口調にむすっとして島長は答えた。

「そうではない。あれは閼伽の血を引いておるやもしれぬからな」

 島長の頑固さに他の者たちも笑い出した。

「閼伽によう似とる。笑うと閼伽そっくりじゃて」

「それに男と渡りあう姿は浪煙そのものじゃ。ありゃあ間違いなく水潮じゃよ。おぬしもわかっておろうに。まだ認めてやる気になれんかのぅ」

 島長はむっとしながら明かりを手に取った。

「もったいない。切るぞ」

 返事を待たずに吹き消した。


 月が地平線から姿を現す。背に冴えた光を浴びて、海境の表情は影にまぎれた。

「命令を持ってきた」

 逆浪はびくっと体を揺らした。

「頭領になるように、だそうだ。水潮が申し入れたとおり、今年海走りの儀式が行われることになったな。吹走組に入ってるおまえなら、吹走に従う振りをして最後に勝利をかっさらえばいい。おまえの操舵の腕ならできるだろ。後──水潮を落せとのことだ」

「おと、す?」

「おまえの女にしろってことだよ」

 逆浪は息を飲んだ。青ざめる様子を、海境は満足そうに眺める。

「水潮はおまえに気があるんだって? だったら夫婦になっちまえばいい。女ってのはやさしくして甘い言葉でもささやいてやれば逆らわなくなるもんさ」

 まばたき一つせず立ちすくむ逆浪の肩に手を置き、声を低くして海境は言った。

「そうすれば“宝二つ”はやすやすと手に入り、島が再び血に染まる事はない。これは償いのためにおまえがしなくてはならないことだ」

 逆浪の肩を撫でるように叩きながら脇をすり抜け、海境は浜から村へと歩きはじめた。

 胸がすく気分だった。自分が受けた苦汁を、わずかばかりでも返せたことの満足感だった。

 十六の年に島を襲った惨劇は、海境の運命を大きく変えた。商いに携わる者たちは幸い全員無事だったが、逆浪の父親が裏切り者浪煙を追うために抜けることになった。父親が商いの頭であることから、若年だったが海境が加えられることとなった。珍しもの好きな海境には願ってもない話だった。しかし、希望の航海は二回目で悪夢に変わった。逆浪の父親が商いから抜ける際に紹介していった商人のつてが、実は暁洲国ぎょうすいこくの兵士だったのである。暁洲国とは内海西部に人工の湾を持つ大国だ。親切顔だった奴らに油断を誘われ、全員で陸に上がったところを捕えられた。暁洲国は島の宝に刻まれていると噂される財宝を狙っていた。そのようなもの、実際は存在しない。だが、大陸の者たちは信じなかった。父親たちは拷問に耐えきれず死んでいった。奴らは海境を手先にするために生かした。海境は手酷い拷問に気力も抵抗も根こそぎ奪われ、忠誠を誓わされた。

 動けない有様の海境に奴らは島への水先案内を命じた。島人たちは海境の怪我を心配し父親たち商いの者の不運を悲しんだが、看護にかこつけた奴らのつきっきりの監視に怯える海境に誰も気付かなかった。奴らが垂れ流す嘘を何の疑いもなく信じ込んだ島人たちに、海境は誰かが気付いて救ってくれるという望みを絶たれた。奴等は言った。生きているならば浪煙親子は宝を島に持ち帰るだろう。その日のために海境は大陸と島とを往復した。

 そして四年前、二度目の悲劇に見舞われる。

 前回以上の苦痛と絶望。今回もまるで気付かなかった島人たちへの完全なる諦め。

 その数ヶ月後に逆浪が帰ってきた。二度の拷問で徹底的に奪い尽くされたと思っていた憎悪の念が噴出した。逆浪は何事もなかったかのように島の生活に溶け込んでいた。元凶は逆浪とその父親にあるというのに。海境が間諜に身をやつすはめになったのも、そもそも島が襲われたのだって二人が島に賊を手引きしたせいだ。なのにのうのうと安穏と暮す逆浪が許せなかった。だから知りうることを逆浪の前で暴露して、脅しつけて手先にした。

 水潮が宝を持ち帰った今、ようやく海境の復讐が始まる。

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