第231話 一日の終わり
九条邸での初日が終わろうとしている。
一日の疲れを落とすべくお風呂に入ると、セレブな作りにどことなく旅行に来た気分になれた。
今日の仕事は晩飯を作った程度で、大半はおしゃべりと筋トレで終わった。明日からは本格的にこの家の掃除や雑用を始めよう。
風呂を出てリビングに戻ると、遥さんがラグの上に座り、紅茶を片手にノートとテキストを広げていた。音楽もテレビもなく、静寂の中にシャーペンの走る音だけが心地よく響いている。
「遥さんは寝る前に勉強するんですね」
邪魔しちゃ悪いと思いつつ、就寝前なので声を掛ける。
ペンを置き、普段はかけないメガネを外し、俺に向き合って顔をほころばせた。
「そうね、やることが終わってから眠くなるまで勉強してるわ」
「へえ、夜型なんですね。何時頃までするんです?」
「そうね、大体一時ぐらいかしら」
首を傾げて、大したことのないように言うが、あまりの遅さに驚いた。
「うわっ、そりゃかなりの夜ふかしですね……俺は平日は二十二時にはもう夢の中です」
俺の言葉に遥さんは飲みかけの紅茶を吹き出しそうになった。
「そ、それは早いわね。じゃあ朝は何時に起きるの?」
「五時です」
「へえー、それはまた随分と早起きね。辛くないのかしら?」
感心したように遥さんが言うが、俺にしてみれば当たり前のこと。深夜まで起きていられる遥さんのほうがよっぽどすごい。
「きっと俺は朝型なんでしょうね。まあ、こういうのも慣れですよ。それに朝は早めに学校に行って勉強をしてるんです」
「あら、そうなの? だったら私も早めに起きて学校行かないといけないかしら……私いつも遅めなのよね……」
俺の仕事は遥さんの護衛も兼ねているので、別々の登校は論外だ。
「あー……いや、そこは遥さんに合わせますよ」
とは言うが、朝の勉強が俺の学力の源でもある。だがしかし、俺は雇われの身。遥さんに合わせるのが筋だと思う。
そんな俺の気持ちを察したのか、遥さんがほんの少しの間、首を傾げる。そして真っ直ぐに俺を見据える。相変わらずの眼力に一瞬たじろいだ。
「私も生徒会長なんだから早めに学校に行かなくてはとは思っていたの。だから大丈夫。それに貴方の勉強が疎かになるのは避けたいわ」
「ああ、そう言ってもらえるなら。……でも、なるべく遥さんに合わせますからね」
俺の言葉に遥さんは目を細めた。
「蒼真くんは本当に優しいね。でも気を使いすぎよ。そんなんじゃこれから先、疲れちゃうわよ」
その言葉はそっくり返したかったが、ぐっと飲み込んだ。
「はは、疲れたらそう言いますよ。俺は結構正直なんで」
「よく言うわね……無理して自滅するタイプにしか見えないわよ」
呆れたように俺を見つめる遥さん。でも、すぐに柔らかい眼差しに変わる。彼女の優しい気遣いが胸を打つ。
「明日は日曜日なのでゆっくり休んでくださいね。俺は日課をこなすので早起きします。うるさかったら申し訳ないです」
「ふふ、偉いわね。私は大丈夫だから頑張ってね」
そう言って、そっと俺の頭を撫でてきた。くすぐったくも温かい感触がじんわりと胸に沁みる。
——姉弟っていいな。
「そうそう、トレーニングルームも活用してね。私の部屋とは離れてるから響かないと思うわ」
「じゃあお言葉に甘えて。あの部屋が使えるならかなり効率が上がります!」
季節や天候に関係なく運動ができるのは嬉しい限りだ。思わず顔がにやけてしまう。
「ふふ、本当に嬉しそうね。あの部屋を作ってよかったって思えるわね」
「はい! 遥さんも是非使いましょうね!」
「ああ、ええ……そうね……」
なぜか遠くを見つめる遥さん。運動を習慣づけるのは骨が折れそうだった。
遥さんにお休みを告げ、俺に充てがわれた九条邸のゲストルームの一室に入る。
荷物を一度置きに来た程度で、中の様子をまだじっくりと見ていなかったことに今更気づく。
広さは、これまで俺が住んだどの部屋よりも広い。
まるでホテルの一室のようで、ダブルベッドが置かれているのが寝相の悪い俺にはありがたかった。
机はホテルの備え付けよりも大きく、勉強するには申し分ない。収納もビルトインで、新しく家具を買い足す必要もなさそうだ。
クローゼットの中には真新しい制服が掛けられ、棚には未開封の部屋着や下着まできちんと揃えられている。
どこを見ても、遥さんの細やかな気遣いが行き届いていた。
机の上に可愛らしい黒猫のイラストが描かれた封筒が置いてあった。中を開くと遥さんからの手紙が入っていた。丁寧で綺麗な文字は彼女らしく感じた。
――蒼真くんへ。
私のわがままを聞いてくれて、本当にありがとう。
貴方への感謝は、言葉ではとても言い表せません。
これから半年という短い間だけれど、新しい「姉弟」としての生活が少しでも穏やかで楽しいものになりますように。
困ったことや不便なことがあったら、遠慮なく何でも相談してね。
多少のわがままなら、お姉ちゃんがちゃんと聞いてあげます。
……なんて言ってみても、きっと甘えてしまうのは私のほうかもしれないけれど。
これから、どうぞよろしくお願いします。
遥
「気を使いすぎだよ、お姉ちゃん……」
気持ちのこもった手紙に胸がじわっと熱くなった。
浅見さんからこの話を聞いた時は、あまりの現実味のなさに戸惑ったけど、結果として引き受けてよかったと今は思えた。
雪代家への郷愁も小さくはないが、週末に会うことを楽しみにして毎日を頑張っていこう。




