第229話 バスルームにて
一度は挫折した遥さんをなんとか励ましつつ、俺自身もたっぷりと筋トレに打ち込んだ。普段使わない筋肉を刺激して、心地よい疲労感が残る。明日はきっといい具合に筋肉痛だ。
大汗で横たわる遥さんが少し可哀想だけど、やはりこの人にはただならぬ色香がある。ほのかに漂う汗の香りまで高級感があるのはなんとも不思議だった。
ピンクのパーカーはすでに脱いでいて、白いタンクトップが汗をしっかり吸って透け感がある。それもまた艶めかしさを増していた。
「大丈夫ですか? 今日は先にお風呂にします? それともシャワーだけにします?」
「そうね……お風呂にしようかな。蒼真くん、悪いけど準備してもらってもいいかな。掃除はしてあるから、お湯を張るだけでいいわ……」
きゅっと目を瞑り、激しく胸が上下している。もう一歩も動けなそうな遥さんだった。
「了解です。でも、そんな状態で一人でお風呂に入れます?」
「少し休めば動けるわ……ホント駄目ね……運動を疎かにしすぎたわ」
後悔をにじませる言葉に彼女の真面目さを感じる。きっとこれからもこの部屋を活用してくれるだろう。俺も一緒にトレーニングはとても楽しかった。
「無理はしないでくださいね。じゃあお風呂入れてきます」
言われたとおり、お湯を張りに向かう。
九条邸のバスルームは、まるで高級ホテルのスイートのようだった。白を基調とした大理石の床と壁、天井まで続く大きな窓からは、やわらかな自然光が差し込み、湯面に反射してきらめく。広々としたバスタブは卵型のデザインで、二人は余裕で入れるほどのサイズ。バスソルトやオイルの瓶が整然と並び、柑橘とハーブが混ざった爽やかな香りが空間を包む。
「すご……。この広さじゃ掃除も大変だな」
毎日の仕事として風呂掃除は欠かせない。
他にも部屋の掃除や庭の手入れなど、やることは山ほどある。
これを一人でこなしてきた遥さんは、やっぱり只者じゃない。
学業でも、入学以来ずっと学年一位をキープしているらしい。
いったいどうやって時間をやり繰りしているんだろうか。
トレーニングルームに戻ると遥さんはヨガマットの上ですやすやと寝息を立てていた。
安らかな寝顔に思わず見惚れてしまう。
第一印象が恐怖の対象だったからだろうか。あの頃と印象は全く変わった遥さん。真逆と言っていいかもしれない。
でも、遥さん本人の雰囲気が変わった気はする。以前のほうが冷たい印象で近寄りがたかったが、今は壁を感じることはない。
打ち解けたのもあるだろうし、彼女自身も何かしらの変化があったのだろう。
そんな彼女のことはとても魅力的に見える。とはいっても、恋心とは違う。これが肉親の情というやつなのだろうか。
突然出来た姉だけど、現在の関係性はとても良好に思えた。
そっと髪に触れてみると、遥さんはゆっくりと目を覚ました。
「おはようございます。ごめんなさい起こしちゃって。でも、こんなところで薄着で寝たら風邪を引きますよ」
「あ……おはよう。うっかり寝ちゃったのね……ありがとう、もう大丈夫よ」
寝起きに辺りをキョロキョロ見渡す遥さん。見慣れぬ景色に戸惑いを感じたのだろうか。俺の顔を見て頬を緩めた。
「さあ、お風呂の準備が出来ましたよ。ゆっくり浸かって筋肉をほぐしてくださいね」
「うん、じゃあ行ってくるね」
少しの休養で随分回復が出来たようだ。これから先もトレーニングを続けてくれたらいいな。
そろそろ晩御飯の支度を始めよう。
――今日のメニューはどうしようか。遥さんの好き嫌いやアレルギーの有無も聞いておく必要があるな……。
遥さんに確認を取るべくバスルームに向かう。
脱衣所から声をかけた。
「お風呂の最中にすみません。晩御飯の支度を始めようと思いますが、何かリクエストはありますか?」
俺の声が届いたのだろうか、入口の扉から顔だけ覗かせる遥さん。すりガラス越しに見える肌色に心臓が跳ねた。
「ごめんね、よく聞こえなかったの。晩御飯?」
「あ、えっと、すみません! 晩御飯の支度をしようと思ったんですけど、何がいいかなって!」
微妙に声が上ずってしまったが、遥さんは気に留めた様子もなく話を続ける。
「そうね、じゃあ冷蔵庫の中にあるもの好きに使っていいからお願いしようかしら。好き嫌いやアレルギーはないからなんでも美味しく食べれるわよ」
「それはよかったです。じゃあ俺の方で決めさせてもらいますね。それと、すみません……その扉すりガラスなんで……見えちゃってます!」
「え? あ……キャアッ!!」
ようやく気づいた遥さん。慌てて風呂に飛び込んだようだ。
「ご、ごめんなさい! 大丈夫です! ぜんぜん見えてません!」
「いいから出ていって!」
慌てて脱衣所から退散する。彼女にとても悪いことをしてしまった。やはり風呂場には近寄るべきではなかったと大いに反省する……。
遥さん、気にしてなければいいが……。




