第224話 新生活の始まり
一月末の土曜日。
今日から九条家での住み込みバイトが始まる。
遥さんは「手ぶらで構わない」と言っていた。学校の制服までも新調してくれたらしい。
至れり尽くせりの厚意に、正直少し戸惑っている。
どうやらそれは、二箇所での生活が負担にならないように――さらには羽依への気遣いでもあるらしい。要は引っ越し感を出さない配慮だ。その優しさが遥さんの本質なんだと思った。
朝食を終えて、羽依と美咲さんは仕入れに出掛ける。
ここで一先ず、週末までのお別れだ。
美咲さんが俺を見つめ、寂しそうに手を握る。そしてぎゅっと抱きついてきた。ふわっと花のような甘く良い香りに包まれる。
「お母さんってば、週末帰って来るんだから全然平気って言ってたのにね~」
その様子を見ていた羽依にニヤニヤと冷やかされる。
「そう思ったんだけどねえ……なんとも寂しいもんだね」
美咲さんは俺を離すまいと力をさらに強める。ちょっとだけ苦しいけど、この柔らかさにはずっと埋もれていたい引力があった。
満足したように、その力を緩める。そして俺の頬に軽く唇を触れた。俺を慈しむ眼差しがなんとも言えずくすぐったい。愛されている実感をひしひしと感じた。
「私も蒼真に依存度が高いね。早いところ羽依を貰ってやるんだよ」
「んふ、いいぞ、もっと言え!」
ここぞとばかりに、ノリよく同調する羽依。
「あはは、それはいつか必ず。――週末は帰ってきますから、部屋は開けておいてくださいね」
「あの部屋はもう蒼真の部屋だからね。大丈夫だよ。エッチな私物もちゃんとそのままにしておくからさ」
――テ◯ガのこと、バレてたのかっ!?
「あはは、いや、なんだろう? でも、はい、そうですね。ありがとう?」
自分でももう何言ってるか分からない。そんな俺を見て二人は爆笑する。
「大丈夫だよ蒼真、ちゃんと分かってるから。いってらっしゃい、気をつけてね!」
そう言って俺に抱きつきキスをする羽依。
温かい雰囲気に包まれて、玄関の外まで見送りに来てくれた。
「そろそろお迎えが来る頃です。あ、あれかな?」
予定時刻丁度に、黒い高級車が静かに止まった。
運転席から降りてきたのは黒川さんだった。後部座席のドアを恭しく開け、遥さんが降りてきた。
膝丈のベージュのトレンチコートを羽織り、白いタートルネックのニットに淡いグレージュのプリーツスカートを品よく着こなしている。凛とした立ち姿が、冬の朝の空気までも引き締めているようだった。
「ありがとう、黒川」
「お足元にお気をつけてください、お嬢様」
その光景を俺から見ると、少し茶番めいて見えた。でも、当人たちは至って自然にこなしている。
研修中のフランクさのほうがむしろイレギュラーだったのだろうか。
遥さんは羽依に向かって腰の辺りで小さく手を振る。羽依はニコッと微笑んで軽く会釈を返す。
以前のような気まずさは感じられず、親しい先輩後輩のようだった。そんな関係性の良化に胸の奥がじんわりと温かくなった。
「はじめまして、九条遥と申します」
遥さんは美咲さんに恭しく頭を下げた。
「こちらこそ、いつも蒼真と羽依がお世話になってます。羽依の母親の雪代美咲です」
「まあ、お母様でらっしゃいますのっ!? てっきり羽依さんのお姉様かと思いました。彼女をさらに綺麗に大人にした感じで、よく似てらっしゃると思った次第です」
「あらあら、そんな、いやですよお嬢様!」
「蒼真くんは皆さまにとって家族同然と伺っております。私どももそのお気持ちを大切にし、責任をもってお預かりしたいと思っております。この度は私の勝手でご迷惑をおかけしてしまい、本当に申し訳ありませんでした」
「いえいえ、週末は帰って来るんだし、蒼真にもいい経験になることでしょう。こちらこそ蒼真をよろしくお願いしますね」
なんとも大人な儀式が、目の前で粛々と行われたようだった。ふと黒川さんと目が合い、ちょいちょいと手招きしてきた。
「いやあ……美咲さんか。蒼真が言ってた通りのとんでもない美人だな。それに迫力もある」
「でしょ。さすがは黒川さん。お目が高い」
「そして理央と同級生でもあるんだよな。世間の狭さも感じるよなあ」
「ですです。世間の狭さは俺も最近痛感したところです」
俺の幼馴染の女優さんが脳裏に浮かんだ。
「ほう? まあ色々あったんだろうな。後でゆっくり聞かせてくれよ」
ニヤッとしながら研修中と同じように接してくれる黒川さんに少しホッとした。
羽依がぽつんと一人になってしまったので、彼女の手を取り黒川さんに紹介する。
「この子が俺の彼女の羽依です。――羽依、こちらが研修のときにお世話になった黒川さんだよ」
俺の言葉に羽依が改めて黒川さんを見る。
「雪代羽依です、えっと、蒼真がお世話になりました……」
緊張した面持ちは男嫌いが故か。たどたどしい羽依の自己紹介を、黒川さんは穏やかな笑みで受け止めた。
「お噂はかねがね、蒼真や遥お嬢様から伺っております。はじめまして、黒川駿と申します。噂に違わぬとても美しいお嬢様だ」
そう言われると羽依は顔を真っ赤にして俺の後ろに隠れた。
そしてぼそっと「イケメンすぎて怖い」と、彼に聞こえないようにつぶやいた。
そして黒川さんと美咲さんも簡単な挨拶を終え、俺たちは車に乗り込んだ。
「蒼真、もういいか?」
「はい。大丈夫です。お二人とも、今日からよろしくお願いします」
窓を開けると、羽依と美咲さんはずっと手を振っていた。
――今生の別れでもないのにな……。
「いい人たちね、蒼真くん」
「はい。俺にはもったいないくらいの、温かい人たちです」
「それは違うわね。君がいい人だから、周りの人が暖かく迎え入れてくれるの。人間って、合わせ鏡みたいなものよね……」
その言葉は重く、彼女なりの経験から滲み出るようで、妙に説得力があった。
「そういうものなんですかね……」
「そんなものよ。――はい、どうぞ」
そう言ってハンカチを差し出された。気づけば頬を温かいものが伝っていた。
恥ずかしさと気まずさを紛らわせるように、窓の外を眺めながら目尻を拭った。




