第216話 平和な朝食
日曜日の朝。
すっかり元気になった俺は日課も再開した。
結局体をゆっくり休めたのは昨日だけだったが、体調はすこぶる良いようだ。
真桜は土日を雪代家で過ごした。俺の看病といいつつ、羽依とずっとイチャイチャしていた。そう、あれはまさに恋人の仕草。そして俺は蚊帳の外。
日々増していく百合度にもはや俺は邪魔者だったりするのだろうか。
そんな真桜と朝のジョギングをする。
「はあっ、はあっ、羽依はやっぱり来なかったんだね」
「そうね。『寒いから嫌』の一言だったわ。あの子も人には強要するわりに折れないわよね……」
「はは、羽依らしいよね……はあっ、はあっ、ていうか真桜、辛くないの?」
「ジョギングのことかしら。辛いわよ? 男子と同じペースはやっぱり大変ね」
走りながら語っているけど、もう折り返しの5kmを過ぎたところだった。辛そうにはまったく見えない真桜が少し怖かった。
最後に公園で軽くストレッチをしてから帰宅した。
玄関の前で、真桜が俺のジャージの裾をそっと引っ張った。
「よく頑張るわね、蒼真。昨日の朝はまだ具合が悪そうだったのに、病み上がりで10kmも走って……ほんとに無理してない?」
「うん。昨日の朝はまだ辛かったけど昼にはすっかり回復したし。二人の看病のおかげだね」
「ふふ、丈夫なのね。毎日走っててえらいわね。でも辛くならないの?」
真桜は目を細め、はにかむように微笑んだ。その柔らかな表情に、少し照れくさくなって視線を泳がせた。
「あー、最初の頃はきつかったけど、慣れると走らない日のほうが気持ち悪いかも」
真桜はそっと俺の首に腕を回し、顔を胸に押し当ててきた。
バランスを崩し、抱きつくような格好になる。
「んぐっ……いきなりどうしたの?」
「ん~、なんとなく。気持ちが溢れそうになっちゃったの」
その言葉と愛情たっぷりの笑顔に、思わず見惚れてしまった。
家に入るとご飯の炊ける匂いと味噌汁の良い香りが漂ってきた。
「二人ともおかえり~。朝ごはんそろそろ出来るからさ、シャワー浴びてきたら?」
ジョギングに行かない分、自分の仕事はきっちりとこなす。その真面目さが、なんだか愛しくなる。
抱きしめたい衝動に駆られたが、汗だくだったので我慢した。
「ああ、ありがとう。じゃあ真桜、先に入ってきてね」
「お言葉に甘えて。その間蒼真はしっかり体を拭いてね。また風邪引いてしまうわ。貴方は弱いんだからね」
真桜は意地悪くニヤニヤと笑いながらシャワーを浴びに行った。
「ったく、すっかり体の弱い子扱いかよ……」
「まあ仕方ないよね。私たち結局うつってなさそうだし。蒼真が一番弱い子で決定~!」
お玉を片手にニヤニヤする羽依。
「はいはい、体弱いから大事にしてね。それで、今日はこれからどうするの?」
「ん~、蒼真がここまで具合良くなると思わなかったからね。真桜と映画に行こうって言ってたんだけど、蒼真も来る? メンタル崩壊系邦画だけど」
「なにそれ……いや、パスしとくね。泣ける邦画って苦手なんだよね。一週間は引きずるから」
嫌いじゃないけど根が単純だからか、感情移入しすぎてしまうのが辛いところだった。
「ん、わかった。じゃあ今日は別行動だね。――志保さんのこと気になってるんじゃない?」
唐突に志保さんの名前が出てきて一瞬焦る。でも羽依の言う通りだった。
「うん、怪我もそうだし、風邪うつしてないかなって気にはなるんだよね……いや、変な意味じゃないよ? 俺が作ったご飯食べたからさ」
「わかってるってば。――蒼真、ごめんね。一昨日はちゃんと謝ってなかったから……」
視線を床に落とし、しょんぼりする羽依。素直に謝られると、それはそれで俺の胸も痛くなる。後ろめたさがまったくないわけじゃないのだから……。
「俺の方こそ約束の時間に間に合わなかったんだからさ、そう思われても仕方ないって。だからお互い様ってことにしとこうね」
「ん。――蒼真、ぎゅってして?」
「汗だくなんだけど……いいの?」
言い終わる前に羽依が俺にしがみついてきた。羽依の華奢な肩をそっと抱き、その綺麗な顔を眺める。美人だなっていつも思う。柔らかく瑞々しいその唇をそっと口で塞いだ。
「二人ともお熱いわね」
「ひゃあっ!」「真桜っ、いつの間に!」
間近で声がして心臓が止まりそうになった。真横に真桜がいて二人でひっくり返りそうになった。
「ふふ、昨日の仕返しよ。さ、蒼真。シャワー浴びてきてね」
完全に気配を消すとは……さすがは真桜。
さっとシャワーを浴び、しっかりと体を拭き上げ食卓に戻る。
タイミングよく朝ごはんが並んでいた。
今日の献立は、ハムエッグ、サラダ、納豆、なめこの味噌汁と、毎朝でもいける内容だ。
「おはよーみんな。今日は羽依が作ったのかい?」
「おはようお母さん、そだよー。それよりちゃんと寝癖直してからご飯にしようね。真桜が来てるんだからさっ!」
相変わらず美咲さんには厳しい羽依だった。
美咲さんも「ほーい」と素直に洗面所に向かった。
「ふふ、私は気にしないのにね」
「私が気にするのっ! 家だと油断しまくるんだから……ね!」
同調を求める羽依に、思わず視線を泳がせる。
「あー、うん。まあ家だからね。そんなもんじゃない?」
美咲さんの身だしなみについては確かに異論はない。ノーブラ且つ首周りが緩すぎるTシャツ姿が多く、羽依にいつも怒られていた。しかしながら居候の身なので家主に意見など言えるはずもないし、家ではリラックスしてもらいたいのもある。したがって、中立の立場を堅持していた。
決して、緩いTシャツの下で豊かにそびえる双丘を密かに愛でているわけではない。
美咲さんが戻ってきたところで朝食を頂いた。
羽依の作ったなめこの味噌汁を飲んでみると俺よりも少しだけ薄味な気がする。これが羽依の好みの味付けなのだろうか。
このぐらいも嫌いじゃない。次回はこの味を目指してみよう。
ふと真桜と目が合った。彼女はじっと俺を見つめ思案顔を浮かべる。
「蒼真は今日は一緒に来ないのね。じゃあ羽依、ついでに買い物にも行きましょう。春物を羽依のセンスで見立ててもらいたいの」
「そだね~、少しずつ新作が出始めてるはず。チェックしよう!」
真桜の劇的なイメチェンは羽依プロデュースによるものだった。田舎のお嬢様からすっかり垢抜けた都会っ子に変わっていく様は、俺に対しても少なからずの焦燥感を与えた。
端的に言えば俺ももっとオシャレがしてみたい。とは言っても予算が潤沢にあるわけではないのが難しいところだった。
二人は賑やかにお出かけの計画を語り合う。
その姿はお似合いの恋人のように見えた。
「蒼真、真桜ちゃんに羽依とられちゃいそうだね」
美咲さんがニヤニヤして俺に肘でつつく。
「あはは……今更ですよ……」
美咲さんは「そっかそっか」と笑いつつ、美味しそうに羽依の作った味噌汁を飲み干した。
朝食を終え、羽依と真桜は支度をさっと済ませすぐに出かけた。美咲さんも今日は用があるそうで車で出かけた。
雪代家で一人残されることは珍しいのでどこか落ち着かない。
志保さんにLINEをと思ったが、気になることもあるので直接電話をかけてみた。
数回コールの後、志保さんが電話に出た。
「……蒼真くん? どうしたのかしら……ゴホッゴホッ。あ、ごめんね……」
「ああ、志保さん……この前はどうも。突然電話なんてしてすみません。もしかして風邪引いちゃいました?」
「え……うん。もしかして蒼真くんも?」
「はい。俺は昨日のうちにすぐ治ったんだけど、志保さんは具合悪そうですね。声がガラガラだし……」
「やだ、恥ずかしい……でも大丈夫だよ。……心配してくれるの?」
「当たり前ですよ。俺がうつしたかも知れないのに。足も怪我してるんだから。今からそっち行ってもいいですか?」
「え? なんで?」
「……心配だから。じゃ、だめですか? いいです、行きますからね! 大人しくしていてください!」
断りそうな雰囲気を察して強引に行くと宣言して電話を切った。
余計なお世話だったんだろうか。いや、今はこの嫌な予感に従おう。放ってはおけない、そんな気持ちでいっぱいだった。




