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第43話 魔族令嬢は、森の悪魔から逃げる

 熱かった。まるで火に飲み込まれているようだわ。動かす足や腕がきしむ。締め付けられる喉から出る細い息も酷く熱いし、頭の芯がぐらぐらと揺れている。


 ここはどこだろう。

 昏い。煉獄というものがあるのなら、ここがその入り口なのではないか。

 不安に鼓動が早まっていく。重たい身体を引きずるように立ち上がり、揺らめく景色を見回した。


「ここは……森?」


 生い茂る樹木の先は昏く、どこまで続いているのかわからない。頭上を見上げると、木々の間から冷たい月が見えた。

 冷たい風が吹き抜け、ざわざわと木々が騒ぎ、背中を叩いた。


 くすくすと笑い声が聞こえる。


『悪魔が来るよ。悪い子は、煉獄に連れていかれるよ』


 ぞくりと背筋が震えた。


『ほら逃げないと。魔族は煉獄に連れていかれる』

「……誰!? 誰か、いるの!?」

『足音が聞こえないの? 悪魔はそこにいるよ。ほら逃げないと』


 どこから聞こえてくるのかわからない声に、背中を叩かれたようだった。

 震える足で踏み出す。ひたりひたりと石畳を蹴った。そのたびに身体が痛む。それでも、走った。


 ここから逃げないと。でも、逃げるってどこに?


 石畳がどこに続いているかわからない。もしかしたら、この先が煉獄なのかもしれない。


 足ががくがくと震えた。

 立ち止まり、来た道を振り返ろうとした時、脳裏に「森に行っちゃダメっていったでしょ」と叱る母の顔が浮かんだ。「女の身で森に入るな!」と烈火のごとく怒る父と、私の手を握って「だからいったのに」とため息をつくお兄様。抱きしめてくれたお姉様たち。──これはいつの記憶? 幼い頃?


 熱い息を吐き出しながら、振り返ることも、進むことも出来なくなった。


「……ごめんなさい、お母様、お父様」


 ぼろぼろと涙があふれた。

 だけど、ここには私の手を引っ張ってくれるお兄様も、抱きしめてくれるお姉様もいない。私は一人……孤独感が膨れ上がり、昏い森がざわめき出した。


 覆いかぶさるように木々が迫ってくる。

 逃げないと。そう思いながらも、身体が固くなる。


「でも……小鳥が……鳴いていたの。助けてって、声が」


 幼い記憶が私の意識を混濁させていく。

 膝を抱え、石畳の上で体を丸めて嗚咽を堪えた。もう、一歩も動けなかった。


 暗闇を引き裂くような笑い声が聞こえてきた。悪意に満ちた笑い声がこだまし、木々を揺らす。冷ややかな風が強まり、木の葉が舞った。


 こつこつと靴が石畳を鳴らす。誰かが近づいてくる。今度こそ、煉獄の悪魔が近づいてくるのか。

 あんなに熱かった身体が冷えていき、震えが止まらなくなった。

 

「助けて」


 震えながら唇が動く。

 誰か助けて。一人は怖い。もう、森になんて来ないから。──小さく震える私の背を、誰かが叩いた。


『こっちだよ』


 知らない声が囁いた。それは優しく、私の心に柔らかい風を吹き込んできた。

 震える手を、誰かが掴んだ。

 白磁のようになめらかな白い手が、私を引き上げる。導かれるように、ふらつきながら立ち上がると、もう一度『こっちだよ』と声がした。


 足を一歩前に踏み出し、柔らかな手を握りしめれば、応えるように握り返される。


 顔を上げる、黄色いドレスが揺れた。

 真っ暗な森の中に差し込んだ月あかりが、キラキラとその人を輝かせる。揺れるスカートに咲くのは、まるでヒマワリの花。


 この人を、私は知っている?


 私の手を引く後ろ姿を見つめ、深く息を吸い込んだ。その瞬間、風が吹き抜け、真っ暗だった視界に光が溢れた。

 森の木々が遠ざかる。

 私の前を走っていたその人は、一つの石碑の前で立ち止まった。


 再び強い風が吹き抜ける。その人が被っていた帽子が吹き飛ばされ、柔らかなハニーブロンドの髪が揺れた。

 

 光が強くなる。その中、ゆっくり振り返ったその人は、柔らかな微笑みが浮かべた。そうして、小さな唇で「リリアナ」と呟いた。


「あなたは……エリザ様?」


 優しい微笑みが光に飲み込まれていく。それに手を伸ばして「待って!」と叫んだ時──


「リリアナ!」


 目を開けた先に、不安そうな顔をしたエドワードがいた。美しい若葉色の瞳が潤み、頬を涙が伝い落ちる。


「……エド?」

「ああ、そうだ。私だ。エドワードだ……」


 温かい手が頬に触れる。

 ガラス細工に触れるように、額と頬、髪にと触れたエドワードは、深い息をつくと「よかった」と呟いて私の手を握りしめた。

 エドワードの後ろには、涙を流すデイジーがいた。

次回、明日8時頃の更新となります


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