5月30日(金)ランチは楽しく食べましょう
少し短めです。すみません。
「の~んたん」
お昼休み、カフェテラスで注文したランチボックスを受け取っていると、後ろからよく通る楽し気な声が私を呼んだ。
ざわついていた周りが、その声でシンと静まる。
その場にいた全員の視線が私の後頭部に突き刺さったような気がして、私は思わず動きを止めた。
「あ、あの……。本日は牛タンどんぶりでお間違いない……ですか?」
受け取ったところで固まった私を見て、カフェテラスのスタッフさんが恐る恐る声をかける。
いえ、間違ってません。
牛タンで間違ってません! アプリで新商品の画像を見てすぐに決めたんだもの。すっっっごく楽しみにしてたんだもの。これに間違いはありません。
ただ、後ろにいるであろう人物のことは、間違いだったらいいなぁと思っている。
このまま振り返らずにいたら、そのまま通り過ぎてはくれないだろうか、なんてそんな淡い期待を抱いてたんだけど……。
「おっ。牛タン? 今日からだっけ? ちぇ~。僕来週からだと勘違いしていたよ。ねえ、のんたん。おかず少し交換してくれない?」
親しげな言葉と共に、頭にポンポンと手のひらの感触。
息を潜めていた周囲が、まるで一気にスイッチが入ったかのように騒ぎ出した。
ギギギギギとぎこちない動きで横を見ると、そこにはにっこりと微笑む和沙さん。
「ねえ、のんたん。ダメ?」
「ダ……ダメ、です」
だから早く離れてくれ! そう祈りながらなんとか言葉にすると、和沙さんはつまらなそうに口を尖らせ、一層大きな声でぼやいた。
「え~。どうしても? だめ? 僕の幕の内の松だよ? ローストビーフが入ってるよ? いつも一緒に食べてる仲じゃない」
ちょっと! そんなこと大きな声で言わなくてもいいじゃない!
これは絶対わざとだ。そうに違いない。和沙さんはそういう人だ。
交流会での出来事から、会うとにこやかに、一見とてもフレンドリーに話しかけてくれるようになったんだけど、陰の悪魔っぷりを知ってるからどうしてもビクビクしてしまう。
こんなに食い下がるのだって、別に本当に牛タンが食べたいわけじゃない。
だって和沙さんだ。一言そういえば、お家の夕飯にとびきりゴージャスが牛タンが並ぶに違いないんだ。
……でもローストビーフは気になるな……。
幕の内弁当の松か……。
毎日おかずが変わる、お弁当の中でも人気の高い幕の内弁当は、松竹梅とランクが分かれている。
その中の松は言わずもがな、一番高価なものだ。
値段は確か……壁のメニュー表をチラリと見ると、そこには『10,000円』の文字があった。
い、いちまんえん! お昼ご飯でいちまんえん! 高校生のお昼がいちまんえん! なんてこったい!
でも待てよ……。そんな10,000円のお弁当のローストビーフなら、さぞかし美味しいんだろうなぁ……。
いや、でも和沙さんには気を付けなければ。
私はローストビーフの誘惑に負けじと、首を振った。
「い、いえ。いいです。私、今日は牛タンの気分なんです」
なんだよ牛タン気分って! 女子高生のセリフじゃないよ!
「え~。僕も牛タンの気分なのにな~」
「和沙。のんたんが困っているじゃないか」
助け船!と思いきや、声をかけてきたのは諏訪会長。これでは周りは更に騒いでしまう。
私は茅野ちゃんの腕をひくと、素早くその場を離れようとした。
「待ってくれ。一緒に行こう」
……デスヨネ~。行き先一緒ですもんね~。
それでもカフェテラスを離れ、図書館へと続く渡り廊下に差し掛かると、他の生徒はずいぶんと減る。
やっと息苦しさがなくなる。
「のんたん、それも持とうか」
「いえ、お弁当くらい自分で持てます。それよりその……のんたんって呼び方なんですけど……」
できれば止めて欲しい。
会長が呼ばなくなれば、和沙さんもきっと止めるだろうし、周りの視線も痛くなくなると思うんだけど。
「――そう呼んではいけないだろうか。実は……恥ずかしい話だが、僕は人を愛称で呼んだことがないんだ」
いや、それなら余計に遠慮したいんですけども。
「くまのカフェでのんたんと呼ばれてる君を見て、その呼び名がとてもしっくりしていて、そしてとても羨ましかったんだ」
「羨ましい? どうしてですか?」
「僕は、人を愛称で呼んだこともない。そして、呼ばれたこともないからだよ。――聞けば、のんたん。君は鷹臣のこともたっくんと呼んでいると聞いたんだが」
グハッ
横を歩いている和沙さんを睨み付けると、悪びれた様子もなく「仲良しさんなんだよね~」と微笑み返された。
「仲良しじゃ、ありませんっ!」
「そうなのかい? でも、鷹臣はどうだろう? 僕は彼とも付き合いは長いけれども、あんな風に女子生徒に接する鷹臣は見たことがない」
「それは……私が新聞部だったから、訂正記事を書かせるためだけだと思います」
「そうだろうか? いずれにしても、のんたん。君はとても、人の懐に入り込むのが上手だと思ったんだ」
……望んでない相手が多い気がするので、入り込むどころか全力で逃げたいですけどね!
「だから、僕も是非君をのんたんと呼びたいと思っている」
え。それなんの宣言ですか。しかも、だからって何ですか。理由になっていない気がするんですけど。
「ダメだろうか」
そうストレートに聞かれちゃうとですね……ダメ……ではないよね。
ここまで言われて嫌だとか、そんな風には思わない。
出来れば穏やかな高校生活を送りたかったけど……。そう考えて周りを見る。
諏訪会長に和沙さん、彼らに遠慮してか少し離れて歩く丞くんとマイケル、風斗くん。そして隣には茅乃ちゃん。きっとラウンジにはたっくんもいるだろう。
学園のアイドルが4人も揃っている。
でも、居心地が悪いわけではなくなっている(和沙さんを除く)。
きっと、私にとってもこれが日常になりつつあるってことなんだろう。
それなら、腹をくくるかって気にもなるよね。
「いえ、いいですよ」
そう応えると、会長は「そうか」とホッとした表情を見せた。
そんな表情は、年相応な感じがしてね。なんだか一気に親しみも沸くんだから不思議だよね。
いいさいいさ。もうなるようになればいいよ。
こうなったらもうヤケだ。
「じゃあ、茅乃ちゃんも愛称で呼んではどうでしょう?」
「是非、そうしたいな。なにか愛称はあるのかい?」
「あ。私も聞きたい!」
「……えっ……ええと……家族はカヤって呼びます……」
「では、僕もカヤと呼んでも?」
「は、はい……」
ふふふふ。茅乃ちゃんたら顔が赤くなってる。かわいい。
きっとここでまたアイドル中のアイドルが会話に入ってくるんだろうな。なんて思いながら何の気なしに横を見ると、和沙さんは無表情で、しかもビックリする位冷たい目でこちらを見ていた。
でもそれはほんの一瞬のことで。
次の瞬間には完璧な笑顔を貼りつけて、「雨音だけずる~い。僕ものんたんって呼ぶも~ん」なんて言うもんだから、ついつい「あ、ハイ」って言っちゃったよね。
しかも、「でも、カヤはダメだよ。僕だけだからね」なんて会長が言うもんだから、茅乃ちゃんは益々顔を赤くしていた。
へーへー。私はオマケですからね。
それにしても……あの冷たい目は一体なんだったんだろう。
それまでも漏れ聞こえてた和沙さんは、確かに天使の顔をした悪魔、という感じではあったんだ。
けど、それでも口と根性が悪いと感じただけで、怖さを感じたことはなかったんだけど……。
見間違いかなぁ?
首を傾げると、茅乃ちゃんが不思議そうに「……どうしたの?」と尋ねてきた。
その質問に首を振ると、話題は自然と、明日のゴールドバーグデパートのレセプションパーティーに移った。
この場にいる全員が出席し、しかも主催者側のマイケルもいたため、この日のお昼はパーティーの話題でもちきりとなった。
普段はあまりグループの会話に加わらないたっくんまでもが、世界一のデパート、ゴールドバーグが今日本に来たことに関しては興味があるらしい。
そんなたっくんが珍しく会話に加わり、この日はランチ会始まって以来の賑わいとなったんだ。
だからね、普段いつも会話に入っている和沙さんがやけに静かだったこと、全然気がつかなかったんだ。
随分後になって、和沙さんに言われた。
「僕はね、この時、君が僕らの日常をぶっ壊す子だって、確信したんだよ」




