5月3日(金)蕾は開かなかったのです
「どうしたんだ、のどか。落ち着かないな」
「えっ?」
速水家のダイニングルームで、綾さんが作ってくれたランチをつついていると、正樹お兄ちゃんが怪訝な顔をして尋ねてきた。
「な、なにが?」
「昨日からおかしいぞ、お前。やたらソワソワしてるし、集中力がなかった」
「あら……試験結果、思ったほどじゃなかったとか?」
今日はお休みだという綾さんも心配そうに私の顔を覗き込む。
いえ……試験はどちらかというと、思った以上に結果良かったんですよ。なんでも、私の席はクラスで2番目の成績だったそうです。
1番は丞くん。それで私は丞くんの隣だったようだ。
3番目が茅乃ちゃんで、その次が山科さん。実際それで席替えすると、女子生徒が隣に並んだりするんだよね。ちなみに、教卓前の風斗くんは両隣りどころか、後ろも男子で本当に落ち込んでた。丞くんが慰めてたけど、ちょっと笑いそうになってたな。
(丞くん――)
ふと浮かんだその名前にドキリとして、手にしていたスプーンを落としてしまった。
「あらあら。ぼんやりして……大丈夫? 正樹、勉強の教え方が厳しいんじゃないの?」
「え? 俺!?」
小さな声で謝ると、綾さんは「気にすることないのよ」と優しく声をかけてくれ、すぐに替えのスプーンを持ってきてくれた。
今日のお昼は、綾さん特製のマカロニグラタン。表面がまだグツグツと煮えていておいしそうな匂いがしていたグラタンだけど、今はもうすっかり冷えてしまっている。濃厚なのにクリーミーな特製のホワイトソース、絶品なのに今日はなんだか胸がいっぱいで食が進まない。
「正樹に送らせるから、まだうちでゆっくりして行ったら? なんだか心配だわ」
「俺? 夕方、出かける予定だったんだけど……。母さんは車出せないの?」
「今日はたっくんにお料理を教える日だもの……。そうだ、のどかちゃん。気分転換にお料理はどう? それが終わったらおばさん、車で送るわ」
いやいやいや、それは遠慮します! たっくんと一緒に料理とか、色々面倒なことになりそうなので勘弁してください。
図書館の休憩所で諏訪生徒会長とその仲間たちと遭遇してからというもの、会長はあれこれと理由をつけて茅乃ちゃんを翌日のランチに誘うことに成功しており、結果、私も一緒にお昼を食べている。天使の笑顔を貼りつけた悪魔の和沙さんとは挨拶は交わすものの、たっくんは冷たいオーラをまとい、距離を縮めようとはしなかった。
(それでも、さすがに毎日だと顔は覚えられてると思うんだよねぇ……)
「せっかくですが、今日は遠慮させてください。試験が終わって緊張が解けたのか、なんだかぼうっとしちゃって……色々失敗しちゃいそうなので、また今度是非お願いします」
「そう? そうね……怪我しちゃうと大変だものね。でも大丈夫? 今日は美樹さんたち帰りが遅いんでしょう?」
「大丈夫です。いない方がかえってゆっくり休めますよ」
「なら、家まで送るよ。夕方の待ち合わせに間に合うように出れば大丈夫だからさ」
「うん。じゃあ、お願い」
そうだ。家に帰ってゆっくり休もう。
引っ越してきたばかりとはいっても、やっぱり自分の部屋って落ち着く。速水のお家はお兄ちゃんを始め、とても親身になってくれるんだけど、やっぱりどこか遠慮してる自分がいるんだ。
家に帰って、部屋に閉じこもろう。そうしよう。
そう思ったのに、いざ家に帰ってひとりになってみると、全然ゆっくりできなかった。
ベッドに横になって目を閉じても、やけに心がざわついてじっとしていられない。何度寝返りを打っても寝付けなくて結局起きがってウロウロと歩き回ってしまう始末。頭の中は今日一緒にでかけているであろう丞くんと茅乃ちゃんのことでいっぱいだった。
時間は午後の2時になろうとしている。
ふたりはまだ一緒なのかな。お昼、ふたりだけで食べに行ったよね。どんな話してるんだろう。――どうして、丞くんは茅乃ちゃんを誘ったんだろう。
どうしよう、どうしよう。私はどうしたらいいんだろう。どう、したいんだろう。
手のひらがじんわり汗ばんで、鼓動がやけに早く感じる。いやだ、嫌だ。
私はふと気づいてしまったんだ。こんな時、嫌な自分をさらけ出して心の全部を預けられる人が、今の私にはいないってことに。
それが無性に寂しくて、ひとりになりたいって思ったくせに、ひとりが怖くなって、家を飛び出した。
街を歩きながら、色々な人の顔を思い浮かべた。
ママ、お兄ちゃん、巴さん――皆大好きだけど、今のぐちゃぐちゃの感情をぶつけられる相手じゃなかった。
ひとりが嫌で外に出たものの、この街にはまだ詳しくない。結局、足はくまのカフェに向いていた。お店に入ろうかどうしようか、迷っていると、ポケットに入れていたスマホから軽快なメロディが流れてきた。
「た、丞くん!?」
画面に表示されたのは、昨晩からずっと私の頭の中央にどっかりと居座っていた丞くんだった。
「も、もしもし!」
『――あ、のどか? ごめんな、突然。今、いいかな』
「うん! もちろん!」
急にどうしたんだろう。お店の前の通りは車通りも多くて少し騒がしい。私はお店の横の路地に入ると、そのまま裏通りに向かった。お店の駐車場があるそこは、表通りとは違って道も細く人通りもまばらだ。
「ど、どしたの? あの、ホラ。今日その……茅乃ちゃんと出かけたんじゃ……」
『あ……うん』
丞くんは、電話をかけてきたものの言葉を濁して黙り込んでしまった。こんな丞くんははじめてだ。
「な、なにかあったの?」
『……』
「あの、私、話して欲しいよ。だって丞くんはこの街で最初の友達だから! 私のこと、いっぱい助けてくれたから!」
『のどか……』
「ん、なに? 遠慮しないでなんでも言ってよ!」
なおも言いよどむ丞くんが心配で、私はなんでもどんとこい!って気持ちで明るく聞いた。丞くんがどんな感情を抱えていたか、知らなかったから。だから本当になんでも受け止めたいって思ったんだ。
『――僕、今日茅乃ちゃんに振られた』
「えっ!」
『いきなり、ビックリしたよね』
「え、あの……う、うん」
振られたってことは、丞くんが好きなのは茅乃ちゃんってこと? それとも、今日の約束がキャンセルになったってことだろうか。後者であってほしい。そんな身勝手な考えが頭をよぎった。
「それって、あの……どういう、意味?」
『今日会った時、告白したんだ。茅乃ちゃんには、友達としか思ってないって言われたよ』
「……そ、そうなんだ……」
『まだ時期尚早かな、とも思ったんだけど……諏訪会長の行動に焦って……結局茅乃ちゃんを困らせて……僕、最低だな』
「……」
『びっくりしたよな。ごめん、突然』
「うん……びっくりした……。どうして、私に?」
『気持ちを伝えてスッキリした想いと、届かなかった悲しさと、なんかぐちゃぐちゃになってて。のどかにしか頼めなくて。――迷惑だったよね』
「そんなことないよ!! 茅乃ちゃんも、ビックリしただけかもしれない!」
ああ、私、何言ってるんだろう。そ、れに頼みって?
『そう、かな。だといいんだけど』
「きっとそうだよ!」
『ありがとう。――のどか、こんなこと頼めるの、のどかしかいないんだ。あのさ、茅乃ちゃんのこと頼めるかな』
「え?」
『ひとりで日本に来てただでさえ寂しい思いをしているのに、ひどく混乱させてしまって……。茅乃ちゃんの力になってやってくれないかな。僕が相手だと、気を使ってしまうだろうし」
「……うん、わかったよ。まかせて! でも、丞くんは……」
『うん。大丈夫。諦める気もないしね。気持ちを伝えたぶん、肩の荷はおりたよ。あとはのんびりと構えるさ。時間がかかっても、僕を向いて欲しいから』
そう話す丞くんの声は最初とは違ってとても清々しいものだった。私へのこの電話も、自分が苦しくてというよりも、茅乃ちゃんのため。丞くんの想いに応えられないことで茅乃ちゃんが罪悪感を抱かないよう、私にフォローを頼むためだったんだ。それを遂げることができてホッとしたんだろう。
電話を切ってポケットに戻そうとした私は、手が震えているのに気が付いた。
ああ、私、本当に馬鹿だ。
丞くんはずっと茅乃ちゃんを見てたんだ。茅乃ちゃんが最初ひとりで行動してたことに気づいたのも、諏訪会長が茅乃ちゃんの前に現れてからなんだか機嫌が悪かったのも、全部茅乃ちゃんが好きだったからなんだ……。
(そうかぁ……丞くん、茅乃ちゃんが好きだったんだ……)
脱力して壁に背中をつけて空を見上げる。路地から見上げる空は、細くてとても遠くに感じた。青空に浮かぶ雲がどんどん霞む。私は涙をこらえることが出来なくて、拭うこともせずにそのまま泣いた。
気持ちを伝える前に、砕け散っちゃった。でも、茅乃ちゃんを嫌いになることもできない。誰も悪くない。ただ、私が自分の気持ちに気づくのが遅かった分、今苦しいだけなんだ。
「――おい。何してんだよ」
どんどん溢れてくる涙で、既に瞼は重い。鼻水も出てきちゃってもう色々グズグズなんだよ。こんな時に現れて話しかけないでくれるかな。拓真先輩。
「……ほっといて、ください」
熱い塊が喉につっかえているようで、言葉がうまく出ない。でも、伝わったはずだ。拒絶するように拓真先輩に背中を向けると、私はしゃがみ込んで膝を抱え、顔を伏せた。
あ、この体制、泣きやすい。よし、とことん泣いてやる。そう思ったのに、腕を強く掴まれ、強制的に立たされた。
「来い。送ってやる」
「ちょ、ちょっと……拓真先輩!」
そのまま引きずられるように拓真先輩の車まで連れて行かれると、後部座席に押し込められた。そして、なぜか拓真先輩もそのまま後部に乗り込んできた。
なんでだ。
「……なんで後ろ乗る、んですか」
「丞に振られたのか?」
「……っ……な、なんで……」
振られてない。振られてないよ。ただ、入る隙が見出せなくて、私は尻尾巻いて逃げたんだ。だって丞くんも、茅乃ちゃんも、望んでいるのはトモダチとしての私だ。私はそれを跳ね除けて主張できるほど強くなかった。情けない。本当に情けない。こんな自分は本当に嫌。
「泣くな、とは言わない。でも、抱え込むな」
「……ひっく……」
「ちゃんと、外に吐き出せ。――聞いてやる。俺が受け止めてやるから」
拓真先輩は私の肩に大きな手を乗せると、そのまま引き寄せてすっぽりと私を抱き込んだ。そしてビックリして固まる私の背中を、あやすようにゆっくりと撫でた。
「あの時は、茶化して悪かった」
「……うっ……丞くん、他に好きな子が、いるって……」
「――そうか」
拓真先輩は、誰を責めるでもなく、私のつたない話を静かに相槌を打ちながら根気強く聞いてくれた。その間先輩はずっと私を抱きしめてくれていて、私もいつの間にか拓真先輩の胸にしがみついてワンワンと泣いた。
「伝える前に、おわ……っちゃった……」
「そうか……蕾は開かなかったか。でも、女の子だもんな。咲かせたかったよな」
今日に限って拓真先輩はすごく優しくて。私はそれに甘えて拓真先輩の服を涙と鼻水と涎でぐしょぐしょに濡らしたけれど、先輩は最後まで優しく背中を撫でてくれた。




