第01話 いせかいに とばされました。
「……ちょ…………お客さ……」
耳元で女の人の声がする。
誰だ?
……あぁ……何だ、母さんか……。そういえば、7時になっても起きて来なかったら起こしてくれ……と頼んでいた気がする……。
頭はだいぶ目覚めてきたが、体がまだベッドから出たくないと起きる事を拒んでいる。
正直な所、30分に起きても学校には間に合うし……もう少し……。
「う~ん……後、少し……5分で起きる……」
「…………して下さいよ。もう少しでお昼……」
「お昼⁈」
“昼”という単語を聞いた途端、さっきまでの体のだるさや眠気はどこへやら。俺は物凄い勢いで飛び起きた。
もう少しで昼って……これじゃあ完全に学校に遅刻じゃないか! 皆勤賞受賞を密かに狙っていたのに!
「どうして––––」
––––こんな時間まで放っておいたんだよ! と文句を言おうとした俺だが、目の前に広がっている光景を見て、二の句を継ぐことができなかった。
「何だよ……これ……」
俺を起こしてくれたのは母さんではなかった。茶色い髪の毛(若干パーマがかかっている)を肩まで伸ばした、恰幅のいい優しそうな見知らぬおばさんだった。
そして俺が寝ていたのは自分の部屋のベッドではなかった。
ややボロい所が目立つ、古ぼけた感じのする部屋のベッドだった。
何だ? 何がどうなっているんだ? あれか? もしかして誘拐されたのか?
しかし腕や足を縛られている訳でもないし、口を塞がれている訳でもない。それに誘拐犯が普通に寝かせてくれる訳がない。
おばさんもこの部屋のドアを開けっ放しのままで中に入ってきているし。
実際に誘拐された事がない為、あくまでも推測に過ぎないが、俺は誘拐された訳ではなさそうだ。
だったら……なぜ俺はこんな所にいるんだ? 訳がわからない。
俺は思い切っておばさんに尋ねる事にした。
「あの……すいません。ここ、どこですか?」
「はぁ? 何バカな事言ってるんだい? 宿屋に自分で泊まっておきながら、ここがどこだかわからないだなんて、あんた大丈夫かい?」
「…………宿屋……?」
俺はおばさんの答えを聞いて呆然とした。
不審な目でおばさんは俺の事を見ているが、そんな事を気にしている場合ではない。
何で俺は宿屋にいるんだ?
俺の記憶が正しければ、昨夜は学校の課題を終わらせた後、本を読み、そのまま寝たはずだ。
なのになぜ、俺は宿屋で寝ているんだ?
確かに俺の住んでいる場所はどちらかというと田舎で、宿屋も2 3件存在するのだけど……。
「…………どうして……移動してるんだよ……」
頭を抱えてうずくまる俺。
怖かった。自分の寝ている間に何かが起こった事が猛烈に怖かった。
「ねぇあんた……」
そんな俺の姿を見て流石に心配したのだろうか、おばさんが話しかけてくる。
「…………はい……」
「大丈夫かい? 完全に寝ぼけているようだけど。顔でも洗ってきな」
「いえ、違うんです。寝ぼけているとかそんなんじゃないんです……」
「じゃあ何だって言うんだい? 二日酔いかい?」
「それも違います。ただ……記憶が無いんです。どうやってここに来たのか ここがどこなのか さっぱり覚えてないんです」
「昨夜、べろべろに酔っ払って記憶が吹っ飛んだだけじゃないのかい?」
「絶対に違います。俺、酒なんて一度も口にした事ありませんから」
「そうかい……だったらあんた、記憶喪失って事かい?」
「おそらく……」
「そうかい……それはかわいそうにねぇ……」
「はぁ……」
「と言っても、炊事を中心にやっているあたしにできる事なんてあんまりないからねぇ。接客やってる旦那にこの事を話すだけ話してみるよ。もしかしたらあんたの事で何か知ってる事があるかもしれないからね。あんたは食堂に行ってご飯を食べておきな。残ってるのはあんたのだけだからさ。階段降りてすぐ右にあるからすぐわかると思うよ」
「……はい。ありがとうございます」
そんなおばさんの話を聞いて、俺は恐怖がだんだん薄れていくのを感じた。
どうやって宿屋に来たのかなどは以前謎は残るが、気にせずにそのまま家に真っ直ぐ帰ればそれで済む話だ。
ご飯を食べたらすぐに帰ろう。
それに母さんか父さんに聞けば何かわかるかもしれない。
「そういやあんた、自分の名前は覚えてるのかい?」
「はい。鴻池 廉です」
「コウノイケレン……変わった名前だね」
「そうですか?」
確かに鴻池って名字の人、そんなに多い訳ではないが、変わってるって程ではないはずなんだけども。
「まあいいや。とにかく早くご飯を食べるんだよ」
最後にそう言い残して、おばさんは出て行った。
そういえば、何となくおばさんの“鴻池 廉”のイントネーションが若干変だった気がするな……。
心が落ち着いてきて、ふとそんな事を思う俺であった。
「ここが食堂か」
食堂らしき部屋(やや広めの部屋の中に古そうな木製の長机と椅子を何個も並べてある)を見つけた俺はそっと中を覗く。
「あ〜、誰かいるよ……」
フードをかぶった誰かが、一人黙々と朝ご飯を食べていた。
それだけだったら別に構わないのだが、その人の横の席に俺のものと思われる食事––––パンとサラダという至極簡単なもの––––が置いてある。
うん。物凄く気まずいぞ、これ……。
しかし食べないというのは何だかおばさんに申し訳ない感じがしたので、俺は覚悟を決めて席に座る事にした。
パンとサラダだけだし、とっとと食べてしまおう。
そうすれば気まずい時間も短くて済む。
「えーっと……あの、おはようございます」
無言で横に座るのも失礼かな? と思い、俺は隣のフードの人に軽くあいさつをした。
「ん? ああ、おは––––」
「うわっ! うわぁぁぁぁぁあっ!」
フードの中からチラリと覗いたその人の顔を見た俺は恐怖の余り、椅子から転げ落ちてしまった。
何で……何で顔がオオカミなんだよ!
「き、君、大丈夫かい?」
「やっ、やめろっ!」
俺は差し伸ばしてきたオオカミ男のもじゃもじゃな手を払い、一目散に食堂から飛び出した。
この宿屋は何かがおかしい。
もうご飯なんてどうでもいい。寝ている間に何が起こったのかなんてどうでもいい。
とにかく早く家に帰ろう! これ以上ここにいたらおかしくなってしまう!
出口を見つけたいの一心でがむしゃらに走り回る俺。
幸いな事に、ここの宿はそこまで広くないらしくすぐにロビーに出る事ができた。
受付カウンターも見受けられたが、誰もいない。
逃げるなら今しかない!
俺はドアを開け、外に飛び出した。
しかし目の前に広がっている光景はいつも見慣れたものではなく––––
「どこだよ……ここ……」
––––中世のヨーロッパを思わせるような人通りの多い大通りだった。
剣を腰に下げ重そうな鎧を着込んだいかつい男や、変な見た事もない生き物を連れた二本足で立っている猫などなど……今の日本では––––いや、今の世界では考えられない人や動物が当たり前のように通りを歩いている。
何だよこれ……まるで異世界に来たみたいじゃ…………異世界⁈
俺はさっき来た道を大急ぎで戻り、再び食堂へ向かう。
「あの、オオカミ男さん!」
そしてまだ朝ご飯を食べていたオオカミ男に話しかける。
もうオオカミ男への恐怖なんてものはどこかに吹き飛んでいた。
「ああ、さっきの君か。そんなに慌ててどうしたんだい? 後、私にはゼバスティアン・トーマス・キーンツルという名前が––––」
「じゃあキーンツルさん! ここの国名を教えて下さい!」
「き、君は不思議な事を聞くね……まあいい。ここはウォーリシャス王国だよ」
ウォーリシャス王国? そんな国名、聞いた事無いぞ!
でも、もしかしたら俺がただ単に知らないだけでヨーロッパとかそこら辺にあるのかもしれない。
せ、世界は広いんだし……。
そして目の前にいる狼男は普通の人が狼のお面をつけているだけだ! あの手を覆っているもじゃもじゃな毛も偽者に違いない!
狼男が実際に地球上に存在する訳が無いからな!
そうだ! きっとそうだ!
「キンツールさん! ここはヨーロッパ諸国に属する国ですよね? そうですよね? そしてその狼の顔はただのお面なんですよね?」
「えーっとね……ここはそのヨーロッパとかいう所には属さないよ。ここ一帯はまとめてソルデ諸国と呼ばれてるね。後、私のこの顔はもちろんお面じゃないよ。ほら」
そう言って、フードを上げ顔全体を俺に見せるキンツールさん。
確かに、どこからどう見てもお面には見えない。
という事は……やはり……俺は異世界に……。
しかし……どうしてだろう? あれだけ異世界に憧れていたはずなのに、常日頃から行きたいと思っていたはずなのに全然嬉しくない。
ただ頭に浮かぶのは親や友達の顔だった。
「…………帰りたい……」
実際に異世界に来てようやく気づいた。
俺は異世界にそのものに憧れていたんじゃない。
異世界で活躍する主人公に憧れていたんだ。
そして何だかんだで今の自分の生活を気に入っていたんだ。
早く帰りたい……でもどうやったら帰れるんだ?
……この世界で死ねば地球に帰れるか?
でももしそれで帰れなかったら……そのまま一生を終える事になるんだぞ……。いいのか俺?
「ああ、ダメだ……そんな博打じみた事、俺にはできない……」
「えーっと……君、どうしたの?」
キーンツルさんが不思議そうに俺の顔を覗き込んでくる。
「実は––––」
俺はキーンツルさんに自分はこことは違う地球という場所に住んでいた事 目覚めたらこの宿で寝ていた事 今すぐに帰りたい事など全てを洗いざらい話した。
もしかしたらこの世界ではこういう別世界から突然人が来る事はよくある事で、帰る方法がちゃんと用意されているのかもしれない。
そんな淡い期待を抱いていたのだが……
「うーん……私はこう見えても学者でね、長年様々な国の歴史を調べているんだけど……別世界から誰かがやって来るなんて話は聞いた事がないね」
「そう……ですか……」
そうキーンツルさんに聞かされ、俺はまるで奈落の底に叩き落とされたような絶望感に陥った。
前例がないって……じゃあ俺は一体どうすればいいんだよ? ずっとこの世界で生きていくのか? 右も左も分からないこんな世界で?
「キーンツルさん……俺はこの先……どうしていけばいいんですかね?」
「うーん、そうだね…………」
キーンツルさんが腕を組んで考えているのをぼんやりと眺めていると––––
「あんた! こっちだよこっち!」
「タシア! そんなに引っ張るな! ちゃんと自分で歩ける!」
さっきのおばさんと、どこかの洒落たバーのマスターみたいな渋い感じのおじさんが食堂に入ってきた。
「ほら、この子だよ。この子! この子に見覚えあるかい?」
「ん〜……いや、見覚えはないな」
おじさん(どうやらおばさんの旦那さんらしい)は俺を頭から足の先までじっくり眺め、首を横に降った。
「それはおかしいね……あんたがただ、ぼけてるだけじゃないのかい?」
「いや、それは絶対にない。昨日、この宿に入って来た人間は誰一人いない。それは断言できる」
「でも、実際こうしてここにこの子がいるんだよ?」
「あの、その事なんですけど……」
夫婦の会話を黙って聞いていたキーンツルさんが、唐突に口を開き、さっき俺がキーンツルさんに説明していた事をそっくりそのまま(単語の発音など、変な所も多少あったが)夫婦に伝えてくれた。
「––––という事らしいんです」
「つまりなんだい? この子はそのチキュウっていう所に住んでいて、何の前触れもなく、ここに飛ばされたって言うのかい? 何だか信じられないねぇ」
胡散臭そうな目でおばさんは俺の方を見る。
まあ、確かに「俺は異世界人なんです」とか言う奴なんて、どこからどう見ても変人以外の何物でもないよな。でも、事実なんだから仕方ない。
「私も未だに信じられませんが、コウノイケレン君の着ているこの服が何よりの証拠です」
そう言って、俺の着ているジャージを鋭い爪の生えた手で触るキーンツルさん。
「肌触りが滑らかで光沢もあり、とてもしっかりしている。私は様々な国の人々を見てきましたが、こんな生地を使った服を着ていた人は一人も見た事がありませんよ」
「そうかい……ゼバスティアンさんがそう言うんだったらその通りなんだろうね……。でもあんた、これから先どうするんだい? 帰る方法がわからないんだろ?」
「…………こっちが聞きたいですよ……どうすればいいのか……」
「なあ、コウノイケレン。だったらここに住み込みで働かないか?」
「「「え?」」」
さっきまで目をつむって黙って話を聞いていたおじさんが、突然そんな事を言い出した。
俺だけでなくキーンツルさんやおばさんも目を丸くして驚いている。
「何でそんなに驚くんだ? ああ、給料か? 安心しろ。毎月ちゃんと出してやる。他の所なんかと比べたら全然安いかもしれないがな」
「いや、そう言う事ではなくて……その、本当にいいんですか? 俺みたいな得体の知れない異世界人を雇うなんて」
「ああ、俺達は構わない。なあ、タシア、ゼバスティアン」
「まあ、一生懸命働いてくれるなら構わないよ」
「私は客ですからね。全然構いませんよ。いえ、むしろ大歓迎です。異世界には興味がありますし。何でしたら帰る方法を探すのも手伝ってあげますよ。ちょうど次の研究題材を探していたところなんです」
「ほらな。俺達は全然構わないんだ。お前みたいな若い奴が路頭に迷っている姿なんて見たくないしな」
「その……本当にありがとうございます。そして……よろしくお願いします」
こうして俺の異世界での生活は幕を開けたのであった。




