14 猜疑心
闇夜に灯すあかりは、百姫楼。
格子の向こうから漏れ伝わる、女の色香。淫らな誘いに、通り過ぎては男が廃る。
白い手が、肌蹴た胸が、おいでおいでと誘う。
「ねぇ。寄っていらして」
甘く囁く女の声も、銀朱の気を引くには足りぬ。今宵、力の満ち足りた銀朱は一層美しかった。満月の光を受けて輝く、髪の毛一本一本さえ艶やか。含んだ口元は、まるでこちらを誘惑しているかのような桃色。
「男とはいえ、吸い付きたくなる美しさやなぁ」
遊女さえ、その歩みを止める事のできなかった銀朱の足が止まった。
「男にしとくのは、もったいないなぁ。銀朱」
からかうように名を呼ばれ、銀朱は振り返った。軽薄な口調と、それに似合わぬ強い力。
「誰だ、お前」
黒い髪に、赤い瞳。圧倒的な力を持つその男に、銀朱は怯むことなく問うた。もちろん、この男の事なら知っている。黒紅。力の強い、上位の鬼。薄紅を縛り付けていた、鬼。
「知らんか。そうやろなぁ。俺は美しいお前と違って、噂にはならんからなぁ。けど、薄紅なら知っとるやろ。あの女は俺の女や」
黒紅は赤い舌をちらりと覗かせ、自分の唇を舐めた。まるでそこに、薄紅の名残があるかのように。
「……捨てられた馴染みの男か」
銀朱の灰色の瞳が、冷たく光った。薄紅を縛り付けた黒紅。心の奥では怒れど、ここで斬り合うのは本位ではない。……怪我をすれば、薄紅が悲しむ。銀朱は哀れむ事で怒りを抑えた。
「薄紅はこれからも俺のもんや。あの女の体には、しっかり俺が刻まれとる。疼く体をお前と逢うて紛らせても、すぐに気付く。もう、俺無しではいられんのや」
黒紅は銀朱の耳元で、わざと淫靡に囁いた。卑猥な妄想をかき立てるように、甘く響かせた声。耳に掛かる吐息に銀朱は苛立ち、黒紅の首元を掴んだ。
「なんや、銀朱。人も喰わん半人前のお前が、俺に勝てるんか。薄紅に指をもらったくらいで俺に勝った気か」
「……指だと」
一瞬、力の抜けた銀朱の腕を黒紅が払うと、今度は黒紅が銀朱の首を掴んで持ち上げた。苦痛で歪む、銀朱の顔。あざ笑うように、黒紅はその首元をさらに高く持ち上げた。
「知らんのかぁ、銀朱。色男が台無しや」
黒紅は、にやりと笑った。可笑しくて、可笑しくて堪らない様に。漲る力で銀朱を持ち上げ、苦しむ様を眺め続けた。
「薄紅は小指を切ったんや。愛しい男に渡す為に」
黒紅は自分で切らせた事を黙ったまま、挑発するように銀朱に告げた。
「お前、もらえんかったんか。残念やなぁ、薄紅の良い人はお前やないな。指はもう渡した後や。俺はさっきまで薄紅に逢うとったから、知っとる。そうそう。いつものように舐めてやったら、良い声で啼いたなぁ」
黒紅は持ち上げた銀朱を、自分の顔の位置まで下ろした。銀朱の目の前で唇を舐め、善がる女の声を真似た。
「……違う」
搾り出すように、銀朱が呟いた。薄紅はそんな女ではない、と。
「阿呆」
黒紅は銀朱から腕を放すと、その場に捨て置いた。
「美しい鬼も肩なしや。自惚れたらいかんなぁ。薄紅の男はお前だけや無い。指をもらえんかったのが、その証拠や。あの女も遊女。男を手玉に取るくらい、簡単な事。今頃、どこかの鬼と戯れとるんと違うか」
嘲笑う、黒紅。銀朱の傍に唾を吐き、腕組みしたまま百姫楼とは反対に歩き始めた。
「黙れっ」
銀朱は、道端に指を食い込ませ悔しさに震えた。遊女だという事は、最初からわかっていた。けれど……。銀朱の脳裏に、薄紅の姿が過ぎる。『死なないで』と流れる血を押さえ続けた細い腕。小さな手が頬をさすり、初めて感じた人肌の温かさ。桜の下で、静かに微笑み祈りを捧げていた薄紅。多くを望まず、銀朱にその身を捧げると約束した薄紅。
「黙れ」
拳を強く握り、地面に叩き付けた。黒紅は既にその場にいない。銀朱は心の中に芽生えた猜疑心を振り払うように、何度も何度も拳を叩き付けた。『小指』遊女にとってそれが何を意味するのか、銀朱にもわかっていた。『私の身は銀朱にあげる』確かに薄紅はそう言った。『あの女も遊女』頭の中に、嘲笑う黒紅の声が聞こえる。
「……黙れ」
何度も叩き付けた拳に、真っ赤な血が滲んだ。銀朱はそれでも止めなかった。猜疑心は次第に強くなり、銀朱の中の鬼の血が騒いだ。人を喰わねど、銀朱も鬼。不安はやがて憎しみへと形を変えていった。
「ふっ」
最後に一度、強く叩き付けた。拳を持ち上げると、手首へと滴る血。銀朱は鼻で嘲るように笑うと、白い手首に滴る血を舌ですくい舐めた。
「ははっ」
銀朱の目が、赤く染まる。口の端からは鋭利な牙を覗かせ、乾いた笑い声を上げた。
「……あの女」
そういえば、黒紅から薄紅の匂いがした。やはり、遊女。銀朱は、自分をも呪うように笑った。脳裏には、他の鬼と交わる薄紅の姿が過ぎった。苦しそうに息をし、嬌声を上げ善がる薄紅。
「許さんっ」
鬼は、強くて弱い生き物。力の強さなら無限。しかし、心は弱く脆い。銀朱の心も猜疑心に負けてしまった。血に染まったその瞳には、真実など移るはずもない。
銀朱は立ち上がり、百姫楼へ向かった。誰よりも愛しく、憎い薄紅の元へ。
もう少しで終わると書き続けましたが…あと2、3話で収めたいなぁと思います。
次はいよいよ…です。多分、流血シーンです。




