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       8 夕鶴

『陽の気』


それは攫われてきた人間が持つ、天からの加護。

かつて、私にもあった陽の気。

鬼が嫌う、陽の気。


闇に閉じ込められ、食べる事を止める。

泣いて喚いて、絶望の中で希望を失う。


陽の気は、希望。

帰りたいと願う、想い。


鬼に触れ、鬼に惑わされ。

人は陽の気を失っていく。


陽の気は、希望。

無くさなければ、まだ帰れよう。

鬼と交わり物の怪になれば、もう帰れはせぬ。


****


「辛気臭いわぁ、この娘」


松の間の山吹やまぶきは、つんと尖った小顔の器量良し。

随分と若くして攫われてきたのか、少女の面影を残したまま。

小さな唇にのせた紅が、生意気な程色っぽい。


「あんた、何やの。何もできんなら、早く下の階で醜い客でも取り」


仕度に忙しい夕刻の百姫楼、騒ぎを聞きつけた皆が手を止めた。


女の喧嘩。


興味本位なら、良い話の種。上階の遊女が叱るのは、攫われてきたばかりの小娘。


「……着物なんか剥いで、放り出したら良い。あんたの世話なんか、知らんわ」


山吹が部屋の前で、娘を張った。

ぱん、と乾いた音が響く。

娘は何も言わず。ただ投げ出されたまま、座り込んでいた。

真っ黒な髪の毛。前髪は表情を隠すように長く、まるで自分を守る殻のようだった。


……どうしようか。


我、関せず。百姫楼で、女の小競り合いは茶飯事さはんじ。いつもの私なら、決して関わらなかっただろう。


「いいわねぇ。山吹」


「……薄紅っ」


突然声を発した私に、皆の視線が注がれる。山吹も私の言葉を計りかねたのか、探るようにこちらを見ている。


「まだ小娘と喧嘩できるなんて、本当に若いのねぇ。山吹姉さん」


私は山吹に、にこりと微笑んだ。山吹は、古参の遊女。実年齢ならきっと、かなりの歳だ。


「……何やてっ。喧嘩売っとるんか、薄紅」


小さな唇を噛み、少女の眼差しが睨む。小娘と上階の遊女の喧嘩が、上階の遊女同士の喧嘩になった。皆はその動向に興味津々なのだろう。しんと静まり返っている。


「とんでもない。私のような年増には、喧嘩する若さなんて無いわ。それに……不細工な事はしたくないの」


「薄紅っ」


山吹に歳の話は禁句。私は、わかっていて歳の話をした。山吹はやり過ぎた。攫われてきたばかりの気の毒な娘は、昔の皆と同じ。皆が経験した、その辛さ。喧嘩などすべきではない。


「駄目っ」


小さな悲鳴。山吹は、私の目の前に来る事なく、その場に倒れた。


「……あなたっ」


背中を向けた山吹の着物の裾を、娘は引いたのだ。怒りに歩みを進めていた山吹は、ふいの出来事に勢い良く倒れた。


「お、お前っ。ただじゃ済まないよっ」


山吹は娘の方へ向き直り、胸倉を掴んだ。


「およしっ」


女将の声。騒ぎを聞きつけた女将が、上階に上がってきた。

見物していた遊女は蜘蛛の子を散らすように去って行き、残されたのは三人。

女将は娘から山吹を引き剥がし、娘の頬を二度打った。


「不細工な真似するんじゃないよ、山吹」


低い声で山吹を一喝すると、私の方へ歩み寄り呟いた。


「他の部屋の事に首を突っ込むなんて、珍しいなぁ。薄紅。そんなに、この娘が気に掛かるか」


顔を私の顔に寄せ、にやにやと笑う女将。


「それとも、この娘を連れてきた鬼が気に掛かるんかぁ」


「……何の事かしら」


女将は私の胸を軽く叩き、耳元で囁いた。『ぎんしゅ』と。


「妬けるか、薄紅」


「……妬くのだったら、私ではないわ」


胸に何かがつかえ、娘を見た。娘は相変わらず、髪で顔を隠し座り込んでいる。


「聞いたか、山吹。妬くのはお前の仕事やって。怖いなぁ、薄紅は。さすがあんたから黒紅様を奪った女や」


五月蝿うるさいっ」


山吹はこれ以上無い位に私を睨み、部屋へ戻った。襖を閉める大きな音が、百姫楼に響いた。


「仕舞いや、仕舞い。皆、準備に戻りぃ」


女将は両手を軽く叩きながら、階段を下っていった。百姫楼は、再び慌しく動き始めた。


「……おいで」


残されたのは、二人。娘と、私。


……仕方無い。


「あなた一人くらい、何とかなるわ」


私は溜め息と共に覚悟を決めた。この娘は、私が預かろう。


「……うすべに」


「えっ」


「……鬼が、言ってた。……特別な人の名前だって」


「嘘っ」


まさか。山吹の裾を引いたのは……。


「助けて……くれた、の」


半信半疑のまま、娘に問うた。娘は、こくりと頷いた。


「綺麗な鬼が、特別だって。……鬼は、私を救ってくれたから」


奇妙な娘。銀朱が攫ってきた、娘。

鬼が人を救う、そんな話聞いた事無い。

私は銀朱の顔を、熱を帯びたその眼差しを思い出した。


「……銀朱」


あるのかもしれない、銀朱なら。

この世界で唯一、私を支えてくれる鬼。


「あなた、名前は」


娘はゆっくり首を振った。女将も山吹も、この娘に名前すら付けなかったのか。

私は娘の手を取り、風呂に向かった。

山吹に打たれ、女将に打たれ。それなのに、この娘は泣かなかった。

その理由は、風呂場でわかった。


「……山吹ではないわね」


娘の体には、無数のあざ。細く華奢な体に、長い時間をかけて刻まれた虐待の印。

私が聞くと、娘は小さく呟いた。


「……お母さん」


とっさに、口元を押さえた。吐き気が、する。

どうして母親にこんな事ができる、の。

私には、わからない。娘を手元に置いておける幸せを、どうしてこの娘の母親は……無駄にするの。

私は、何も言葉を掛ける事ができなかった。

娘を風呂から上げると、私の部屋へ連れて行き髪を梳かしてやった。


人の髪を梳くのは、いつぶりだろう。


私は、小さな自分の娘を想った。あの子は、無事だろうか。

誰かに酷い目に、合わされてはいないだろうか。


「……千羽鶴」


部屋の隅に置かれた鶴を見て、娘が言った。


「違うのよ、あれは」


部屋に、西日が眩しい。闇が来る、少し前。夕日が、一層輝く。

私は小さく、溜め息をついた。


「ゆう……づる。そうね、夕鶴。あなたの名は夕鶴にしましょう。私の名は……あなたにあげる程の名ではないから」


私の名は、薄紅。黒紅から一文字取って付けられた。まるで、鎖のように私を縛り付ける名前。


「どうかしら」


娘は頷いた。今日からこの娘は、夕鶴。銀朱が連れてきた、寂しげな少女。


「……ありが、とう。薄紅さん」


夕鶴は深くお辞儀をすると、部屋を出て行った。


闇が、来る。


物の怪ではない夕鶴は、屋根裏部屋へ隠れていないといけない。鬼に陽の気が障ってはいけない。


「あの娘……陽の気が薄い」


元の世界に未練が無い、という事だろうか。夕鶴は、ここがどんなに酷い世界か知らないのだろうか。

私は、小さく溜め息をついた。


……いけないなぁ。


夕鶴を見ていると、溜め息が絶えない。考えさせられる事が、多すぎるのだ。


憂いていると、襖が急に開いた。

山吹が、荒々しい足取りで私に近づく。

勢い良く私の頬を打つと、さも憎々しげに言い放った。


「許さないっ」


私は、打たれた頬を手で覆った。


「……知らないわよ、遊女の顔を打つなんて」


痛いのでは、ない。打たれた頬が、腫れないか心配なのだ。

私達は遊女。顔は、商売道具。


「……居なくなれば良いのに。あんたなんかっ」


山吹は黒紅の馴染みだった、らしい。私がここに来る前の話で、私は知らない。


「年季が明けたら、消えるわよ。もう、帰って……」


女の争いは、醜い。悪いのは女じゃない。いつだって身勝手な鬼の方が、悪い。

私は山吹が出て行った後、何度目かの溜め息をついた。

片手は、打たれた頬を覆ったまま。


夕鶴は眠っただろうか。


夢も希望も、何も無い此の世界。


それでも、此の世界は……。


夕鶴の目には優しく、映ったのだろうか。



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