17 薄紅(うすべに)
『私がいなくなっても、絶対探してね』
幼い頃からの約束。
やわらかくて、小さな小指を絡ませたあの日。
約束。
最後に絡ませた小指は、ちょっと切ない。
小さくて細いままの私の指と、力強い健の指。
約束。
健は憶えていたんだね。
***
「……もも。うすもも」
目を覚ますと、木目調。
薄暗い、部屋の中。
……そうだ。
私は部屋を、若竹の間を頂いたのだった。
「薄桃。大丈夫か」
白い手が、私の頬をさする。
心配した、青白い姉さんの顔。
「……夕鶴姉さん」
泣いていたのだろうか、赤い目をしている。
「姉さん。私……。記憶が……少し、戻ったようです」
「薄桃……」
姉さんは私の体を支え、起き上がらせてくれた。
少し肌寒い、薄暗い部屋。
「姉さん……」
闇が明ける。
「……いいの」
闇が明けると、白い朝が来る。
物の怪である姉さんが、起きていて良い時間ではない。
「薄桃、これを」
姉さんは袂から、折鶴を取り出した。
赤地に薄桃色の花びらが舞う、千代紙。
いつのものだろう。
色が褪せかけているのに、尾はつんと尖ったままだ。
「これに、見覚えは……」
掌に、折鶴が置かれた。
尖った、尾。
顔の部分は、折りが浅い。
顔の小さな、鶴。
「姉さん。これは……」
懐かしい、折鶴。
「やっぱり、知っているのね」
私は、これを知っている。
背伸びをして、テーブルの上を覗いた記憶。
鼻唄まじりに、鶴を折る……。
『お母さん』
それは長い爪で、折り目をしっかりとつけたお母さんの鶴。
「お、かあ……さん」
小さなアパートで、二人っきりの生活。
四角い額の中の、お父さん。
線香の煙。
『大切な人を失わないように』
繋いだ手を決して離してはいけないと、言ったお母さん。
なのに……。
私を残して消えた、お母さん。
『神隠しにでも、あったんだよ』
育ててくれた祖父母が、私を慰めた。
古い神社と、鬱蒼と茂った森。
納得するしかなかった、幼い私。
遊び相手のいない、寂しい私。
『あの子、親がいないんだって』
『お母さんに捨てられちゃったんだって』
『変なのー』
近所の子供にいじめられた、幼い日々が頭を過ぎる。
『うるせー、この野郎』
甲高い、男の子の声。
私をいつも救ってくれた、小さい健。
素直になれない私は、ありがとうも言えなかった。
健が何かしてくれても、笑顔すら見せなかった。
『わたしも、いなくなるもん』
幼い心に、不安だった。
『なんだよ、それ』
『だって。いなくなったお母さんの子だもん』
私もいつか、神隠しに合うんじゃないかと。
『バーカ』
小さな健が手をあげた。
叩かれると思い、とっさに目を瞑った。
『いなくならないよ』
小さな健が、頭を撫でてくれた。
『いなくなるもん』
頑固な、私。
優しい、健。
『じゃあ。俺、探す』
『みつからないもん』
探しても、見つからなかったお母さん。
『みつかるよ。だって、大好きだから』
健の笑顔。
不思議と、私は救われた気がした。
逃げても隠れても、健は必ず見つけてくれた。
『約束しよう』
『いなくなっても絶対に、俺が見つける』
約束は、小指と小指を絡めて誓う。
幼いあの日から、その先の未来まで。
記憶を取り戻した私。
全てが、繋がったように思えた。
「……夕鶴姉さん。もしかして……」
姉さんは手鏡を取り出した。
「間違いないよ、薄桃」
姉さんは、私に鏡を向けた。
「まるで、生き写し」
こんな事が、前にもあった。
銀朱様に触れられる度に、私の容姿が整っていく。
鏡の中の私は、記憶の中の私とは……違う。
ふっくらとした幼さの残る顔は、余計なものが削ぎ落とされたようにすっきりとしている。
つんと尖った顎、大きく見える目、長い睫毛。
陶器のように、美し過ぎる肌。
「……お人形みたい」
お母さんは、こんな顔をしていただろうか。
記憶の中のお母さんは、面影だけ。
捨てられた私は、お母さんの写真を見なくなった。
だから……生き写しだなんて、分からない。
「……痛い」
肩が痛む。
銀朱様の牙が掠めた、傷。
「お母さん……」
銀朱に喰われた、お母さん。
きっと、私よりもずっと痛かったはず。
「ごめんなさい、薄桃。……謝っても許されない事を、私は……した」
姉さんは鏡を置くと、一歩下がり土下座した。
畳についた手に、額を押し付け泣いていた。
何度も何度も謝罪の言葉を口にしては、私に頭を下げ続けた。
掌中の折鶴。
お母さんも攫われたのだろうか。
『百姫楼』で、何を想い鶴を折ったのだろうか。
鬼と交わり、あげく鬼に喰われた……可哀相な、お母さん。
鶴をそっと掌で包んだ。
「……姉さん。お母さんは、元の世界に帰りたがっていましたか」
そっと顔を上げた姉さんは、ゆっくりと首を振った。
「薄紅姉さんは、帰れないのです。約束をしていたから。でも……」
姉さんは言い難そうに、唇を噛んだ。
「姉さんが教えてくれないと……お母さんは、もう……何も喋れないんだからっ」
姉さんに詰め寄り、胸倉を掴んだ。
この世界に来て以来、ずっと我慢してきた思いが……もう、限界だ。
どうして、こんなにも苦しい事ばかり……起こるの。
「黒紅様と、約束したのです。……娘は攫わない、と。攫われそうになった娘の代わりに……薄紅姉さんは、この世界へ来たのです」
「私の……代わり……」
掴んだ手が解けた。
私の体から、力が抜けていく。
「薄桃、あなたのせいじゃないっ。薄紅姉さんは、後悔なんてしていなかったの。こんな……恐ろしい世界に、連れてこられたのが娘じゃなくて良かったって……笑ってた」
姉さんが私を抱きしめた。
崩れ落ちていきそうな私を、強く、抱きしめた。
「しっかりしなさい、薄桃。あなたが姉さんの娘なら、私は何だってやる。あなたを絶対に……元の世界へ帰す」
姉さんの瞳が真っ直ぐに、私を見ていた。
凛とした、いつもの姉さん。
闇が開ける。
辺りに漂う、白い朝靄。
「思い出すのよ、薄桃。きっと、薄紅姉さんが見守ってくれているから」
白い朝。
私は、強く頷いた。
名前を思い出し、この世界から必ず帰る。
鬼に翻弄された、お母さん。
私は絶対に、帰る。
鬼の思い通りには、ならない。




