11 月を愛でる
屋根裏部屋に帰らなくては。
頭ではわかっていても、体がついてこない。
ただ、黒紅様の出て行った方を呆然と見つめていた。
早く、帰らなくては。
襖一枚隔てた隣の部屋は、夕鶴姉さんが客を取る部屋。
ゆっくり立ち上がろうとする私の隣を、三味線を持った遊女が通った。
「あっ」
その顔に見覚えがあった。
名も知らぬ、風呂場で会った姉さんだ。
客も取らず三味線を弾いている所をみると、遊女ではないのだろうか。
「……今宵は誰が、お相手かしら」
三味線の女は、私の横を通ると艶っぽい声で呟いた。
嫌味だろうか。
休むはずだった姉さんは、銀朱様に言われて見世に出た。
なのに、当人はここにいない。
銀朱様は、他の女に馴染みを変えてしまったのだろうか。
華やかな後の静けさが、虚しい。
三味線の女も、踊りを踊っていた女達も部屋から出て行った。
私は、今度こそ帰ろうと立ち上がった。
「……うすもも」
呼ぶ声が、聞こえた。
振り返り、声の主を探せど誰もいない。
窓の方だろうか。
私は、開け放たれた障子に手をかけ外を眺めた。
私の背丈よりも、大きな月が満ちている。
闇が、いつもよりも明るい。
でも、この明るさは鬼の力を強めるもの。
今宵の銀朱様は、今頃どうしているのだろう。
考えるだけ、野暮か。
私は、銀朱様に呼ばれなかった事に安堵した。
力の強い鬼の前では、為す術もないから。
「帰りたい……」
誰もいない部屋。
気の緩んだ私は、階下の喧騒に紛れ呟いた。
どうしてだろう。
ひとりになると、少年の事を想ってしまう。
「逃がしはしないよ」
冷たい声が、はっきりと聞こえた。
誰もいないと思っていたのに……。
背筋も凍るその声に、私は身動きか取れなかった。
するすると体に手を回され、抱きしめられた。
まるで、鎖。
逞しく白い腕は、苦しい程に私に絡みつく。
「ぎ、銀朱さま……」
搾り出すように、名を呼んだ。
銀朱様は、私の体を強く締め付けている。
「どうして驚く、薄桃。私なら、最初からこの部屋にいたんだが」
最初から……。
銀朱様は話の全てを、ここで聞いていたのだ。
黒紅様が誰かに同意を求めるような話し方をしていたのは、そのせいだ。
「今宵は満月。共に月を愛でようか、薄桃」
***
力が漲っているのだろうか。
銀朱様の瞳の色が濃い。
月を見上げては、もう何杯も盃を空けている。
月の光に照らされた、青白い横顔が美しい。
「薄桃。黒紅が気に入ったか」
「いえ……。あまり、存じてませんので」
「……仲良く話していたではないか」
咎められているのだろうか。
私が答えに困ってると、銀朱様が微笑んだ。
「薄桃、聞こえるかい。この襖の向こうの声が」
襖の向こうは、夕鶴姉さんが客を取る部屋。
「……どうして」
銀朱様は、どこまで残酷なんだろう。
短く、途切れるように聞こえる声。
いつもの姉さんからは想像出来ない。
甘く、響く、声。
姉さんは今、黒紅様と……。
聞きたくない。
私は下唇を噛み、俯いた。
「顔を上げなさい、薄桃」
ふるふると、首を振った。
銀朱様を想っている、姉さん。
なのに、黒紅様と……。
生々しく聞こえる声は甘く、喜んでいるかのように聞こえた。
相手は銀朱様ではないのに……何故。
「聞こえないのか、薄桃」
すぐ、傍で声がした。
「は、はいっ」
慌てて顔を上げた。
銀朱様の声は厳しく、まるで私を叱り付けているようだった。
「私は、あまり寛容ではない。薄桃。私に逆らえば、お前など……」
銀朱様は私の目の前に、盃をかかげた。
私の顔を酒に映し、ゆっくりと啜った。
瞳は、私の顔をじっと見たまま。
「今宵は満月。さて、次は何を愛でようか」
そう言った鬼の瞳には、私の顔が映っていた。




