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ユージーンの執務室から出ると、ラフィーネはほっと息を吐いた。
「ラフィーネ嬢、いや、これからは、リンゼイル伯爵と呼ばなければならないかな」
「止めてください。私、伯爵って柄じゃありませんから。もう!分かって言ってらっしゃるでしょう?」
ヴァッシュが優しい瞳でラフィーネを見ていたので、ちょっと気恥ずかしく思いながらラフィーネはぷいっと横を向いた。
「すまないな。これからも名前で呼んでもいいか?」
「はい。そちらでお願いします。正式な場ではがんばりますが、私、リンゼイル伯爵って呼ばれても、それが自分のことだって気が付かないと思います。気を張っていないと、思いっきり無視してしまいそうです」
その呼び方は今まで父のものだったし、いずれ兄が名乗る名前だったので、自分の名前だという気がしない。
「そうだな。正式な場では絶対にそう呼ばれるだろうから、気を付けた方がいいな」
「そうですよね。私が爵位を継いだことが公表されたら、きっと変なやっかみとかを受けて、嫌みを言われるんですよね。えぇ、分かっていますとも」
父と兄のやらかしの結果だと理解している人たちは何も言わないだろうが、情勢の見えていない人たちほど、嫌みを言うのだ。
そういうことを言うことで自分の存在を主張しているかもしれないが、相手をしたくなくてもいちいち言いに来るので、思わず、暇なんですか?と聞きたくなってしまう。
「放置でいいが、耳障りではあるな」
「本当ですよ。どうしてああいう人たちって、湧いて出てくるんでしょうね?」
「残念ながら、性格とでもいうしかないな」
「そうですね」
文句があるのなら、決定者である皇帝陛下に言えばいいのに。
言えないから、自分より下だと見下してラフィーネに言ってくるのだろうけど。
「とはいえ、本当に名前だけでなんですけどね」
俸給は有難いけれど、伯爵という地位に相応しい領地があるわけでもないし、権力があるわけでもない。古くからある家なので、誇れることと言ったら、それくらいだ。
しかも、爵位はラフィーネだけのもので、継ぐのもラフィーネの子供だけ、と限定されているので、婿になったところであくまでも伯爵の伴侶でしかない。自分がそれなりの地位とか爵位を持っていないと、婿になる旨味もない。
「リンゼイル伯爵家の名前が残っただけでも、有難いことなんですけど……」
貴族でなくなることも覚悟していたのに、残るどころか、伯爵家そのものを継ぐことになってしまったのは予想外の出来事だった。
「だが、家を継がない次男や三男なら、お前の婿になり、自身の子供に爵位を持たせたいと思うのではないか?」
「う……、それは、確かに……」
自分自身じゃなくて、自分の子供に爵位を持たせたいと思ったら、ラフィーネはちょうどいい相手だ。
ちょっと曰く付きだけど、女性で爵位持ちの数は少ない。
「……ラフィーネ嬢」
「はい?」
そっちの対策をどうしようかと悩んでいたら、ヴァッシュに名前を呼ばれた。
「話があると」
「はい」
あまりの急展開にちょっと思考が飛びかけたけれど、対策前にヴァッシュに話があったのだ。
「俺も話がある。俺の執務室でいいか?」
「もちろんです」
公爵で騎士団長のヴァッシュの部屋は皇宮内にあり、来客用の応接室が隣にある。
忙しい時は、たまにそちらで寝泊まりしていると聞いたことがあった。
といっても、ラフィーネはあまり用事がなく、ヴァッシュが仕事をしている部屋に書類を届けに行ったことが数回ある程度だ。その時も、補佐のような人に渡したので、ヴァッシュと直接話をしたことはほとんどなかった。
そう考えると、いつの間にこんなに近くにいるようになったのだろう?
きっと、リディアーヌを助けてほしいとお願いした、あの時からだ。
大人しくヴァッシュの後を付いて行くと、部屋に近付くにつれ、だんだんと文官の数より騎士たちの数が多くなって行った。ヴァッシュの執務室は、騎士団の演習場の近くにあるので、当たり前といえば当たり前だ。
「入ってくれ」
ヴァッシュに促されて部屋に入ると、そこにはいつもの副官がいた。
「お帰りなさい、団長。それからようこそいらっしゃいました、ラフィーネ嬢」
「いたのか、バーナード」
「はい、団長のお帰りを今か今かと待ちわびていました」
「……何か重要な報告でもあるのか?」
「いいえ?ありませんよ」
ないくせに、きっとずっとここにいたのだ。
ヴァッシュがラフィーネを連れて来るのではないかと期待して。
現に、今のバーナードの瞳は何だか輝いている。
「ラフィーネ嬢、あちらの応接室へどうぞ。ここは、書類が散らかっていますから」
「散らかっている?そうですか、綺麗に整頓されていると思いますが……」
「ありがとうございます。ですが、やはり大切なお客様ですから、応接室の方がいいと思います」
応接室は執務室からでも行けるが、廊下から直接入ることも出来る。
執務室なんて野暮な場所じゃなくて、せめて応接室に直接行けや!もっと言うと、景色のいい場所とか花が一面に咲いている庭とか、もっとロマンチックな場所もあったでしょう?、というバーナードの小言がヴァッシュには聞こえてきた気がした。
「ラフィーネ嬢、あちらへ」
笑顔なのに怒られている気がしたヴァッシュは、ラフィーネを応接室の方へエスコートした。
バーナードも、そのことに対しては、満足そうな笑みを浮かべていた。
ラフィーネを応接室に案内してから、ヴァッシュは執務室に戻って、バーナードに小声で話しかけた。
「バーナード」
「分かっています。紅茶の用意だけしたらすぐに下がります。いいですか、団長。女性には笑顔で優しく、ですよ。間違っても、うちの連中と同じように扱ってはいけませんよ」
「そんなことは、言われなくても分かっている」
「それから、気持ちはちゃんと言葉にして伝えてください。言われなくても分かるだろう、ってことはありませんから。言葉に出さないと、伝わるものも伝わりません。しっかりと心を込めて、ご自分の言葉で!なめらかに口説けっ、て言っているわけではありません。団長、そんなキャラじゃないですし。多少つっかえても、きちんと伝えてください。言葉足らずはダメですよ」
「……あぁ、分かっている」
「団長、ラフィーネ嬢を泣かせてもいけませんよ」
「それも、分かっている」
いつになく真剣な表情での忠告に、ヴァッシュも真剣な顔でうなずいたのだった。




