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ヴァッシュ・トリアテール公爵。
会ったことはないが、デリックだってその名前は知っている。
帝国で皇帝陛下に次いで高位の地位にいる方。
文官でも武官でもない没落した伯爵家の嫡男では、夜会や公式行事で見かけることはあるが、声をかけることなどとてもではないが出来ない人物だ。
ましてデリックはフレストール王国に留学に行っていたので、最近はそういった行事にも参加していなかった。
デリックが帝国にいた時に行った夜会などでトリアテール公爵の出席はなかったので、本当に会うのが初めての人物だ。
デリックの脳内で、なぜそんな重要人物が妹の護衛をしているのかという疑問と同時に、ひょっとして上手くいけばヌークス子爵ではなくて、トリアテール公爵に妹を嫁がせることが出来るのでは?そうしたら、自分たちは公爵の身内、監査くらい何が出てきても処分されない。それどころか、これから先の自分たちの人生は、きっと輝かしいものになる。公爵家の力で、今まで先祖や父が諸事情で仕方なく売った伯爵家の土地なども取り戻せるはずだ。公爵夫人の実家がそんな貧乏なんてみっともないから、トリアテール公爵だって手伝ってくれる。
そんな打算が一瞬にして巡った。
父は自分が説得すればいい。
父だって、いくらお金持ちとはいえ、娘が格落ちの子爵夫人になるよりは、お金も権力も持っている格上どころか最上格の公爵夫人になった方がいいに決まっている。
いや、その前に、一応、トリアテール公爵に妹を妻にするつもりがあるかどうか聞くか。
「んー、ごほん、トリアテール公爵閣下、知らぬこととはいえ、失礼いたしました。気が利かない妹ですので、先に閣下のことを紹介してくだされば、このようなことにはならなかったのですが……。妹には後で十分に言って聞かせますので、お許しください」
ラフィーネが悪い、と言ったデリックにヴァッシュの内心は荒れ狂った。
それでも怒りを顕わにしなかったのは、隣のラフィーネがデリックを諦めたような冷めた目で見ていたからだ。
きっと、これがこの男のいつもの思考回路なのだろう。
何を言っても無駄。決して理解することはない。
自分が悪いなどと、微塵も思っていない。
「さっそくですが、閣下。閣下とそこの不肖の妹は」
「その前に言っておくが、ラフィーネ嬢は現在、陛下の庇護下にある。ラフィーネ嬢に関する全ての決定権は、陛下にあると思ってもらってかまわない」
「はい?」
「皇宮は今、色々と騒がしくてな。皇宮で仕事をしている者たちの中で今回の監査対象の家の者は、全て陛下が庇護することになったんだ。言ってみれば、陛下が後見人になっているようなものだ。庇護下にある者たちは、その期間中、仕事を辞めたり誰かと婚約することがあったとしても、基本的には全て陛下の許可がいる。これは正式に決まっていることだ」
「あ……で、ですが、ラフィーネは妹で、伯爵家のためにしなければいけないことだって!」
「ラフィーネ嬢は確かにお前の妹かも知れないが、今は陛下が後見している女性だ。何らかの形で監査を切り抜けようとする者たちが出ることは予想されていた。陛下にしてみれば、好き勝手やって命令も守らないバカ共より、真面目に働いている者たちを庇護するのは当然のことだろう。家を守るという名目で、どんなことを言ってくるのか分からなかったしな。これはラフィーネ嬢だけではない。騎士団の中でもそれなりの地位にいる者たちが、そういった者たちの護衛に就いている」
一応、護衛は長期間に及ぶ可能性もあったので、各人の相性なども加味されて決められた。おかげで仲の良い友人になったり、ちょっと良い雰囲気になった者たちもいたのだが、ラフィーネに関してはヴァッシュが絶対に譲らなかったので、水面下で彼女を狙っていた騎士たちは泣く泣く諦めた。
「陛下の……」
「そうだ。お前たちが何をしようとしているのかは知らないが、ラフィーネ嬢に関する全ての事柄は陛下の許可がいる。もはや彼女は、お前たちが好き勝手出来る女性ではない」
陛下の許可、と聞いて、謁見出来る身ではないデリックは一瞬怯んだが、デリックが狙っているのは目の前の公爵と妹の結婚だ。それなら二人で許可を取ってもらって、そこからこちらに融通を図ってもらえれば、別にラフィーネが陛下の庇護下にあろうが問題はないはずだ。
「ですが、これは閣下にも関係があることですので、閣下から陛下に許可をもらっていただければそれでいいかと」
「何を言いたいのかは知らんが、もう一つ伝えておくと、監査が入った時点でラフィーネ嬢はリンゼイル伯爵家からは一度、籍を抜いている」
「は?」
「彼女は陛下が身分を保障している状態の女性であり、必要ならどこかに養子に入るか、新しい家名を与えられることになっている。この状態でリンゼイル伯爵家がラフィーネ嬢の婚約を勝手に決めたとしても、リンゼイル伯爵家にはラフィーネという名前の令嬢がいない以上、それは無効になる。もしこの状態のラフィーネ嬢が誰かと結婚をしたとしても、ラフィーネ嬢やその相手に何かを要求出来る権利はお前たちにはない」
「そ、そんな勝手なことが許されると!」
「許されるさ。この国の皇帝陛下が決め、成人してすでに家を出ているラフィーネ嬢が納得している話だ。それに、こちらでもすでに調べは済んでいる。ラフィーネ嬢が成人してから、伯爵は自分たちにお金を使うばかりで、ラフィーネ嬢には一切使っていなかったようだな。学生の頃だって、出していたのは最低限の生活費と学費だけ。リンゼイル伯爵が派手に投資して消えた金額やお前の留学費用などに比べれば、ささやかなものだ。皇宮に就職してからの交流もほとんどない。伯爵令嬢としては、二度もその身を売っている。家のためと言うのならば、すでに彼女は十分に役目を果たし、彼女の養育にかかったであろう費用以上のお金が伯爵家に渡っている。それなのに、妹だからという理由だけで、お前たちがこれ以上彼女の人生を好き勝手に決めていいわけがないだろうが」
「だが!」
「団長、失礼いたします」
ヴァッシュに睨まれたデリックがさらに何か言おうとした時、騎士がヴァッシュに近寄ってきた。
「どうした?」
「はっ!リンゼイル伯爵家にて不正が見つかったため、リンゼイル伯爵及びデリック・リンゼイル殿の拘束命令が出ました」
「は?い、いや、俺は留学していたから何も知らない!」
「伯爵家がやったことだ。伯爵家の嫡男であるお前にも責任があることだ」
今まで散々ラフィーネに妹だからとか伯爵家のためだからとか言っていたくせに、伯爵家がやったことについて、嫡男のデリックが知らないは通じない。
たとえ本当に知らなくても、家のためなら罰を受けても仕方ない。
妹にそう言い続けてきたのは自分たちなのだから、その言葉の責任は取ってもらう。
こんな時だけ自分は関係ないと言っても逃がすつもりはない。
「家のためなんだろう?」
「ち、違う。こんなの家のためでも何でもない!」
「そうか?ここで大人しく協力的な態度を取るかどうかで、これから先、リンゼイル伯爵家が残るかどうかも決まると思うがな。もっとも、残ったとしても伯爵の代替わりは必要だろうな」
代替わり、その言葉にデリックの目は少しだけ輝きを取り戻した。
ここで大人しく協力して、全ては父がやったことで自分は関係ないのだと証明すればいい。
そうすれば父を隠居させて自分が伯爵位を継ぐことになる。
予定よりは少々早いが、伯爵になる予定ではあったし、この騒動が収まればラフィーネも家に帰って来る。そこから公爵と交渉して、好条件でラフィーネを嫁がせればいい。
その間、伯爵家は多少落ち目になるかもしれないが、公爵家と縁続きになれればそれで一気に上昇出来るはずだ。
父には可愛がってもらっていたし、感謝もしているが、家のために諦めて隠居してもらおう。
盛り返すのは自分の代ですることになる。
デリックはそう考えて、大人しく騎士の指示に従ってその場を離れることを選択した。
だが、ヴァッシュの傍でその様子を見守っていたラフィーネと目が合うと、デリックは何かを考える前に反射的に口を開いていた。
「ラフィーネ、お前は当主である俺に従ってもらうからな!」
「嫌ですけど?」
「ラフィーネ嬢はお前たちとは関係がないと、何度言わせればいいんだ」
ラフィーネとヴァッシュに冷たい目で見られたデリックがさらに何か言おうとしたが、騎士たちに無言で睨まれたので、何も言えずにラフィーネを睨みながら連行されて行った。
その姿が見えなくなってから、ラフィーネは首を傾げた。
「……どうして今の話で、お兄様が当主になったのかしら?」
「俺が代替わりが必要だと言ったからだろう」
「え?家が残ったらいい方で、残ったとしても親戚とか、もっと違うところから新しい当主が立ちますよね?」
「普通はそうだな。息子がよっぽど優秀で陛下に対する忠義が厚い人間なら陛下もお許しになるだろうが、アレに許されるとは思わんな」
「私も思わないです」
実の兄をアレ呼ばわりしたことに対して抗議することもなく、ラフィーネも同意した。
どう考えても兄がリンゼイル伯爵になる目はないのに、あの頭の中でどんな計算が働いたのだろう。
がばがばすぎる計算なので実現する望みは薄いだろうけど、言うだけならば自由だ。
ちょっと笑われて馬鹿にされるだけで。
「私が何を言っても、お兄様には無駄なのよね、現実が理解出来るようになるまで、ずっと夢を見ていればいいのよ。もう、私に関わって来なければ、それでいいです。……さすがにちょっと疲れましたね。ヴァッシュ様、紅茶でも飲みませんか?」
「あぁ、そうだな。ここからなら俺の執務室が近い。休憩が出来るソファーもあるし、そこでいいか?」
「はい」
「なら、誰かに紅茶を持って来てもらおう」
「いえ、可能であれば私に淹れさせてください。紅茶を淹れているとちょっと心が落ち着くので」
「そうか。以前、ノアからどこかの珍しい紅茶をもらったことがある。まだ残っているはずだ。それでいいか?」
「もちろんです」
疲れた顔で、それでもどこか吹っ切れた感じの笑顔をしたラフィーネに、ヴァッシュも微笑んだ。
ちなみに、ノアからもらった珍しい紅茶はフレストール王国の女王のお気に入りで、彼の国の宰相が知り合いにのみ売っているという花の紅茶と言う名前の幻の紅茶だった。
香りが良く味も美味しかったのでラフィーネが気に入り、ヴァッシュがノアに頼み込んで取り寄せるようになるのだった。




