【79】脱出
「終わった……の?」
顛末を見届けて、最初にそう口を開いたのは、エレンだった。
魔力の残滓が流れて再びただの折れた剣へと戻った【レイライン】を握りしめたまま、彼女は俺を不安げに見つめて。
……そんな彼女に俺は、ゆっくりと頷いて返す。
「ああ。魔王は、討滅された。……エレン、君がやったんだ」
そんな俺の返答に――彼女は目を丸くして。それからしかし、少し不機嫌そうに頬を膨らませると、つかつかと俺の方へと歩いてきて、
めちゃくちゃ全力で向こう脛を蹴ってきた。
「いって!?」
「なーにが『君がやったんだ』よ! どう考えてもあんたがほとんど一人で倒してたじゃない!!」
「怒るとこそこかよ!」
「当たり前でしょ! なんなのよあんた、ちょっと見てないうちになんであんなワケわかんないスキルぽこぽこ生やしてるわけ!? ドン引きしたわよ! あんなん私なんかより全然強いじゃない!!」
「まあまあ、エレンさん……」
間に苦笑しながら割って入るラーイールを一瞥して、エレンは急に真顔になって彼女を指差すと、
「あ。めっちゃおっぱい見えてる」
「えぇ!!??」
そんなエレンの指摘に、ラーイールはぱっと顔を真っ赤にして己の胸元を隠す。
先ほど魔王に貫かれた際に空いたのだろう、彼女の服の胸元には、ぱっくりと大穴が開いていた。……気付いてはいたものの、シリアスな空気の中でそれを言ったら台無しになりそうなのでスルーしていたのだが、この勇者は。
自ら話の腰を盛大に折ってくれた後、エレンは少しトーンダウンした様子で小さくため息を吐いた後、俺に向き直る。
勢いを失ったせいか、どうにももじもじとした様子で、彼女はこう続けた。
「まあ、ええと。とにかく、色々と言いたいことはあるけど、その――ありがとう」
「へ?」
間抜けな声を出したら、再び向こう脛を蹴飛ばされた。
「痛えよ!」
「この私がお礼言ってるのにあんたが間抜け面してるからじゃない!」
「まぬ……って、お礼?」
エレンを見返すと、彼女もまた先ほどのラーイールに負けないくらいに顔を赤くしながら、こくりと小さく頷いた。
「あんたのお陰で、助かった。あんたがいなかったら、私たちじゃ……魔王を討つことはできなかった。さっきはお礼、言いそびれたから……それだけ」
そう言葉を切り上げると、彼女はぷい、とそっぽを向いて俺からそそくさ距離を取る。
……俺の力じゃ、ないけれど。強いて言えば、せいぜい運が良かった――それに尽きるのだろうけれど。
それでも今は、そんなことを言うのも野暮というものだろう。
そう思って俺は、その背中にこう返した。
「どういたしまして。勇者様にお礼を言われるとは、俺もまだ捨てたもんじゃねえな」
「うっさい」
そんなやり取りに、「あのあの」とぴょんこぴょんこと手を上げて割って入ってきたのはソラスであった。
「ついでに私も私も。今回の一番の功労者と言っても過言ではないですし、お褒め頂いてもいいんですよ。なんならうちの宿に『勇者より』とか色紙の一枚でも寄贈いただけるとなお良しです」
「誰この子」
「視界にすら入ってなかったっ!?」
……なんてくだらないやり取りが始まって、若干空気がヌルつき始めたあたりのこと。
ぴしりと、何かが軋むような音が聞こえて――辺りを見回すと、その光景に皆思わず目を見開いた。
「……なんだ、こりゃ」
魔王によって書き換えられた空間。どこまでも広がる青空と花畑の、浮世離れた風景。
その青空に――ひとすじの亀裂が、入っていたのだ。
俺たちが佇んでいる間にも亀裂は徐々に周囲へと広がり、空だけでなく地面も、ぴしり、ぴしりとひび割れてゆく。
そして……ガラス片のように割れこぼれた風景のその下からは、あの薄暗い玉座の間が垣間見えていた。
「術者がきえたから、空間がもとにもどろうとしてる」
ルインの言葉に、ソラスが「なるほど」と手を打って。
「そうすると、私たちはどうなるので?」
「空間の崩壊にまきこまれて、しぬかも」
「わぁ」
現実を受け止めきれない様子で白くなったソラスを置いておいて、俺はルインに問う。
「なんとかできないのか?」
「できなくは、ない。術者がいない今なら、空間の術式に干渉して出口をつくることはできる。ただ……」
「ただ?」
口ごもった後、ルインは歯切れの悪い調子でこう続けた。
「元の空間とつなげた瞬間に、この空間の不安定さはさらに増す。急いででないと、とりのこされる可能性も、ある」
「……なるほどな」
あの魔王ときたら、最後まで面倒事を残してくれるものである。
「でも、それしかないんでしょ。なら迷ってる暇もないでしょう」
そんなエレンの鶴の一声で、ルインもまた腹を決めたようだった。
「……なら、今から空間を開く。出口はどこに開くかわからない。開いたら、すぐにはしれ。あとゴウライはわたしをかかえろ」
「うむ、了解だルイン殿」
ゴウライに小脇に抱えられて、「そういうかかえかたではないのだが」と微妙に不服げながらもルインが指先に魔力を集め、空間になにやら書き込んでいく。
その瞬間――周囲の軋む音が増し始めて、やがて俺たちのちょうど正面方向に、不意にあの、玉座の間の入り口にあった巨大な門が現れた。
「あれが出口か!」
門へと向かって、一斉に走り出す俺たち。そんな中でふと後ろを見ると――伯爵だけがその場で、動かずにいた。
「何やってんだ、伯爵! あんたも来い!」
「私のことは気にせず、先に行け。……私は、彼女を連れていかなければならん」
そう言って彼が抱きかかえようとしていたのは、上半身だけになって沈黙していたあのメイドだった。
しかしどうやら人間ではないらしいその体の重量は、伯爵ほどの体躯であっても持ち上げるのに一苦労らしい。
ようやく肩に腕を回して抱き上げながら、彼は遅々とした速度で歩を進めて――けれどその後ろの空間が、その時大きく歪み始めた。
「空間の維持が、限界だ。はやくしろ……!」
門の付近でこちらに向かって声を張り上げるルイン。皆はすでに外に出られたようだが、伯爵だけがまだ、届かない。
伯爵の後方の空間がばらばらと崩れ始めて……そこには黒い、闇ばかりが広がりつつあった。
「ああ、くそ! 世話の焼ける!」
舌打ちしながら、手を貸すべく俺が戻ろうとした……その時だった。
「――もたもたしてんじゃねえぞ、クソ親父が!」
突如門からこちら側に踏み込んできた黒い影が、俺の横を素早く駆け抜けて、一直線に伯爵の元へと向かったのだ。
吐き捨てるようにそう告げた彼を見て、伯爵は目を見開く。
「キース、お前……」
「なんだか妙なことが起きてると思って最深部まで来てみたら、何してやがるんだよクソ親父! ……ただでさえどんくさいくせに、こんなもんまで担いで行けるわけねえだろうが!」
言いながら、その時間も惜しいとばかりに黒衣の彼――キースは無理やり伯爵の背負っていたメイドの体を引き剥がすと、そのまま自分が背負って走り出す。
そんな彼にいまだ何か言いたげな伯爵へ、キースは振り返ると、
「話は後だ! てめぇは一発ぶん殴ってやらねえと気が済まねえ……口動かしてる暇があったらとっとと足を動かしやがれ!」
粗暴な口調でそう告げた彼に、伯爵はぐっと歯を噛み締めて。小さく頷くと、門へと向かって走り始める。
伯爵の一歩後ろが崩れ続ける中で、彼は走って、走って。
やがてキースが門を超えると、彼はメイドの体を俺へと預け、伯爵へと手を差し伸べる。
伯爵は一瞬躊躇して、けれどその手を、がっしりと掴んで。
キースが彼の体を引っ張り上げたその直後――門の向こう側が完全な漆黒に閉ざされた後、次の瞬間そこには再び、玉座の間がしんと広がっていた。




