【75】魔王からは逃げられない
闇が、石棺の表面へと広がってゆく。
中に詰め込まれた無数の屍を泥のように覆い、包んで――やがてその中に一筋の亀裂が走る。
ぴしりと、表面に刻まれたそのひび割れから、こぼれ落ちるのは光。
そして光とともに飛び出してきたのは、一本の腕だった。
ぼんやりと青白い輝きを放つ、どこか無機質さを感じさせるほっそりとした腕。
石棺の表層のひびは見る見るうちに広がり、やがて覆っていた闇は内から放たれた光によって破散して、内側に収められていたものが、姿を見せた。
それは、女性の形をしていた。
服は着ておらず、ただし裸身というには無機質な、奇妙な質感の体。顔立ちはメガミのそれと遜色ないが、しかし背丈はゴウライの三倍ほどはあろう巨大さ。
全身にはあの【腕輪】と同じような奇妙な文様がまるでひびのように走っていて、その隙間からは淡い緑色の光があふれ出しているのが見て取れた。
そして何より目を引くのはその背中。そこには三対の、鳥のような形の漆黒色の翼が生えていて――真っ青なその髪とともにその翼を羽ばたかせながら、「それ」はゆっくりと、目を開ける。
<……ああ、やっと。やっと私は、私自身の体で、世界と繋がれた――>
音ではなく、直接頭に響いてくるような声。男のようでもあり、女のようでもある奇妙な音程。
見るだけですくみ上がるような、不思議な威圧感を発しながら「それ」はゆっくりと棺からその身を現して……そして、俺たちを、見る。
「っ…………!」
ただ“見られた”だけ。それだけで心臓を鷲掴みにされるような重圧にさいなまれて、俺は息を呑む。
後ろではその圧迫感に耐えきれずか、ソラスがたまらずしゃがみ込み、吐瀉している音が聞こえてきた。
「……蘇って、しまった」
先ほどの傷が癒えきっていないのか、顔をしかめながら呟くゴウライ。
エレンもまた立ち上がると、石棺から出てきたメガミ……否、「魔王」の姿を見て、ぎり、と歯噛みする。
……そして。
「……これは。私は、一体……何が、何が起きている……ッ!?」
復活を遂げたその姿を前にしてそう呟いていたのは、ガードリー伯爵その人だった。
そんな彼を一瞥して、魔王は無機質な笑みをその顔に浮かべてみせた。
<ご苦労さまです、伯爵さん。貴方のおかげで、こうして元気になれました。……って言っても、まだ記憶がぐちゃぐちゃで分からないかもしれませんね>
「なに、を……ッ!」
<協力して下さったお礼です。思い出させてあげましょう、貴方がしてきたこと>
そう告げて魔王が指をぱちんと鳴らした、その瞬間。
伯爵はそこで瞠目して周りを見回して。やがてその場で膝をつくと――わなわなと己の手を見つめながら、絶望の面持ちで呟いた。
「……あ、ああ。そんな。私は、私はなんということを……!」
<あはは。いい表情をしてくれますね、伯爵さん。やっぱり貴方みたいな真面目な人は、美味しそうな絶望を見せてくれる――>
そう嗤いながら、その場で崩折れたまま動かない伯爵を見下ろして、魔王はその白い腕を頭上に掲げる。
掌の先に禍々しい闇の魔力が凝集し、純然たる破壊の力場が形作られて。
<じゃ、さようなら。その素敵なお顔のまま、死んでください>
……魔王が放ったその闇が、伯爵のいたあたりの床一帯をすっぽりと飲み込む。
光すら吸い尽くす漆黒。その一撃はそこにあった一切合切をこの世から消失せしめて――しかし。
「……なっ……」
直撃したかと思いきや。伯爵は少し離れた床の上で倒れていた。
その腰あたりに……上半身だけになった、あのメイドの姿をともにして。
「旦那、さま。お逃げ、くだ、さい」
「……エリーザベト! エリーザベト、お前、何をしている……!」
血相を変えて彼女の体を揺する伯爵に、“エリーザベト“と呼ばれたメイドは無表情のまま、口を開く。
「私は、奥様の代用品として、旦那様に仕えるためだけに造られた、人形――旦那様をお守りすることもまた、私の、機能、です」
とぎれとぎれに告げる彼女の胴体。闇に喰われて引きちぎられたその断面から血は流れず、代わりに黒い油や裂けたパイプ、砕けた歯車などといった機械部品が零れ落ちていた。
だがそんな彼女を、伯爵は悲痛な表情のまま抱きかかえて、首を横に振る。
「馬鹿者が……! 私のような者を。魔王に唆されて手駒に堕ちた愚か者を、守る必要などないというに……!」
動かなくなったメイドを抱えて項垂れる伯爵を見下ろしながら、魔王は空中で足を組みながらぱち、ぱち、と拍手する。
<くっさいお涙頂戴、ありがとうございます。退屈すぎて思わず見入っちゃいましたよ。ですが――もういいでしょう。貴方がたは、ここで退場です>
そう告げた魔王を、伯爵は絶望と怒りの入り混じった表情で見返して。
けれどそんな二人の間に、割り込んだ者がいた。
「待ちなさいよ」
「……勇者、エレン……」
その者の名を、伯爵はただ呆然と呼んで。けれど彼女は振り向くことはせず、魔王を睨みつけながらこう続ける。
「勝手に絶好調で暴れてくれてるんじゃないわよ、クソ魔王。貴方の天敵が、ここにいるってのに」
<天敵? 面白いことをおっしゃいますね、勇者さん。人間風情が、私の敵を僭称するなんて片腹痛いですよ>
「その人間にバラバラにされて封印されたの、どこのどいつだっけ」
そう挑発しながらエレンは、座り込んだままの伯爵が腰に差していた剣――【レイライン】を引き抜くと、そのまま視線だけ俺に向けてこう告げた。
「ウォーレス。そこの子と、このおっさんを連れて先に逃げて」
「……なっ。何言ってんだ、エレン――」
<あはは。身を挺して、時間を稼ごうってわけですか。泣けますねぇ>
「……は? 何言ってるわけ?」
剣呑な声音でそう告げたエレンを、そこでラーイールの唱えた強化の魔法が包む。
彼女の隣ではゴウライが、無言のまま折れた斧の柄に闇の刃を纏わせ構え――後方ではルインが杖を床に突き立て、大魔法詠唱用の魔法陣の展開を始めていた。
それぞれが臨戦態勢を作る中、エレンは剣を振るって宣言する。
「私たちは、ここであんたをぶっ倒すのよ。……あんたを棺に入れ直したら、のんびり上に戻るとするわ」
<あはは。……でも残念ですね、そもそも私からは、逃げられません。――ほら>
小馬鹿にしたようにそう言って魔王が指を鳴らした、その瞬間。
広間の風景が――一瞬のうちに、全く違うものへと変わる。
どこまでも伸びる花畑に、抜けるような青空、降り注ぐ陽光。
……それは、嘘みたいに地上のような光景だった。
見果てる限りの地平線の先に、来たはずの扉は当然見えないし、階段などもない。
足元から香る花々もまた、決して幻術などによるそれとは思えないほどに生々しい。
「これは……領域置換の魔法? 空間の情報を、根本的に書き換えて変質させてる……?」
ラーイールの言葉に、ルインが顔をしかめる。
「そんなの、原初精霊の御業にもひとしい。バカげている……」
<ところがどっこい、できちゃうんですよ。私はとってもすごい魔王様ですからね>
あくまで軽い口調のままそう言うと、魔王はその人形のような顔を歪めながら告げる。
<魔王からは、逃げられない。……お望み通り、殺し合いを始めようじゃあありませんか>




