98 かきまぜる
アジュールを待つ間、エステルは少し休息すると言って静かになった。
恐らく眠っているのだろう。
話し相手もいなくなって更に暇になったコスモスだが、視界の隅にぼんやりとした白い影を捉えて首を傾げる。
それは少女のような姿を取って、静かにコスモスへと近づいてきた。
アジュールと合流する前にも見た少女だろう。
悪いものならば防御壁に触れて消えてしまうはずなので、怖いとは思わない。
しかし、この世界でその少女だけが異質のように思えてコスモスは観察するように音も無く目の前に立った少女を見つめた。
「……」
歳は10前後だろうか。肩甲骨くらいまである髪が風も無いのにふわりと揺れた。
全体的に白く輪郭がぼやけている。
コスモスの視線を受け止めて、白い影の少女はその場でくるりと回って見せるとゆるりと淑女の礼をした。
つられてコスモスも姿勢を正して頭を下げる。
すると、少女が少し笑ったような気がした。
「あー、ごめん。何言ってるか分からないのよね」
ぱくぱく、と必死に動く口は分かるのだが声が聞こえない。
身振り手振りを交えて、何かを伝えようとしているのだろうがコスモスにはさっぱりだ。
どこかへ連れて行きたいのだろうかと首を傾げ、コスモスはとりあえず現状を少女に伝える。
しきりに城の方を指差すのだがそちらには行かないこと。仲間が城に偵察に行っていて今は帰ってくるのを待っていること。
合流次第、魔術院の中庭に向かうことになっていること。
こちらの言葉が彼女に伝わっているかどうか心配だったが、ほっとした表情で胸に手を当て笑顔を向けるところを見ると理解できているのだろう。
(こっちの言葉は通じるのにこの子の言葉は分からない。不便だなぁ)
今まで意思疎通に困ることがなかっただけに、こういう場合はどうしたらいいのか分からない。エステルを起こせば何かアイディアをくれるのだろうが、休息中なのでそっとしておきたかった。
「ええと、城に行くなっていうのを教えたかったの?」
そう尋ねれば少女は何度も頷いて嬉しそうに笑みを浮かべる。
不思議な存在だが、危険を知らせてくれたのならばありがたい。
エステルやアジュールがいれば、か弱い少女の姿をしているとはいえ正体不明なのだから安易に信用するなと怒られてしまいそうだ。
「何でここにいるのか分からないけど、ここは危ないよ?」
「……」
帰れるなら帰ったほうがいいと思うが、正体不明の上に彼女がどこから来たのかも分からない。寧ろ、初めてあった時にはこちらが助けられたといってもいいのかと思っていると、少女は胸を張って拳を握るとそれで自分の胸をトンと叩く仕草をした。
心配無用ということだろう。
ふと、じりじりと寄ってくる黒い影が少女へ手を伸ばそうとしているのを見てコスモスは短い声を上げた。
彼女が手を伸ばしてそれを振り払う前に、影は少女に触れて消失する。
「なるほど」
黒い塵のようなものになって消えていく影を一瞥して、少女はスカートの裾を手で払った。
こういうことは慣れているのだろう。
少女からは恐怖も怯えも感じられなかった。
アジュールがぐったりとしたライツを背に帰ってきたのは、少女がどこかへ行ってしまってから暫く経った時のことだった。
どこかで会えるだろうと思って楽観視していたのだが、アジュールの背に荷物のようにして運ばれてきたライツは青白い顔で謝罪する。
床に降ろされた途端に嘔吐するライツはひどく衰弱しており、何があったかと聞けるような状態ではない。
エステルは休息中であることをアジュールに言ってコスモスはライツの背中を擦った。
「城内に入るのは容易かった。大体こういう時は謁見の間が怪しいからな、そこに行ってみたが何もなかった」
「そうなの」
「何もなかったが、謁見の間周辺の魔物の湧きかたは異常だった。まるで何かありますよと言わんばかりでな」
苦労して倒してたどり着いた先には何もありませんでしたというパターンか。
骨折り損のくたびれもうけなんて想像しただけでも嫌だ。
顔を歪めながらアジュールの話を聞いていたコスモスは、少し落ち着いてきたライツの背中を擦り続けながら様子を窺う。
安全な場所にライツを置いて魔術院の中庭に移動し、後でライツを回収するかとも考えたがそれも危険だ。
ライツを守るためにアジュールを待機させるという手もあるが、それはアジュールが納得しないだろう。
「それで、ライツは?」
「ああ。謁見の間に何もなかったから、そのまま帰ろうかとも思ったんだが役に立つものがあればと軽く城内を回ってきた。そこで見つけた」
「そうなの」
「あれは、書庫のようなものだったな。魔物に食われたかと思ったんだが、黒い蝶に群がられて身動きが取れず苦しんでいた。無視しても良かったがマスターが怒るかと思って、仕方がなく助けてやったというわけだ」
「群がられてたの」
想像してその気持ち悪さにゾッとする。
コスモスは黒い蝶に群がられたところで何も感じないが、ライツはそうもいかないだろう。ある程度の耐性を持ち退けられるからと言っても限度はある。
『コスモス、そやつの中に手を入れて掻き混ぜてやれ』
『エステル様……って物騒なんですけど!』
『いいから早くせんか』
どうなっても知らないですよ、と呟いてコスモスはライツに声をかけてから彼の背を擦っていた手を体内へと入れる。
加減が分からず貫通してしまったので、慌てて戻してゆっくりと掻き混ぜる。
胃液を吐きながら苦しそうに呻いていたライツの呼吸が少しずつ落ち着いて、顔色が良くなってきた。
水を掻き混ぜているような感覚に変な顔をしながらコスモスはいつまでこうしていればいいのだろうかとエステルの指示を待った。
「あのまま放置しておけば、そいつが魔物になっただろうな。引きずり込まれたら二度とここからは出られない」
「ギリギリだったんじゃない。ありがと、アジュール」
「礼には及ばん。しかし、前回と同じようにいかないとなると少し厄介だな。巣食ってるものが魔術院の中庭で待っていればいいんだが」
「……エステル様がそれは無いだろうって。行ってみないことには分からないけど」
「ふむ。そいつが回復するまで少しかかるだろう。ならば、先に様子を見てこよう」
音も無く影に消えるアジュールを見送って、コスモスは手を動かし続ける。エステルは何か思案しているように小さく唸っており、ライツは辛そうに身を横たえたまま眉間に皺を刻んでいた。
「御息女、もう、大丈夫です」
「そう? 無理しないで休んでてね」
静かに息を吐いたライツがそう言うので彼の体内から手を抜いたコスモスは心配そうに様子を窺う。慧眼は相変わらず上手く働かないが、アジュールが連れ帰ってきた時に比べたら良くなっている。
あんなことでこんなにすぐ良くなるものなのか、と彼の体内を掻き混ぜていた右手を見つめながら不思議に思っているとエステルの笑い声が聞こえた。
『魔力による寄生なら、その元を正してやればよい。これを生身の者がやるとなると技術がいる上に難しいことなのだが、お主であれば関係ないだろう?』
『私が人魂だからそれが利点になってるってことですか。まぁ、どこでも誰でも何でもすり抜けられますけどね。しかし、人体内部を掻き混ぜるなんて初体験ですよ』
『狂ったライツの魔力循環を正常に戻す手伝いをしてやったというわけだ』
『え、あんなことで?』
『あんなことで、だ。自覚がないのが本当に恐ろしいというか、どう教えたらいいものか分からなくなるマザーの気持ちも理解できるなぁ』
『えー。一番困ってるのは私なんですけどね』
何か凄いことをしていると言われても実感がないのでなんともいえない気持ちになってしまう。威張るのも違うだろうし、謙遜するのもちょっと違うだろう。
知らないうちに凄いことをしているとは、こんなにモヤモヤして気持ち悪いのかとコスモスは眉を寄せた。
少し前までなら「私ってすごい!」と思っていただろうに、今は嬉しくない。
『病院でも訳が分からないまま虚ろ病患者を回復させたであろう? あんなものだと思えば良い』
『そうですけど、あれはイグニスが燃やしましたし』
『蝶自体は魔力の塊だという話はしたな? 今回もそれと同じだ。お主がライツから余分な魔力を吸収していただけだ。満腹感とか、悪酔いはしておるか?』
『いいえ。何も感じません』
『ふむ。それならば尚更、黒い蝶はお主には何も悪さはできんということだ。ただの魔力として吸収され、余剰分は大気に還る。それだけのこと』
それだけのこと。
そうエステルはさらっと言ったが、コスモスとしたらモヤモヤとした気持ちが晴れるわけではない。尚更自分が気持ちの悪い存在だと言われたようでちょっと傷ついた。
しかし、そんなのは今に始まったことじゃないかと諦める。
(異世界からやってきて、人魂で。認識されない意思疎通できない上に、どこでもすり抜けられる。五感もなく、食事も睡眠も排泄も必要としない。それに慣れると人に戻った時に困るから、肉体があった時と同じように過ごしてはいるけど)
結局、自分のことを自分がよく分からないのだ。
マザーもエステルも悪さをしないのならそれでいいと放置しているが、果たしてそれで良いのだろうかとコスモスは首を傾げた。
元の世界に帰るのは何があっても変わらぬ願いであり、その為にコスモスは頑張っている。
召喚した相手がもし生存していたら、ボコボコにしたいという思いもある。
(うーん。まぁ、今はそんなことより目の前のことだね)
『案ずるなと言っても今のお主には無理だろうが、何かあればマザーか私が動く。今は何も心配せず、王妃を回復させることだけを考えよ』
『そうですね。考えても答えは分かりませんし。五体満足で自分の肉体が見つかるのを祈るしかないですよ』
『ふむ。バラバラであろうと、肉片であろうと、何とかできるぞ』
『マジですか』
『まぁ、足りぬ分は他の材料ということになるが、それは仕方がないな』
物騒なことを言うのはやめて欲しかったが、そうなっているかもしれないとどこかで想像しつつ見ないふりをしていたことだ。
そうなっていたとしても何とかなると聞いたコスモスは、やる気が出てきた。
ライツも動けるくらいには回復した様子で、迷惑をかけて申し訳ないと謝罪してくる。命あるだけ良かったと気にしないように告げて、戦闘になればアジュールがいるので大丈夫だと彼を元気付けた。
「マスター戻ったぞ。ただ、何やら結界のようなものがあって中庭らしい場所には入れなかった」
「え……」
ライツの影からぬっと出てきた獣は小さく息を吐いて魔術院がある方向を見ながらそう告げる。
幸い、城内ほど強い魔物は存在していないらしい。
軽く払える程度だと告げたアジュールは、回復したライツを見てフンと鼻を鳴らす。
そんな様子を見ても怯えることもなく、ライツは丁寧にアジュールに礼を告げた。
「結界かぁ。行っても無駄かな?」
「エステル様が中庭と言ったのなら、一応行くだけ行ってみればいいだろう」
「エステル様、それでいいですか?」
『構わぬよ。私もあの中庭に何があるのか気になるからのぅ』
エステルに言われた通りに作った護符をライツに持たせ、コスモスたちは魔術院の中庭へと向けて歩き出す。
こちらの世界にいると時間経過が良く分からなくなってくるが、危なくなれば外部からの接触があるはずだろうとライツが教えてくれる。
外にはトシュテンもいるのでその点は心配ないだろう。
「はー。魔術院かぁ。学校、青春、恋愛、胸キュン、熱血、友情……ロマンだわ」
「御息女?」
「気にするな。マスターは時折変になる。それだけだ」
「はぁ」
慣れた様子のアジュールにエステルがおかしそうに笑う。
怪訝そうな顔をしていたライツは数度咳き込むと、軽く頭を左右に振って何かを確かめるかのように頷いた。
「このまま長居するわけにもいきませんから、目的地が決まっているならば移動しましょう」
「大丈夫?」
「はい。本調子とはいきませんが、お陰で楽になりました。足を引っ張ってばかりで申し訳ありません」
「無理しないでね。具合が悪くなったらすぐに言って」
ずい、と至近距離でライツの目を見つめながらコスモスはそう告げる。熱量と圧に少しばかり顔を引き攣らせながら後ずさりをしたライツは、必死に頷いた。
「案ずるなマスター。こいつが倒れたら私が運べばいい」
「まぁ、それはありがたいけど。倒れないのが一番よね」
「無理はしません! 無理はしないので、どうかもうあの移動方法だけは……」
刺激的だったここまでの移動を思い出したのか、ライツは口を手で押さえよろめいた。そんな彼を見上げたアジュールは「軟弱な」と呟き小さく息を吐く。
「分かった。では、次があった場合は咥えて運んでやる」
「えっ」
「悪化したね」
アジュールがライツを咥えて走る姿を想像したコスモスは思わず同情するようにそう呟いた。次があることが決定したかのような雰囲気に、ライツが慌ててそうならないように気をつけますと何度も言う。
あまりにも必死な彼の様子にエステルは楽しそうに笑い、アジュールは楽しい玩具を見つけたかのように口を歪ませた。




