92 睡魔
ちょっとした散歩のつもりだった。
だからこそコスモスも軽い気持ちで出かける事を了承したのだ。
まさか、その散歩がこれだけ疲労するなんて誰が思っただろう。
王都に戻ってきた時にはぐったりと疲れ切ってしまったコスモスに、出迎えてくれたライツは軽く睨むようにトシュテンを見つめた。
宙に浮かぶイグニスは相変わらず美しい低音を響かせて歌っているが、コスモスの手前にいるだろうアジュールは何となく機嫌が悪そうだ。
にっこりとした笑顔を浮かべたトシュテンに何があったのかと問うも、上手くはぐらかされて逃げられてしまったライツは彼の背中を見つめながら小さく舌打ちをする。
「話してもいいんだけど、とりあえず疲れたから部屋に戻ってもいい? ごめんね」
「分かりました。それではオールソン様も立ち去られてしまったので、ここからは私がお世話させていただきます」
「寧ろお願いします。今後も是非そうしていただきたいです」
「……それ程まで、ですか」
覇気の無い声に顔を歪めたライツは溜息をついて部屋まで案内してくれる。
アジュールとイグニスは案内が無くても平気だろうが、内部をさっぱり理解していないコスモスにとって当たり前のように案内されるのはありがたかった。
それだけ自分の性格をライツが掴んできたということかと思うと複雑な気持ちにもなるのだが、今日ばかりはもうゆっくり休みたい。
あれだけ親しげにに近づいてきたくせに、あっさりとどこかへ行ってしまったトシュテンに対する愚痴もあるがそれは無視すればいいだけだと彼女は一人頷いた。
頭の中で響いていた声も先ほどからずっと静かで、つい安心したように息を吐いてしまう。
(オールソン氏じゃなくて、ライツがいいよライツが。あの胡散臭い男はもう嫌だ)
彼の目的が大精霊の元に行くことだったのなら、達成された以上コスモスたちに関わる理由は無い。
それでも何か面白そうだからという理由でついてきそうなのだが、その時は丁重にお断りしようとコスモスは決めていた。
「ライツはもういいの? 忙しかったんじゃないの?」
「一段落しましたし、何かあれば貴方の名前を出すだけですから大丈夫ですよ」
「それはそれは」
「……とりあえず、何かお食べになりますか?」
「うん」
正直コスモスには食欲も無かったが、何か口にしないと体に悪いような気がしたので頷く。
アジュールも軽めの物をと注文するとライツは心得たように頷いて部屋を出て行った。
出て行った時と変わらない様に見える室内だが、何となく嫌な空気にコスモスは眉を寄せてアジュールを見下ろす。
同じように顔を上げていた彼と目が合って両者は同時に頷いた。
ゆっくりと息を吐いたアジュールの後方に退いてコスモスはイグニスと、状況が判らず不思議そうな声を上げるミリィに自分の傍から離れぬようにと告げる。
部屋を包み込むように防御壁を展開させ、自分の周囲の防御壁を強化させたコスモスはタイミングを見計らうように宙を見つめるアジュールへ目で合図をした。
横目でそれを確認した彼は上半身を軽く沈めて咆哮する。
ビリビリと震える程の衝撃も、展開された防御壁によって緩和されコスモスは亀裂が走る宙を黙って見つめた。
一撃、二撃、と紫電が走りどこからか小さい悲鳴のようなものが聞えてくる。
舌打ちをして空中に現われたモノにコスモスは眉を寄せた。
(王都って守りは完璧じゃないの? っていうか何で私たちの部屋だけにこんな細工がしてるわけ? ゆっくり休めないじゃないの)
心の中で愚痴を零しながら出現したものをどうすればいいのかと考える。
「下手に手を出すと何が起こるか判らないからな」
「解体できるの?」
「できたら苦労しないのだがな。私はどうにもこういう系統は不得意で……マスターは何とかできるのか?」
「無茶言わないでよ」
空中に漂う魔方陣は室内全体を覆うように広がっている。禍々しい気配はしないものの、嫌な感じがするせいかさっきからコスモスは妙にイラついてしょうがなかった。
彼女の傍では二体の精霊が不安げに声を上げる。
肉弾戦ならば、とぶつぶつ呟いているアジュールにコスモスはがっくりと両肩を落としつつ、半ば自棄気味に慧眼を使用する。
一気に流れ込んでくる情報の多さに眩暈がしながら、彼女は腹に力を入れ踏ん張る。
「うっわ、頭がパンクするわ。何この数式って言うか方程式みたいな羅列は……訳分からん!」
「ほう。流石はマスター。反撃は無いのだな」
「これ自体に積極的な攻撃性は見られないけど、訳分からないわ。なんなのコレ」
「元凶を連れてこようか」
「いやいや、それは益々面倒な事になりそうだから却下」
舌なめずりをしながら悪い笑みを浮かべるアジュールに、コスモスはピクピクと頬を引き攣らせつつ首を横に振った。
淡く発光する円陣とそこに記されている図形や記号にも似た古代文字。
くるくるとゆっくり回転するそれを暫く見つめながら唸っていたコスモスは、上手いことこれも自動翻訳のように解析してくれないだろうかと考える。
もう少しすればライツが戻ってくるだろうが、部屋に入れぬ異変に大騒ぎしてしまうかもしれない。
その前に片付けてしまわないといけないのかと溜息をついたコスモスに、イグニスが低い声で囁いた。
「ライツに解いてもらえばいいのです」
「うーん。まぁ、それしかないか」
「しかし、あの男にできると思うのか? マスター」
「だって国一番の魔法使いの弟子でしょ? その中でも優秀だって言ってたじゃない」
「自称だがな。それにライツは入室時なにも気づいていない様子だったぞ」
役に立つかどうか分からんと切り捨てるアジュールの言葉に、珍しく声を上げるのはミリィだ。彼女は甲高い声でキィキィ鳴きながら何かを言っている。
恐らく相棒でもあるライツを馬鹿にされて怒っているのだろうが、アジュールは聞えない振りをしながら宙に浮かぶ魔法陣を見つめていた。
「あの男もこれだけ大掛かりな仕掛けをしてたとはな。最初に気付くべきだった」
「何で今頃気付いたのかしらね」
「奴に隠す気が無くなって、そのまま放置したからではないのか?」
「うわぁ、迷惑。でもやりそう」
その人物がやったという証拠はどこにもないから、文句すら言えない。
言ったところで笑顔で躱されるのは目に見えていてコスモスは心の中で舌打ちをした。
利用された挙句にこの仕打ち、どうしてくれようかと後ほどエステルと相談する事に決める。
そうしていると部屋に早足で近づいてくる気配に気づき、コスモスは扉の部分だけ防御壁を薄めやってきたライツを中へ招いた。
気配に気づいて警戒した表情で何があったのかと尋ねる彼に、彼女は「あれ」と言って部屋の中空に浮かぶ円陣を指差す。
否が応にも目に入ってしまうその存在に気付いたライツは、顔を歪めて大きく口を開けた。
「何ですか、あれは」
「こっちが聞きたいです」
「あの男の仕業だろうな」
アジュールの言葉に察したライツは目を細めて「あの人は……」と呟く。その後に続く言葉は心配するように彼の元に近づいてゆくミリィの声に掻き消されて聞えなかった。
「ライツ、あれ何なのか分かる?」
「……恐らく、強力な睡魔を呼び寄せるものかと」
「えー睡魔?」
「ここまで手の込んだ嫌がらせも初めて見ましたよ。高位魔法陣の無駄遣いをするのはうちの師匠だけかと思ってました」
(嫌がらせ? ただの嫌がらせだったのか。確かに冷静に考えてみればそれしか思いつかないけど……)
だが万が一という事もある。
確率が低いのを分かっていながらコスモスは小声で「気を遣って眠りやすくしてくれたのかも?」と口にしてみた。
途端に表情を変えるアジュールと呆れた顔をするライツに彼女は慌てて自分の発言をなかった事にしてもらう。
「あぁ、でもこれがあったからアジュールたちが目を覚まさずにぐっすりだったのかしらね」
「やはりそうか。私もそれを考えていた」
「アジュール、顔が凶悪になってるわよ」
「気のせいだ」
禍々しい雰囲気を出して真っ赤な瞳で円陣を睨みつけるアジュールに、一瞬気圧されたライツだがすぐに落ち着きを取り戻して小さく唸った。
一緒に行動していたせいで、彼も少しはアジュールに慣れたのだろう。
「弱体化したところでこれを発動させたら、まず起きないでしょうね」
「解体は?」
「ライツ、マスターはこれの解析ができたらしいがそれしかできないと言う。お前が解体できないか?」
「あぁ、それでしたら。御息女の助けがあれば可能だと思います」
難しい顔をしていたライツはアジュールの言葉に力強く頷いた。
心なしかキラキラと瞳を輝かせて魔法陣を見つめているのは気のせいだろうとコスモスは溜息をつき、彼の肩に手を置く。
温もりを感じたライツが身を強張らせたのは一瞬で、流れ込んでくる情報に彼は眉を寄せ彼女にストップをかけた。
「申し訳ないですが御息女。もっとゆっくりお願いします」
「え、あ、ごめん。でも結構ゆっくりのつもりだったんだけど」
「あの速度で情報を流し込まれたら、私の頭が爆発します。文字通り」
冗談ばっかり、と言おうとしたコスモスだったが想像以上にライツの目が本気だったので浮かべていた笑顔を引っ込める。
遅いくらいが丁度いいのかと思いながら様子を見て速度を調節する。
ぶつぶつと呟きながらじっと魔法陣を見つめているライツに、コスモスは黙って自分が得た情報を流し込む。
順番が色々違っているらしく眉を寄せたり顔を歪めたりと忙しいライツだが、コスモスに順番など分かるはずが無い。
無事に解析できただけ立派だろうと、誰も褒めてくれないので自分で自分を偉いと褒めながら彼女はゆっくりと古代語を紡ぎ始めるライツを見つめていた。
何となく、手を置いて情報をループさせながら流し込んでいたコスモスは青白く発光するライツの体に「ふぁお」と変な声を発する。
ミリィがコスモスの肩に乗り、可愛らしく声を上げ詠唱を始めるライツの声と重ねた。
ゆっくりと円陣が端から消え去っていく様子を見ていたコスモスは成功したのだとホッとしたが、あと少しで消えるという所で力を取り戻したように魔法陣が再び濃くなった。
目を瞑って集中しながら詠唱しているライツの額や顔は汗でびっしょりと濡れており、元気だったミリィの声も苦しそうだ。
忌々しげに舌打ちをするアジュールの唸る声を聞きながら、しぶとい魔法陣を見つめていたコスモスはそれ越しにある人物の姿が見えたような気がして顔を引き攣らせる。
にっこりとした笑みを浮かべてソファーか何かにゆったりと腰掛けながらこちらを見つめてくるその姿は、殴りたいとしか思えない。
きっとこの男はそれすらも察して余裕で眺めているんだろうなと、コスモスは瞳に力を込めて睨みつけた。
(いい加減にしなさいよ。証拠が無いからって大人しくしてると思えば大間違いだからね)
その事で彼を責められないのは非常に悔しいが、無視すればいいだけの話だ。
何があってもその存在を無いものとして、必要最低限の会話しかしない。
ライツに通訳を頼めば彼など必要ないんだからとばかりに、大きく目を見開いて睨みつけるコスモスの顔が見えたのか魔法陣越しに薄っすらと浮かんでいたその人物は困ったように軽く肩を竦めた。
(大精霊様のところに行って、何があったのか根掘り葉掘り聞こう。そうしよう)
「私はただ、ゆっくりと休めるような空間を用意させていただいただけなのですがね」
白々しくそう呟く声が聞こえたような気がした瞬間に、その色を濃くさせていた魔法陣があっけなく消え去った。
消えたと同時に室内に漂っていた妙な空気もなくなり、ライツはどさりと膝から床に崩れ落ちる。
肩を大きく上下させ荒い呼吸を繰り返す彼を心配するようにミリィが寄り添っていた。
慌てて水差しからグラスに水を注いだコスモスは、ライツの体を支えながらグラスを渡す。
震える手で受け取ったライツは一気に水を飲み干してお代わりと言わんばかりに空のグラスを差し出した。
(あの男、本気で無視だわ。とりあえず、私への認識は無効にしておかないと)
「御息女、水がこぼれ、零れて……あぁ」
「マスター怒っているのです」
「ふん、当然だ」
自分に無視されたところで痛くも痒くもないだろうというのは分かっているが、それなりにダメージを与えられるんじゃないかと思うコスモスは珍しく燃えていた。
そのせいで、寝つきが悪くなってしまうのはもう少し後の話。




