82 質素?
待って、行かないで。
私も一緒に連れていって。
その球体に封じられた記憶は村を出て行く事に決めたメランとの別れの場面だった。
一緒に行くことができないロッカに彼は微笑む。
自分のことを知るため、世界を見るためにとメランが村を去った後、村では異変が生じていた。
(黒い蝶は、ここでか)
ひらり、と姿を見せた黒い蝶が村のあちこちで見られるようになった。
幸福の蝶と酷似しているそれを見分けられる者がここにいるわけがない。
村人たちが、蝶を見つけては幸福の蝶だと勘違いして嬉しそうな反応をするのを、コスモスはため息をついて見つめた。
彼女の頭には黒い蝶に関するこれまでのことが蘇る。
どれもいい思い出なんて言えたものではないので、目の前の光景に割って入りたい気持ちになった。
(イライラする)
「イライラしますね。過去の記憶とは言え」
ライツの呟きに心を読まれたのかと驚いたコスモスだが、そうではないらしい。
彼も思うことがあるらしく、ゆったりと羽ばたく黒い蝶を射るような目で見つめていた。
「ライツはあの蝶が幸福の蝶じゃないって分かるのよね?」
「ええ。オーラが違いますからね」
真偽が判ると言うことはライツの力が優れていると言うことだ。
この国でも上位の魔法使いなのだろうとは、彼の言葉からも分かったのだがいまいちピンとこない。
(ド派手な魔法とか使わないからなぁ)
彼の霊的活力を見ても驚くほどではない。それは実力を隠しているからだと推測できるが、慧眼を持ってしても同じ様ににしか見えない。
それはお前が未熟だからだとエステルにあっさり言われてしまって一応納得はしたのだがコスモスは不満げだ。
(ドッカーンと一掃するのは、しょせんお話の中だけか)
魔法使いの能力と使用する魔法の派手さは関係無いと馬鹿にするように笑われてしまった。
しかし分かっているつもりだが、期待してしまうというもの。
「そろそろ、か」
「そうですね。奥から強い気配を感じます」
違うことに気を取られて警戒を怠っていたコスモスは慌ててそちらを見た。
村の奥、村長の家から漂う嫌な気配。
ロッカの心の奥底に巣食う元凶との対面が間近に迫っていた。
『あの娘のことを案じておるのか?』
『案じているというか……他人に心を暴かれるなんて最悪だなぁと』
『今更だな。それに、こうなってしまっては仕方ない。恥ずかしい過去と引き換えに助かるのだから安いものだろうに』
『私達が言わなければバレないわけですけどね』
分かってはいるのだが、心情としては複雑だ。
ロッカの精神世界に入って原因を探っていたのはつい先日。
最深部にて原因と対面したコスモスたちは、倒しても問題ないと言うエステルに従ってそれを消滅させることに成功した。
『ロッカちゃんも、目を覚まして良かったですよ』
『母親も喜んでおったからの』
憑き物が取れたかのようにすっきりとした様子のロッカは、自分のせいで周囲を巻き込む結果になってしまったことで自分を責めていた。
そんな彼女の心を優しく受け止め、諭したのは例の神官だ。
彼はロッカに、国や教会に自分の知っている情報を提供することが一番だと言い、そうすればロッカも周囲も救われると告げた。
もっと柔らかい口調で、丁寧だが回りくどい言い方をしていたのだが、コスモスもそこまで詳しくは覚えていない。
ただ、彼女の心を救うようにみせて、その実自分達の思い通りに話を進めた気がしてならなかった。
胡散臭いと彼の姿を思い浮かべたコスモスは、嫌そうに片目を細めた。
『あの男のことを考えておったのか?』
『え?』
漏れ出ていたかと視線をさ迷わせていたコスモスが、曖昧に笑うと同時に部屋のドアがノックされる。タイミングの良さにびくりと肩を震わせたコスモスは周囲を見回して「はぁい」と小声で返事をした。
室内に二つ有るベッドをそれぞれ一つずつ使用しながらアジュールとイグニスが眠っている。
あまりにも静かに眠るのでそれだけ疲労が大きいのだろう。
コスモスは普通に眠った程度で疲れが取れてしまったので暇なのだが、身の安全も考えてグレンとライツに言われた通り室内で待機している。
(返事しても、私が認識できる人物は限られているから無駄だろうけど)
鍵は閉めていないので用があるのなら入ってくるだろう。
無用心だが、最上位の精霊と得体の知れぬ魔獣がいる部屋に好き好んで来る者も少ないはずだ。泥棒だってこんな部屋は避けるに決まっているとコスモスは一人掛けのソファーに座って息を吐いた。
『入ってきたな』
『……反応ないなら普通は帰りますよね?』
『普通ではないということだろう』
『こわっ』
ドア越しになんとなく気配がしたので誰なのか想像がついたのだが、そのまま引き返してくれるようにと願ったコスモスの思いは叶わない。
静かに開いたドアから濃厚に漂う気配には思わず顔を歪めてしまったほどだ。
これがグレンやライツならばここまで嫌な気分にならずに済んだだろうに、と入室した人物に反応しないアジュールを恨めしげに見つめた。
耳はぴくぴくと動き、尻尾も小さく揺れたのだがそれだけだ。
閉じられた目が開く事はない。
疲れているのだから静かに眠らせてあげようとは思うのだが、何かあった時に自分の防御壁だけで対応できるだろうかと彼女は不安だった。
(いや、なにも取って食われるってわけじゃないんだけど、落ち着かないのよね)
悪い人ではないだろうというのはわかるが、できれば関わりたくない人物がキョロキョロと室内を見回していた。
ベッドの上で寝ている二体を見て微笑ましげに笑うと再び何かを探すように視線を巡らせる。
ソファーで極力気配を消して静かにしていたコスモスは、近づいてくる足音に「来ないで」と心の中で叫ぶ。
「おや、ここにいらっしゃいましたか」
「……」
(よし、寝たふりをしよう)
近づいてくる声にそう考えているとその人物が近くのソファーに腰を下ろした音がした。
ギシッと軋む音がやけに響いて暫く様子を窺っていたコスモスだったが、その人物がいつまで経っても立ち去ろうとしないので目を開けようか悩む。
彼に自分の姿は見えないはずだと思っても、万が一という場合がある。
見えたとしても人魂の姿であれば表情の変化がわからないのでまだ何とかできるが、人型として認識されてしまったら言い訳のしようがなくなる。
(でも、私を認識できる存在はめったにいないし、人型でなんて認識できるのはアジュールくらいしかいないからきっと大丈夫!)
『助けて、エステル様!』
『……』
『あ、ずるい! こういう時ばっかり通じないなんて』
自分で自分を励ましながら、心強い味方に助力を請おうとしたコスモスだったが返答がなくて唇を噛んだ。
どうしてこんな時に通信遮断するのか、と心の中で叫びながら彼女は諦めたように目を開けた。
「……」
予想通りコスモスの目の前にいたのは、ヴェスの町であった神官だ。
彼はロッカの病室にも同席し、彼女の精神世界へと繋がる道を出現させた胡散臭い人物だ。
実力は折り紙つきだと溜息をつきながらエステルも言っていたくらいなのだから、抵抗したところで無駄だろう。ならばさっさと諦めるしかない。
「起こしてしまいましたか。申し訳ありません、御息女」
(寝ているのが分かったの? これは気が抜けないわ)
「……いえ」
両手を組んで正面のソファーにゆったりと座っている男は、コスモス曰く胡散臭い笑みを浮かべて話しかけてきた。
本当に悪いと思っているなら笑顔は浮かべないはずだ、と思いつつ彼女は小さく返事をする。
彼との会話は必要最低限の単語で済ませたいと何をしに来たのだろうかと首を傾げた。
「ここの使い勝手は如何です? 違う部屋が良いならば別を用意しましょうか?」
「いえ、結構です」
「ふむ。御息女は質素ですね」
(質素って、高級家具が置かれていたり上質なお茶や菓子が用意されていて、ベルを鳴らせば部屋付きの使用人が御用窺いに来る事?)
意味が分かっていて言っているのか、わざと言っているのか。
心の中で突っ込みながら無言でいると男は何が面白いのかくつくつと笑い始める。
撫で付けられたような金色の髪に穏やかな光を湛える緑の目。
人が好い表面上とは違っていまいち何を考えているか判らない人物である。
慧眼を使用しても無駄だろうと思ったコスモスだが、一応は試してみた。当たり障りの無い情報しか得られずに益々胡散臭く思えてしまった結果になったのだが。
「グレン殿とライツ殿のお二人は、用事が立て込んでおりますので今後は私が御息女の窓口になります」
「……そうですか」
(いい子にしますからチェンジでお願いします。理由が分からないけどゾワゾワして嫌なんです神様!)
何でもないように答えながらも彼女の心の中は大荒れである。忙しくて放置されても構わないからグレンかライツのどちらかに来て欲しいとあまりにも必死すぎる心の叫びに、だんまりを決めていたエステルの苦笑が聞こえた。
(一方的に切ってたんじゃないんですね! 音声だけ遮断してこの様子を楽しんでるわけですか! そうですか!)
「ご不満ならば他にいたしますが」
「例えば?」
「おや、御息女は私ではご不満ですか」
すぐに食いついてしまったのがいけなかったのだろうか。
口調はいつもと変わらず抑揚を抑えて淡々としていたはずなのだが、気が焦るあまりに会話のテンポまで気が回らなかったとコスモスは唇を噛んだ。
気を悪くした様に見えない男は楽しそうに笑って目の前の人魂を見つめる。
「気になっただけです。すみません」
「いえ、謝られる事はありませんよ。悲しい事に彼ら以外で貴方を認識できるのは私くらいしかおりませんので」
「……そうですか」
はっきりと彼の口から出た言葉で目の前の男が自分を認識できるのは確定したが、人魂の姿で見えるのかそれとも人型なのかは判らない。
不要な発言はしない方が吉かと判断したコスモスはそう告げて、軽く肩を竦める男を見つめた。
「しかし、エステル様の代理である私が教会関係者の貴方を窓口とする事に問題は生じませんか?」
「ご安心を。教会は国によって対応を変える事はあまりありません。エステル様の代理に御息女が選ばれたというのも何かの縁です。貴方のご不興を買うような事はいたしませんよ」
(それが、胡散臭いんですけど)
ミストラルと教会は良い関係を保っているが、他国も同じとは限らない。
この世界で国と教会の関係性がよく分かっていないコスモスにとっては、聞いておかねばならない重要な事だった。
仲が悪くて戦争の火種になるとか、いがみ合っているというわけではない事を聞いて安心したコスモスはホッと息を吐く。
宗教が原因で世界規模の戦争になる事だってあるくらいだ。たかが宗教と言えど侮れるわけがない。
信者がいればいるほど、力を増すと言ってもいい教会の存在感を考えると、国にとっては頭が痛いのではないかとも想像したが、ここレサンタ王国でも関係は良好そうだ。
穏やかで、平和でのんびりとした空気が流れていたミストラルを思い出すと、他のどの場所に行ってもあそこだけが違うのだと思い知らされる。
見えない何かに守られているようだと心の中で呟いたコスモスは、何故かマザーの姿を思い浮かべて溜息をついた。
(マザーとも通話できるはずなのに、全然繋がらないんだもの。エステル様は遠過ぎるからだろうとは言っていたけど)
何かあればエステルを通じてマザーに伝えればいいのだが、直接会話ができないというのは面倒でもどかしい。
そして、あの声が聞けないのは寂しかった。
毎日のように聞いていたあの声を耳にしなくなって、これだけ寂しいと思うのもコスモスにとっては意外だった。
本物だろうと偽物だろうと彼女にとってはマザーである。
どちらも懐かしいと目を細めていると、視線を感じてコスモスは我に返った。
「やはり、お疲れですか? あまり無理はなされませんよう」
「ありがとうございます。貴方の事は何と呼べばいいでしょうか?」
「お好きなようにお呼びください」
この場から立ち去る気配のない男に無理はするなと言われても、と思いながらコスモスは考える。休むのでと言えば彼はここから出てって行ってくれるのだろうかと。
しかし、笑顔で頷いてそのまま居座る男の姿が想像できて彼女は寝る事を口実にするのはやめた。
そのかわりにこれから頻繁に顔を合わせる事になるならば、何と呼べばいいのだろうと疑問に思う。自己紹介はされて名前も聞いているのだが、グレンやライツほど親しみを感じないせいで名前で呼ぶのに抵抗があった。
呼んだとしても姓でだろうと考えつつ、一応何かあるだろうかと問いかける。
返って来た言葉はこちらの反応を楽しむかのように思えて、コスモスは息を吐いた。
「ならば、シュン様とでも?」
男の胡散臭い雰囲気と、余裕の笑顔で人をからかうような態度が彼女を刺激してしまったらしい。
黙っておくべきか悩んでいた事を口にしてしまった彼女は、首を傾げながら相手を見つめた。




