77 侵入
この展開は無事に帰れる予感がしない。
そう心の中で呟きながらコスモスは隣にいるライツの顔を窺った。
最初こそ嫌な顔をしていた彼だが今は落ち着いた様子で黙々と歩を進めている。
周囲を観察するように目を凝らし、ぶつぶつ呟いているが問いかけられる事は無いのでコスモスは気にせず気味の悪い周囲を見回した。
紫紺の空間は夜に似ている。
けれども、物音一つせず空には星も月も無いという光景は薄気味悪いとしか言えなかった。
建物に明かりが灯っているものの、人の気配もしない。
ただユラユラと揺らめく影が不気味に彼女たちの様子を見つめていた。
「漸くここまでたどり着けたのはいいけど。大丈夫? ライツ」
「はい。御息女と、アジュール殿のご活躍のお陰で力を温存できているので助かりました」
「このような空間だからな。少しは期待したが、どれも期待外れだ」
コスモスの傍にはいつもと変わりなくアジュールが存在する。
病院に入る事ができなかったアジュールは影に潜む事ができるらしく、コスモスの影にずっと隠れていたのだ。
そしてこの空間では表に出られなかった鬱憤を晴らすように暴れていた。
魔物も、怒り狂った人らしきものも、蠢く影も彼にかかれば容易に霧散してしまう。
それら全てを形作るのは黒い蝶で、エステルが言うには宿主である人物の精神に影響しあんな形を取っているのだろうとの事だった。
それにしても患者は可愛らしい女の人だというのに、あんな気持ち悪いものを望むというのかとコスモスは疑問に思っていた。
確かに、見た目に反してと言えば失礼だろうがそういう趣味を持つ人はいる。
そうだとしたら見てはいけないものを見てしまったようで、居た堪れない。
『防衛本能だろう。侵入者を撃退する為の警備だとでも思えば良い』
『あぁ、防衛本能』
それならばすんなりと納得できると頷いたコスモスにエステルが苦笑する。この場にいても彼女との繋がりが途絶えないのはエステルと受け手であるコスモスの力が強いかららしい。
副作用が出てからは、エステルの気配を感じる度に通話を受け入れるようにしている。
いちいち、開閉するのは面倒なのだが繰り返している内に感覚的にそれが処理できるようになって苦ではなくなった。チャイムを鳴らされて玄関を開けるようなイメージをしていたコスモスは、ライツに声をかけられて慌てて顔を上げる。
「この先は深部になりますから、出現する敵も強くなっている事でしょう。充分にご注意を」
「わかりました」
「ふん。何が出ようとも、倒せばいいだけの話だろう?」
「……本体に害の無い程度でお願いしますね」
舌なめずりをして妖しく瞳を輝かせるアジュールに、ライツは冷や汗をかきながら胃の辺りを手で押さえた。
彼の心の支えであり癒しである相棒の精霊がいない事がこれだけ堪えるとは思わなかった、とばかりに彼は溜息をつく。
魔獣の主であるコスモスからもいまいち緊張というものが感じ取れないので、不気味な空間が急にハリボテのようなものに見えてくる。
手の込んだお化け屋敷とでも言えば良いのだろうか。
自分ひとりだったらそんなことを思う余裕もなかったろうと、ライツは苦笑した。
『黒い蝶には大した力は無いのに、ここまで酷くなるものなんですかね』
『それは関係ない。問題なのは術者だ』
『じゃあ、ミストラルにいた黒い蝶とはまた別って事ですか?』
『それは知らぬ。だが、そう思う何かがあるという事か』
上手く口では説明できないのだが、コスモスは病院で目にした黒い蝶やこの場で感じる魔力の気配がミストラルで感じたものとはどことなく違うと思っていた。
患者の体から毒素のように排出される黒い蝶は、ミストラルでも見た幸福の蝶とそっくりなあの黒い蝶だというのにだ。
複数犯なのだろうかと思いながら彼女は湧いた影を軽く凪いで消滅させる。
(私でも振り払える程度なのよね。その前にアジュールが大体片付けてしまうけど)
最初は先にやった事と同じく、コスモスを囮にして敵を寄せ付け一掃する案もあったのだが同席した神官によってそれは却下されてしまった。
彼は神官の中でも上位にあたり、今回は仕事のついでに騒ぎを聞きつけてこの町に寄ったのだと言う。
しかし、姿は見えぬがコスモスの声が聞こえているあたり只者ではないだろうと警戒はしていた。
なんと彼はうっすらとだが大体コスモスの位置が判るらしい。
らしい、と言うのは本人がはっきりとした事を言わないからだ。コスモスも面倒な事になるのは嫌なので知らない振りをしているが、自分がどの場所にいても迷いなく視線を向けられて驚いた。
エステルは、害が無いからそのままにしておけと彼女を宥めたのだが、はいそうですかというわけにもいかない。
苦手意識が擦りこまれてしまったようだとコスモスはにっこりとした笑顔を崩さない、得体の知れぬ神官を思い浮かべた。
「まさか教会関係者同席のもと、人の精神に入り込むなんて思っても見なかったわ」
「正しくは精神世界です。仕方がありません、この呪いが肉体ではなく精神に強く作用する以上、潜り込んで原因を取り除くのが一番ですからね」
「マスターが言いたいのは、そういう事に一番渋りそうな輩から提案された事に対してだ」
人の精神に作用する魔法を使用するということは、大体が禁じられていると聞いている。
軽度のものならば治療ということでも使われているが、制御が難しく相手に与える影響が大きいということで魔法協会でも厳しく制限されていると本にも載っていた。
教会もそれに関わっているというのに、その関係者から今回のことを提案されたコスモスは胡散臭さを感じていた。
「今回は特例だからでしょう。このまま放置しておいても酷くなる一方で、周囲に与える影響も大きいですから」
「……その、大事の前の小事ってことで……そのぉ」
「あぁ、そういうことですか。御息女は随分と教会と魔法協会についてよく思っていないのですね」
少し不服そうな声の響きに慌てて謝りながらコスモスはもごもごと口を動かした。
やはり言わなかった方が良かっただろうかと思っていると、ライツは「マザーの御息女だというのに」と落胆したように言われてしまう。
ピクリ、と耳を動かしてライツを睨み上げたアジュールだったが、コスモスに制されては何もできない。
「固定観念と穿った視点なのは認めるわ。けれど、手っ取り早い方法があったら誰でもそれを選ぶと思うの」
「……確かに」
「それが、教会であろうと魔法協会であろうと、国であろうと関係なく」
被害が最小で済むのならば迷い無くそんな手段を取るのではないか。
小説やマンガの見すぎだろうかとも思うのだが、現実的に考えてもそれですむなら実行しているはずだ。
緘口令を敷いて、事実隠蔽など力の強い者ならばいくらでもできる。
『今回は前例が無いから下手に手出しができなかっただけであろう。ほとんど病原体と言っていいくらいまでに変化した患者を殺しても、病が消えるという保証はどこにもないのだからな』
『でも……』
『魔法による精神汚染が濃厚であれば特に、だ。それならば術者を探し出して殺した方が早い』
どうにもこの人魂は箱入りでないはずなのに、箱入り娘のようで世間を知らない。当然と言われればそうなのだが、その甘さが後に彼女の足を引っ張ることがないといいのだがと心配になった。
納得がいかないと小さく唸るコスモスにエステルは溜息をついて小さく告げた。
『昔、その考えで似たような者が殺された時があった。逆に酷い有様になったものよ』
『酷い有様?』
『術者はそれを見越して、その者が殺されれば呪いを拡散させるように仕掛けを施しておいたのだ』
それは考えていなかったとコスモスはその光景を想像してぶるりと体を震わせた。
居るだけでも周囲に悪影響を与え、殺せばより広範囲に拡散してしまう。どっちに転んでも地獄でしかないと思いながら彼女はふと疑問に思った事を口にした。
『エステル様はその場にいたんですか?』
『……いいや。伝聞のみだ。なにせ、遠い昔の話だからの』
しかし、それだけ酷かったのならば記録にでも残っているのだろう。
それを知っている者ならば下手に手を出そうとは思わないかもしれない。
(だからって、直接送り込むのもどうかと思うんだけど)
ここで見聞きしたことは他には漏らさない。
それは、この場に来る前に取り決めたことである。
人の心の中に入り込むなんて滅多にできないことだ、と興奮していたライツも今は落ち着いた様子で周囲を見回していた。
精神世界への道を繋げたのは、病室で待機している胡散臭い神官だ。
他には病院の医師とグレンと精霊たちがいてコスモスたちの帰りを待っている。
「……御息女は時折、良くわからなくなりますね」
「へ?」
「世間知らずかと思えば、妙に現実的だったり。失礼ですが、掴みにくいというか」
「そう?」
確かに異世界の事はあまり知らないとしても一応一般常識はあるつもりのコスモスだ。そんなに変に見えるのかと心配して彼女がアジュールに問いかければ、彼は気にするなとでも言わんばかりに鼻を鳴らした。
どうやら聞く相手を間違ったらしい。
「……変、かな?」
「……変ですね」
「そっか。悪いけど、我慢してくれる?」
「腰も低いし、軽く扱われても動じませんしね。でも、だからこそ私もこうして気軽に会話ができるわけですが」
偉そうな態度を取れと言われてもそれは性格的に無理だ。
マザーも特に何も言っていなかったので、いつものようにしていたのだが他人から見るとそう映るらしい。
できるだけお嬢様らしく振舞おうと努力はしてみたが、少し大人しくしていた方がいいのだろうかと悩む。
そしてコスモスは周囲を見回しすと首を傾げた。
「あれ? ここって入り口じゃない?」




