76 虚ろ病
【虚ろ病/虚病】
何らかの要因で心が空っぽになる病。
精神薄弱の状態。
軽度ならば脱力感、幻覚、幻聴の症状が表れ重度になると意識不明になる場合もある。
静かな廊下に二人の足音だけが響く。
人で溢れていた待合室からは想像もできないほどだ。
厳重に警備されている隔離病棟への入り口をあっさりと通過できたのは、事前にライツが訪ねていたからだった。
今回、病院に行く前にライツは念入りに身支度を整えていた。
我慢できないくらい気分が悪くなったので、そうならないように対策をしたらしい。
病院の中に入っても特に異常を感じなかったコスモスは、何度もライツに気分は悪くないかと尋ねられた。
(魔力強いから、ライツは影響受けてるのよね)
魔力が弱いとは言え近づくにつれ影響が出ると悪いので、グレンもライツに対策をしてもらったらしい。
どんな対策なのかと尋ねたコスモスに、ライツは防御壁を応用させた魔法だと教えてくれた。
「それにしても、昨日の今日で多すぎない?」
「重病患者の影響でしょうね」
これほどまで酷くはなかったと呟くライツに同意するようにグレンも頷く。聞いていた情報と違うと何やら気になる言葉を呟いていたが今回の件には関係ないのだろう。
コスモスは浮遊しながらライツの背中を見つめる。
神官を先頭に、ライツ、コスモス、グレンと続いており精霊二体はコスモスに寄り添うように移動していた。
イグニスは耐えられると言っていたが、ミリィの震えかたは尋常ではない。
ライツが優しく声をかけて宥めても彼女は怯えるばかりだった。ならば影響の少ない場所で待っていてもらおうと思ったのだが残されるのも嫌だったのかついてくる。
ぴったり、と密着するミリィの震えを感じながらコスモスは彼女も防御壁の内に入れた。
そのお陰なのか震えの止まった彼女は元気になった事をアピールするようにライツの周囲を回る。驚いていたライツが一体どうしたのかと彼女に尋ね、理由を聞いて彼は更に驚いた表情をした。
「精霊にも防御壁展開できるんですか?」
「え? できないの?」
「普通にできたらとっくにやってますよ。私が大事なミリィを怯えさせたままにしておくわけがない!」
カッと目を見開いて振り返るライツの表情にコスモスは溜息をつきながら「あぁ」と適当に頷いた。
彼のミリィに対する愛情は嫌というほど判っているが、正直鬱陶しいと思っているコスモスだ。
声の響きから彼女の心情を察したらしいグレンは、頬を緩めてプッと噴き出すように笑う。
先頭を歩く神官は、うるさいと言わんばかりに眉を顰めて軽く振り返った。
「ここから先は影響が強いですのでお気をつけ下さい。気分が悪い場合はすぐにお申し出を」
「了解した」
重病患者の部屋まで厳重な警備が続いている。ここに来るまで何人もの神官や医療従事者を見かけたが、彼らは魔力が強い上に抵抗を持つ者だった。
つまり、ライツのように防御壁を展開させ、影響を軽減できる人物という事である。
(気持ち悪い、か。魔力が吸い取られるような感覚とも言っていたわね)
だからこそ魔法道具を使用した特殊な部屋に隔離されているのだろう。昨日の今日でこの対応ならば充分とも言える。
ただ、早急にそれを解明しなければならないのだが、その部分で行き詰っているのが現状のようだ。
(下手に魔法を行使しても、吸収されるだけ、か。でも物理的にどうこうできる問題でもない)
鍛錬のお陰か自分の魔力が吸われる気配も気持ち悪さもないコスモスは、ふと動きを止めた。廊下の両脇にも病室があり、そこに入れられているのは中程度の患者らしい。
軽い患者から様子を見たいとコスモスが呟けば、ライツとグレンが揃って足を止める。
「何なら、後で追いかけるから先に行っていてもいいわよ。ここずっと真っ直ぐでしょう?」
「いや、しかし……」
「大丈夫だって。何も無いわよ。あったとしても責任負わせないから」
軽い口調でそう呟いてコスモスは鍵のかかっている扉をすり抜けた。魔力を帯びているのは見て判ったが、この程度ならばすり抜けられるらしい。
頭蓋骨の中から出られなかった事を思い出してヒヤリとした彼女だが、無事病室に出られてホッとした。
(ふむふむ。心病んでる方々の隔離病室みたいな感じ? でも、大部屋なのね。拘束されてる様子がないのは、傷つけたり暴れたりする心配はないってことかな)
室内にはカーテンで仕切られたベッドが6つ置かれている。
軽度ならば徘徊したりするらしいが、ここにいる患者は中程度らしいのでベッドの上でぶつぶつと独り言を呟いている者が多い。
「……」
(何だろう、この……見てるだけでこっちまで病みそうな感じ)
虚ろな瞳を天井に向けて目を開けたまま起きているのか寝ているのか判らない者。
微動だにせず眠り続ける者。
真顔で独り言を呟き続ける者。
部屋を一回りしたコスモスはここに来るまで見かけた患者が全て女だったという事に首を傾げた。年齢に幅はあるものの性別は全て女だった。
これは何かの糸口になるのだろうかと彼女は近くのベッドに近づく。
『コスモス、触れてみよ』
『……えー』
『危なくなったら助けてやるから、心配するでない』
いきなり体当たりなのか、と呟きながらも渋々手を伸ばしたコスモスはこれが重病患者でなかった事に安堵した。
そして今更ながら待合室にいた軽度の患者から注意深く観察すべきだったと後悔する。
『それと、グレンたちには入らないように注意しておけ』
『はいはい』
エステルに言われた通り、神官に頼んで部屋の扉を開けてもらうおうとしていた二人に、危険かもしれないので少々離れているようにと告げる。
コスモスの言葉に眉を寄せて顔を見合わせた後、グレンが何か言おうと口を開いたがそれを制してライツは頷いた。
いい心地がしないのかミリィはライツの傍で部屋の中を見つめている。
「イグニス、外出てていいわよ?」
「マスターが平気ならば、平気なのです」
やせ我慢せずとも良いのだがアジュールがいない今は心強い。
ふふふ、とコスモスが小さく笑うと彼女の影が心なしか不機嫌そうに揺れた気がした。
「さてと」
少々気合を入れて、静かに眠り続ける患者に近づいたコスモスは手を伸ばして彼女の額に触れる。
途中でいきなり腕を捕まれたり、目を見開いて起きたらどうしようと緊張していたのだがそんなホラー展開は起こらなかった。
ウルマスがこの場にいてそれを聞いていたら、可愛らしい表情を曇らせて「つまらないなぁ」と呟いていたことだろう。
『何か、感じるか?』
『いえ……特には』
触れた箇所から伝わる温もりは高すぎず、低すぎず。
彼女を包み込むオーラの輝きは弱々しく何かに阻害されているようにも見えた。
引っかかるものを感じたコスモスは、注意深く彼女を見つめて目を凝らす。
(切れかけた電球みたいな感じよね……風前のともし……いやいや、縁起でもないわ)
自分で言いかけて表情を曇らせたコスモスは触れていた額に何か角のようなものが生えていることに気がついた。
つるり、とした綺麗な額のちょうど中央部に小指の爪ほどの大きさの角が生えている。
そういう種族なのかと首を傾げながら指で触れると、それはパチンと弾けた。
「うわっ」
まずい事をしてしまったのかと思った彼女の視界に映ったのは一匹の蝶。
思わず指を鳴らしてしまったコスモスは、次の瞬間にぞわり、と湧いた黒い蝶に身震いをした。
見ればそれぞれのベッドからヒラヒラと蝶が出現している。
(え? 指鳴らしたの関係ないわよね?)
自分のせいじゃないはずだと思いながらコスモスは煙を払うように目の前の蝶を手で退ける。捕まえるまでもなく彼女が触れたそばから消失してゆく蝶は、意思を持たないのかただ室内を飛んでいた。
『ほほう。これは、また凄いものだな』
『あ、見えます?』
『ああ。特等席の眺めじゃ』
高みの見物ですよね、と呟く声は楽しそうにはしゃぐ声に掻き消される。
黒い蝶自体は攻撃力が低く鬱陶しいだけというのはここでも変わりないらしい。コスモスが勢いをつけて室内を飛び回れば彼女に触れた蝶が消えてゆく。
ケサランやパサランがいれば風を巻き起こしてもっと巻きこめたものを、と眉を寄せた彼女の隣でイグニスがぐるりと回転する。
「燃やすのは蝶だけよ? 見える?」
「燃やすのです」
下手したら軽く室内を火の海にしかねないイグニスに釘をさして、コスモスは防御壁を少し薄くした。
魔力を吸収するというのならば、魔力に釣られて蝶が集まってくるのではないかと考えたのだ。
コスモスに言われたとおり、器用に蝶だけを燃やし飛び回るイグニスは乗ってきたのか低い声で歌い始めた。
部屋の外ではそれに呼応するようにミリィも歌う。
(ステージショーでも見てる気分よね)
ゆったりと羽ばたいていた蝶たちは花の香りに吸い寄せられるように魔力に惹かれコスモスの元へと集まった。全身にぴったりと張り付かれるのを想像した彼女は嫌そうに顔を歪めたのだが、実際にそうなる事はない。
蝶が近づき、彼女に触れ、消失する。
つまり蝶たちは自ら死に飛び込んできているのだ。
「夏の虫、か」
頭に浮かんだのは誘蛾灯で、風情も何もあったものではないとコスモスは顔を歪めた。自分で想像しておいてだがそれはあんまりだと溜息をつく。
イグニスの低い歌声をぼんやり聞きながら部屋を埋め尽くしていた蝶が消えてゆく様を眺めていた彼女は、せめてこの蝶が魔力として自分に吸収されればいいのにと呟いた。
『吸収されておるぞ』
『マジで!?』
『とは言っても、お主の魔力は既に満たされておるから後は無駄に流れているだけだな』
満腹感も充足感も無い。
それなのに一応は吸収されているらしい、とコスモスは自分の体をペタペタと触る。
すると、足元の影から満足そうな声が聞こえてきた。闇に浮かぶ赤い光がトロンと細められて艶っぽい息を吐くので苛々した彼女は思わず舌打ちをしてしまう。
『副作用とかまたあるんじゃないでしょうね』
『蝶自体は魔力の塊だ。そもそも、これらを食べたお主の発言とは思えぬな』
『あれは、勢いというか』
蝶自体に悪影響を与えるようなものは存在しない、とエステルの言葉を聞きながらもコスモスは納得がいかない表情をして小さく唸った。
ならばなぜ、虚ろ病になる人々がいるのだと不思議に思ったからだ。
『お主は魔力が強いから大して不具合はないのだ。ライツでさえ気分が悪いと言っているのだぞ?』
『でも、魔力吸収されるならグレンの方が危ないような気がするんですけど』
『あれは鍛え方がまた違うからな。それに、あやつはそれなりの魔法道具で防御しておる』
『ライツの防御壁以外に?』
『あぁ。気づかなかったのか』
近づけば近づくほど魔力を吸収されて気分が悪くなるというのならば、多く持つ者よりも少ない者の方が影響は大きいはずだ。
しかし、グレンは顔に出さないだけなのか平然としている。
魔法使いであり、それなりに有名らしいライツは顔を引き攣らせ具合が悪そうにしているのにだ。
それが不思議だったコスモスだが、エステルの言葉に守りが厚いだけかと納得する。
『普通の人は防御壁作れないんですか?』
『できたとしても学校で習う程度のものだ。黒い蝶はそれよりも力が上だから張っていても気休め程度にしかならん』
『はぁ……そうですか』
学校で習う魔法は初級だと聞いた事を思い出して頷いた彼女は、室内が入った時よりも明るくなっているような気がして息を吐いた。
見た限りではこの部屋にはもう黒い蝶はいない。
「ん……っ」
「あれ? 私、何で」
「んむぅ?」
次々と起き上がる患者たちは不思議そうな顔をして周囲や自分を見ている。何故この場にいるのだろうと揃って首を傾げて誰も判らない事に苦笑し合っていた。
後遺症があるのかは検査してみてからだろうが、予想していたよりも回復が早い事に驚く。
通常の病ではなく、黒い蝶という原因が取り除かれたから当然だろうと告げるエステルにそんなものかとコスモスは小さく頷いた。
「お待たせー」
「御息女、一体何が?」
「あぁ、そっか。グレン様には見えないんでしたね」
暢気にすり抜けて廊下へと出たコスモスの声にグレンが体を揺らして反応する。
ぼんやりとした表情のライツと神官は彼女が出てきた室内の様子を眺めていたが、ハッと我に返った。ライツは苦笑して眉を寄せるグレンを見て、神官は慌てたようにどこかへ走ってゆく。
こんな事をして捕まってしまうだろうかと呟いたコスモスに、医師と上司でも呼んでくるのだろうとライツが答えた。
「黒い蝶を……やはり、流石ですね。御息女は」
「やめてよ。イグニスの協力のお陰だから」
「頑張ったのです」
尊敬の眼差しで見つめられてもコスモスとしては困るばかりである。
エステルの助言もあって、それに従って動いたに過ぎないと彼女がいくら言ってもグレンは笑顔で頷くだけ。
ライツも呆けたように室内の様子を見ながら「凄いなぁ」と呟いていた。
「とりあえず、黒い蝶を消し去れば元に戻るというわけですか」
「うん。そうみたい」
「軽く言ってくれますが、それが一番難しいんですよ?」
「うん……そうみたい、ね」
黒い蝶の姿が見えたのはライツと、神官二名だけらしい。
あれが見えるという事はそれなりに強い魔力の持ち主だとエステルの声を聞いたコスモスは、一人仲間はずれにされているようで面白くないグレンを慰める。
彼女に声をかけられた彼は、恥ずかしそうに笑って腕を組んだ。




