67 服従
興奮して呼吸が荒い青灰色の獣を撫でながらコスモスはため息をついた。
夢も見ず眠りに落ちて、清々しい朝を迎えたというのにどうしてこうなるのかと彼女は肩を落とす。
獰猛に牙を剥いて暴れていた姿が嘘のように、獣は大人しく彼女の傍で伏せている。
だが、その目は浮遊する精霊を睨んだままだ。
「はぁ」
エステルが大広間に来たときには既に闘いが行われていたらしい。
珍しく早起きをしたものだと驚くケリュケに、エステルは視線をそらす。
他にも気になる事はあったが、とりあえず何があったのかとコスモスは獣に尋ねた。
「どちらが強いかを確かめ合っていただけだ」
「どうしてそんな事に?」
「……どこぞのマスターが迷子になるからな」
不機嫌そうに鼻を鳴らすアジュールに、コスモスは顔を歪めて口ごもる。
自分だって来たくてここへ来たわけじゃないと呟くが、獣は無反応だ。
「迷子か」
「不可抗力なんですけど」
「どうだかな」
「エステル様までそんな……」
わざとここに来たならあんな登場の仕方をするものか、と力強く抗議するコスモスにアジュールは溜息をついて尻尾を揺らす。諦めたような態度を見ていたエステルは笑いながら近づいてくるコスモスを手で押しのけた。
「突然来たわりには上位精霊まで手懐けおって」
「それは懐くというよりは、同族意識みたいなものだと思うんですけど」
「……同族、か」
人魂と精霊は違うと分かっているがコスモスにとっては似たようなものだ。
面白い変なものがきたから興味津々で近づいてきた程度だろうと呟いて、周囲を浮遊する精霊を撫でる。
すると、ふわりと昨日部屋にいた最上位精霊が下りてきた。
「あ、昨日の」
「また変なのに懐かれたのか」
「それ、貴方が言うの?」
呆れたような目で見上げてくるアジュールにコスモスは首を傾げる。
人魂と獣のやり取りを見ていたエステルは楽しそうに笑い、アジュールの頭を撫でた。
噛みつくのではないかと心配になったコスモスだが、アジュールは大人しくされるがままだ。
「その獣は嫉妬しておるのだ。判らぬか? コスモス」
「え? 嫉妬?」
「お主がそっちの精霊を可愛がるがら、不安になったのであろう。禍々しいわりに、可愛いやつよのう」
エステルは軽く肩をすくめ、理解できていないコスモスを見つめた。
嫉妬していると言われたアジュールも変な顔をして自分を撫でる少女を見つめる。しかし、すぐに目を逸らしてしまった。
「いや、オモチャを取られそうで拗ねてるのかと」
「あっはっは! わざわざ気を使って言ってやったというに、自らそう言うとは」
「なんだ。結局エステル様だってそう思ってたんじゃないですか」
コスモスの言葉に大きく頷いたアジュールの尻尾を持ちながらエステルはとぼけた顔をして首を傾げる。
今更そんな可愛い仕草をしても無駄だ。
怒ることなく溜息をついただけで終わらせてしまうコスモスに目を細めながら、エステルは最上位精霊を呼ぶ。
ふわり、と少女の元に移動した精霊は彼女の掌の上で大人しくしていた。
「懐かれておるなら、契約すればよい」
「は?」
(簡単に言ってくれる!)
この祠にいる精霊は皆、エステルの配下ではないのかとコスモスが問えば大きな声で笑われる。少女の笑い声が室内に響き渡る中、コスモスは不思議そうに彼女を見つめた。
「なるほど。確かにな……フェノール一帯が私の支配下にある事は間違いないが、そこに住まうもの全てが私に属するというわけではない」
「ですが、ほとんどがそうですね」
「まぁ、な」
ミストラルとは違ってフェノールの主はエステルなのだろうかとコスモスは不思議そうに彼女を見つめる。少女の外見とは言え、中身は違うと本人が言っていたくらいだ。
マザーの事を知り、コスモスの事すら見透かしてしまうのだからその力は大きいとは思っていた。
だが、その影響力が明確には判らない。
フェノールには国は無いのかと尋ねたコスモスの言葉に、エステルとケリュケは一瞬目を合わせて小さく笑った。
「無いな。フェノールは、この祠と砂漠しかない」
「わお。ここはオアシスというわけですか」
「住んでいる者は魔物の他に、我らぐらいしかおらぬがな」
「まぁ、エステル様。流浪の民がおりますわ」
退屈なものよ、と呟いたエステルに苦笑しながらケリュケが告げる。その言葉に存在を思い出したのかエステルは懐かしそうに目を細めて笑みを浮かべた。
「そうであったな。流浪の民か……よくもまぁ、飽きずにここから出て行かぬものよ」
「またそんな事をおっしゃって」
口ではそう言うものの、エステルの表情は穏やかだ。過去を思い出しているのだろうとその様子を見つめ、コスモスはアジュールの喉元を撫でる。
「そう言う事だから、そやつがお主を気に入って契約するというのならばしてやれば良い」
「いや、でも……」
「何を躊躇う事がある? 最上位精霊が素直に契約するなんて珍しいぞ?」
エステルの話を聞いたコスモスはやっぱりそうなのかと心の中で呟いた。マザーから聞いていた通り上位以上は要交渉というのは事実らしい。
最上位にしてはあまりにも簡単に懐いてくるので疑ってしまったくらいだが、エステルも最上位と言っているので自分の見た情報に間違いは無かったのだとコスモスは小さく頷いた。
「使い魔もそやつだけでは心細かろう?」
「迷子マスターくらいならば私一人で充分だ」
「ならば何故コスモスだけ一人でここにいた? お主は何故共に来なかったのだ?」
その質問はずるいと思いながらコスモスは悔しそうに歯軋りをして低く唸るアジュールを見つめる。エステルは意地が悪い顔をして彼を覗き込むように見つめると「何故だ?」と繰り返した。
「エステル様、そのくらいにしてあげてください。突然飛ばされた私が悪いんですから」
「不可抗力とは言え、その様な時こそ真価が発揮されるというものよ。何も出来ず、消えたことすらすぐに気づけなかったのならばその程度の能力だという事だ」
自分のせいでアジュールが責められてしまっているのが申し訳なくて、コスモスは何とか収めようとするのだがエステルの口から出る言葉は厳しいものばかり。
どうやってたどり着いたのかは知らないが、こうして傍にいるのだからいいではないかとコスモスは彼を庇うようにエステルを宥める。
「……ふぅ。まぁ、そうだな。ここまで辿りつけた事には褒めてやろう」
「あれ? そう言えば結界があるから入れないはずですよね?」
今思い出したようにそう口にしたコスモスをエステルは笑いながら見つめる。変なことを言っただろうかとアジュールを見れば彼は不機嫌そうに鼻を鳴らし、ケリュケも口元に手を当てながら笑っていた。
(え? 何? 何?)
一人笑いものにされているコスモスを慰めるように、火の精霊が彼女の額を優しく撫でる。
「迷子マスターはこうだが、良いのか?」
「……別に、慣れている。どうと言うことはない」
「祠から出てくるのをじっと待っておったというのに、可哀想なやつめ」
アジュールの額を軽く小突いたエステルはニヤニヤとしながら彼を見つめる。アジュールは動じた様子もなく淡々とそう告げると、不貞腐れたように顔を背けた。
心配した主人がのん気にしていると知って腹が立っているのだろう。
悪いことをしたな、とアジュールの頭を撫でようとしたコスモスだが睨まれてその手を引っ込める。
(待ってた……って?)
祠をぐるりと囲むように森があり、その外側に砂漠が広がっている。祠と森はエステルの力により結界が張られているので、砂漠との境界辺りで待っていたのだろうか。
コスモスは考えている事を顔に出さぬよう気をつけていると、口元に笑みを浮かべたエステルが「くくっ」と笑う。
「境界付近にあった魔獣の頭蓋骨の中におったのにな。主は気づかぬばかりか、必死の思いで着いて行ったお前の目の前で精霊といちゃついておったのだものな? 可哀想に」
「はっ!?」
昨晩の部屋での様子をしっかりと見られていたのかとコスモスは青褪める。
寧ろ、戻ってきた時に既にいたのならば教えて欲しかったと呟けば、フンと鼻で笑われた。
これは主従関係の崩壊待ったなしだろうかと彼女は身構える。
「……移動と慣れぬ場所に力を消耗してしまったのだろう。言えというのも無理な話よ」
「えー」
「お主もお主だ。自分の従者の気配すら判らぬとはそれでも主人か」
「え? 気配で判るものなんですか?」
判っていたら苦労はしない。何より昨晩の精霊との語らいだってもう少し変わっていただろうとコスモスは思う。アジュールが見ていたと言うのならば尚更だ。
従者は自分ひとりで充分だと前に言っていた事を思い出し、だから大広間での戦闘に繋がったのかと彼女はやっと理解した。
(鬱憤を晴らせるいい機会だったのかな)
自分とアジュールは純粋な主従関係というよりは利用し合う関係だろう、とコスモスは苦笑する。
無条件に自分を守ってくれる存在などどこにもいるはずがないと分かっているのに、期待してしまう。
違う世界だからだろうかと軽く肩を竦め、彼女は呆れた顔をするアジュールにヘラヘラと笑った。
「そうか。分からぬなら、仕方ないな」
「え? どうやったら分かるんですか? 教えてください!」
分かれば対処法もあるとエステルに詰め寄ったコスモスは、「近い」と呟かれて慌てて身を離す。食いつき過ぎた事を反省しつつその方法を教えて欲しいとお願いした。
だがエステルは難しそうな顔をして頬に当てた人差し指をトントンと動かす。
「基本、主従の関係ができていれば主は従を把握できる。どうやって、と口では説明しにくいな。これだ、と感覚的に判るものだ」
「感覚的……?」
そう言われてもコスモスはピンと来ない。
腕を組んだ彼女はアジュールを見つめて、いつもと違う何かを感じるかどうか注意深く探ってみた。
目を閉じて、深呼吸をし、集中する。
「駄目ですね。何も変わりませんし、分かりません」
「むう、そうか。アジュール」
「マスターに対して気配を消す理由がない。それに私はいつでもどこにいても、マスターを探し出せるから問題は無い」
誇らしげに告げるアジュールだが、聞いているコスモスとしては嬉しくない。
とても頼りになる存在には違いないのだが、どうしてこうも嬉しくないのかと彼女は溜息をついた。
「まぁ、コスモスは気配を隠す気が無いくらい駄々漏れだからのう」
「え!?」
気配の消し方なんてあったのか、と驚愕の表情をするコスモスは一つ思い当たることがあってそれを実行するとエステルを窺う。
彼女は軽く眉を上げて静かに頷いた。
(なーるほど。防御壁で気配も消せるのか!)
実際には消すのではなく気配を薄くするのだが、目玉の空間から放り出されて以来すっかり忘れていた事に気づいてコスモスは体を震わせた。
防御壁が無いというのは人魂のコスモスにとっては丸裸で歩いているようなものだとマザーに教えられた。
そして、人が服や鎧を装備するのと同じように、防御壁を展開させ己に纏わせて守らなければいけないのだと口を酸っぱくして言われた事を思い出す。
エステルからマザーに話がいけば、帰って早々笑顔で怒られるのだろうなとコスモスは諦めたように笑った。
あの笑顔を思い浮かべただけで寒気がする。
「どうしたらアジュールの気配が判るのかしらね?」
「知らん。マスターの私に対する信頼と愛情が所詮はその程度だという何よりの証だろう」
「それ、本気で思ってる?」
信頼はその通りかもしれないが愛情と言われると首を傾げてしまう。
素直なコスモスの反応にエステルは笑い、アジュールは呆れたように溜息をついた。
「そんなワケあるか。気持ちが悪い」
「ですよね」
文句を言いたくなるのをグッと堪え、コスモスはアジュールの頭を強く撫でる。不機嫌な顔をしているアジュールだが彼女の手を噛むことはなかった。
「ごめんね? アジュール。いつも助けてくれるのに、こんなのが主で」
「そんな事はとうに理解している。従属するものに情けなど不要だ。マスターはただ私を道具として好きなように扱えばいい」
「そう簡単に割り切れたら楽なんだけどさ」
「子供か」
「うん。我儘なのよね」
アジュールを物のように扱うことに嫌悪を示し、それを良しとしている彼に同情しているわけではない。
従者を家族のように見るのは馬鹿らしいと笑われるだろうが、コスモスは常に傍にいてくれるアジュールに対して家族にも似た思いを抱いていた。
幼い頃飼っていた犬を思い出し、勝手にアジュールと照らし合わせる。
家族ごっこをしながら、戦いには利用するという何とも我儘で幼稚な精神だとコスモスは自嘲した。
「でも、利用はさせてもらう。貴方が私に従属してくれている限りは」
「……まぁ、好きにするといい。私はマスターの忠実な僕だ。何をしようと貴方の好きなように、思うがまま利用すればいい」
「貴方も貴方で私を利用する、と」
「そう言うわけだ」
(そう。それが私と彼の関係)
遠慮することなく自分を使えと何度も言われたことを思い出す。
物のように扱うのは嫌だと言いつつ、結局そうしているではないかと自嘲してコスモスは溜息をついた。
そんな様子を黙って見ていたエステルは目を細め二人を交互に見比べる。
「コスモスにアジュールの存在は、荷が勝つのでは無いのか?」
「仕方がない。私が彼女をマスターと決めたのだから」
もっと相応の使い魔がいるだろうにと呟くエステルに、赤の双眸を向けたアジュールは淀み無い低く美しい声でそう告げる。
揺らぎのない毒々しい赤い光を見たエステルは呆れたように肩を竦めると、困った表情をしているコスモスへと視線を移す。
「まぁ、それなら仕方ない。見たところ、契約は上手くいっているようだからな」
「いつでも破棄されるようなもんですけどね」
「利用価値が高いものが主人となれば、いくらその関係を引っくり返せるとしても黙って従うのもアリだろう」
「フン。フェノールの神子は理解が早くて助かる」
「当然だ」
得意気な顔をして胸を張るエステルにコスモスは苦笑しながら、今の会話は聞かなかったことにしようと一人頷いた。




