60 エステル
喉が渇いた。
水が飲みたい。
じりじりと照りつける太陽の下、広大な砂漠を移動しながら日陰とオアシスを探して必死に歩を進める。
方角も時間も分からない状況では思考能力も低下してゆく。
眩暈を抑えるように踏み出す足に力を入れれば、バランスを失って転げ落ちてしまった。
灼熱の砂の上、熱くて痛い。
声にならない悲鳴を上げながら抵抗する力も無く落ちたコスモスは口の中に入った砂を吐き出し、目の前を通り過ぎてゆくサソリを見つめる。
サソリは彼女を一瞥すると、鼻で笑うかの如く無視してそのまま砂に潜ってしまった。
「……はぁ」
刺されなかっただけましかと思いながら彼女は重い体を起こす。
自分の体を支える腕が震え、立ち上がるのを拒否しているようだ。
それを気力で振り払い、何とか立ち上がった彼女は両腕を大きく上げる。
「疲れた。しんどい。もう嫌だ。オアシスー! どこだオアシスー! それか水ー! 誰か水をくれー!」
このままでは干からびてしまうと力を振り絞って声を上げるが答えは返ってこない。
見渡す限り綺麗な灼熱の砂漠が広がっていた。
道中誰にも会わなかったのだから反応がないのは当然か、と砂の上に膝をついたコスモスはそのまま崩れ落ちるように倒れる。
上下から同時に焼かれる感覚に「もうどうにでもしてくれ」と呟いていた。
パシャリ
頬にぬるま湯がかかる。
水が欲しいと思ったのだがこの際水分があれば何でもいい。
遠退きかけた意識を引っ張り、手繰り寄せて瞼を開ければぐるりと視界が反転した。
面白いように体が空中に放り投げられ、落ちる。
「?」
動いてゆく景色は砂漠ではない。苔生した壁や天井が見えたかと思えば視界が大きく揺らぎ、コスモスの体が沈んでゆく。
ごぽごぽ、と音を立てる様子に暫くそのままじっとしていれば底まで落ちたらしく彼女はぼんやりと幻想的な光景を見つめていた。
(……水?)
水泳の授業は苦手で、水中で目を開くのが嫌でたまらなかったコスモスだが今は普通に瞬きができる。水中眼鏡もないのに陸上と同じような感覚は不思議だが、呼吸する為の酸素も必要ないので必死に浮上することもない。
澄んだ水が揺らぐ様子を見つめていると彼女の目の前を魚が通り過ぎた。
五センチくらいの小魚が、彼女をツンツンと突いてくる。
「……」
面白いものを見つけたとばかりに近づいてくる小魚のツンツン攻撃が鬱陶しかったので、コスモスは体から力を抜いた。
すると、小魚たちが彼女をすり抜けて泳いでゆく。
戸惑ったように行ったり来たりを繰り返す魚もいたが、コスモスはただじっと水面を見上げていた。
(はぁぁー、生き返る。潤いって大事だわ)
揺らぐ水面の向こう側に魔物らしき姿を見つけたが、彼女は見なかったことにして広い水底を見回す。自然ではなく人工的に作られたと思われるこの場所は水路のようだ。
体を起こして視界を高くすれば迷路のように入り組み、また一段と深くなっている大きな場所が見えた。
「……」
開けた場所でグルグルと回遊している肉食系の水中魔物がいたような気がするが、それも見なかった事にしておく。冒険だとばかりに勢い良く飛び出さなかった自分を褒めて、コスモスは元の場所にそっと戻った。
行き止まりになっている壁に背を預けて軽く頭を振る。
何があったのかと記憶を辿っていれば、上方から声が聞こえてきた。
(魔物の会話? 逃げようにも先に進めばステキな出会いが待っているし……)
見たところ太刀打ちできるような相手ではない。ケサランやパサラン、アジュールがいれば別かもしれないが水中という場所でどう戦えばいいのかも判らなかった。
魔法で攻撃するにも相手の外皮が厚すぎて効きそうにもない気がする。
(ここで詰み、ですか)
目玉だらけの空間から脱出はしたかったが、まさかこんな状況になるとは想像していなかった。せめて武器があれば何とかなったかもしれないと考え、彼女は笑う。
扱える腕がなければ無用の長物だと。
「……どうしよう」
すり抜けるから大丈夫だと思っていたあの気持ちは今はどこへやら。どちらにもそれが通用しない気がして彼女は知らぬうちに爪を噛む。
「温泉気分で浸って体力回復に集中して、隙を見て逃避するか」
温いお湯はコスモスがずっと入りたくてたまらなかったお風呂と似ている。こんな場面で叶うなんて、と両手を組み合わせ堪能しながら鼻歌を歌う。
お風呂と言えば定番と言ってもいいあの歌を歌いながら、沈みがちになる気分を上げた。
「ぬお!」
どのくらいそうしていただろうか。
上機嫌で繰り返し歌っていたコスモスは、何かが水に落ちてきた音に驚いて歌をやめた。そして、水中に姿を現した物体を見て顔を引き攣らせる。
「あががが……」
金髪碧眼の美しい顔立ちだが、下半身は蛇。長い金髪をふわり、と水中に広げながら性別の分からないその魔物は周囲を見回し、コスモスを見つけた。
透明化しているから大丈夫だと自分に言い聞かせていた彼女は、目が合った瞬間迫り来る恐怖から逃避するように顔を逸らす。
背後は壁で行き止まり。両側にも壁で逃げ場は上しかない。
しかし浮上した場合、待ってましたとばかりに捕獲される恐れもある。
「うおおおぉぉ!」
ゆっくりと近づいてくる美しい魔物に捕らえられるか、それとも望みをかけて逃げるか。
どちらの選択肢が正解かと考えていたコスモスは、逃げないのが分かっているかのように静かに近づいてくる美しい魔物から逃れるように浮上した。
水底を思い切り蹴り上げてそのままの勢いで水面から突き出る。
(あれ?)
水面から出ても想像していたような妨害は無かったのを意外に思いながら眼下を観察しようと思ったコスモスは、そのまま天井に頭をぶつけて急降下した。
「ぶべっ!」
床に叩きつけられ、ころころと転がる。
頭を打つような感覚がないのは、体力温存の為に人魂になっているからだろう。
いつも人の形をしていることにこだわる彼女だが、今回はそれを気にする余裕もないらしい。
(人間だったら、死んでたな……)
よく跳ね返るゴムボールを想像しながらそうはならなかった事に安堵し、コスモスはころりと転がり続け何かに止められた。
古代語が金糸で刺繍された白地の服を身に纏い、澄んだ紫の瞳で見つめてくる顔はあどけない。
覗き込むように見つめられたコスモスは、居心地が悪そうにもぞもぞと動きながら少女と距離を取ろうとして失敗した。
すり抜けられると思っていたはずなのに少女は無造作にコスモスを掴むと、目の高さまで上げて色々な角度から彼女を観察する。
「面白い!」
「!?」
キラキラと紫の瞳を輝かせ、少女は興奮した様子でコスモスを掌に乗せる。
ふわり、と彼女が浮けば嬉しそうに「おおおお」と声を上げた。
(女の子? 魔物がいるような場所に?)
危険ではないのかと思っていると背後から何かが這いずるような音が聞こえてくる。驚いて振り返ればそこには水中で出会った美しい魔物がいた。
飛び退いて逃げようかとも思ったが少女を置いてできるわけもない。
どうしようかとコスモスが美しい魔物を見つめれば、性別の分からない魔物はにこりと綺麗に微笑んだ。
(オーラは中程度。敵意は……ない?)
反発されるのを覚悟で見つめていれば魔物は何をされているのか理解しているように首を傾げる。
綺麗で優しいと思った相手が豹変するパターンかと身構えて後退りすれば、少女の胸にこてんとぶつかってしまった。
すり抜けることができずにコスモスは眉を寄せる。
「心配せずとも良い。アレは私のお供だ。挨拶を」
「お初にお目にかかります。エステル様にお仕えしています、ケリュケと申します」
「あ、コスモスです。エステル様というのは?」
礼儀正しく自己紹介をされたのでコスモスも背筋を正して頭を下げ、挨拶をした。聞き慣れぬ言葉にもしかして、と背後を振り返ればぶつかったコスモスを支えた少女が笑みを浮かべる。
「私の事だ。私はエステルと言う」
「は、初めまして。色々すみません」
相手を良く観察する事無く敵とみなして警戒してしまった事や、醜態を晒した事を謝罪すると少女エステルは楽しそうに目を細めた。
ソフィーアよりも幼い姿をしているというのに落ち着いた雰囲気が気持ち悪い。
しっかりした子なのだろうかと注意深く彼女を観察すれば、カーンという響きと共に軽く弾かれた。
「あぁ、すまないな。私は見た目と中身は違う。永遠の二十歳と言いたいところだが、今はそれより十も若いな」
「……いえ、こちらこそごめんなさい」
弾かれたという事は相手に気づかれてしまったという事。
反撃されなかっただけ幸運だと思いながらコスモスが謝ると、ケリュケがくすくすと笑った。
橙色をした液体に小さな赤い実が沈んでいるカップを見つめながら、コスモスがケリュケを見る。
いつものように飲んでいるエステルを暫く見つめていた彼女は、恐る恐る口を付けて唸った。
「うまい!」
「何だ、毒でも入ってるのかと思ったのか?」
「口にしたことがないものならば、戸惑うのは当然かと」
そんな卑怯な真似をするか、と呟いたエステルにケリュケがそっとコスモスのフォローをしてくれる。喉が渇いていた彼女は一気に飲み干すと、申し訳無さそうにお代わりをお願いした。
「そうか……そうだな。して、コスモス」
「はい?」
「お主、ミストラルにいたと言ったな」
「はい」
「ならば何故ここにいる?」
それが分かったら苦労はしないと思います、と心の中で呟きながらコスモスは薄いクッキーのようなお菓子を食べる。緑色の見た目と葉を練りこんでいると言われていたので青臭いと思っていたが、それ以上に変な顔をしてしまうくらいの苦味を感じた。
慌ててお茶を飲めば、口の中で甘みと苦味が合わさり絶妙な味へと変化する。
(なるほど。このクッキーとお茶はセットなわけね)
「分かりません」
分からないものは分からないと素直に告げるしかない。
クッキーとお茶の組み合わせの素晴らしさに感動したコスモスは食べるのに夢中で、エステルが不機嫌そうに眉を寄せたのを見ていなかった。
彼女は苛々した様子でコスモスを掴むとそのままテーブルに押し付ける。
「むぐっ!」
クッキーを口に放り込んだと同時に押さえつけられたコスモスは、お茶に手を伸ばしながら必死にもがいた。
細い少女の腕をどかそうにも、重りが乗せられたかのように体の自由が利かない。
エネルギー節約のためとは言え、人魂の姿でいるのは不自由だと彼女は眉を寄せた。
「エステル様!」
窘めるようなケリュケの声が響いたと思えば、パシンと何かを叩いた音が響きコスモスは解放された。涙目になった彼女はカップの中身を一気飲みする。
「はぁ……はぁ」
「エステル様。久方ぶりのお客人に対してその態度はなりませんよ」
「お前、仮にも主に向かって……」
両手で頭を押さえて涙目になっているエステルと、にっこりと微笑むケリュケを交互に見比べながらコスモスは自分で空いたカップにお茶を注いだ。
人魂からにゅっと出る腕というのは想像しただけで気持ち悪いのだが仕方がない。
(球体から両腕は出ても、足は難しいのね。頭……も、無理か)
幸いエステルとケリュケはそんなコスモスの姿が見えているにも関わらず、眉一つ動かさない。こういうモノに慣れているんだろうかと思いながら彼女はカップに口をつけた。
「怯えていらっしゃるではないですか。害はないのですから丁寧に扱わなければなりませんよ」
「コレにか? 同席を許し、食事を与えるだけでも充分だろうに」
「そう言って本当は誰よりも楽しんでいらっしゃいますけど」
「私は怒っているのだ!」
エステルとケリュケの主従関係も見ていて楽しいと思っていれば、心を読んだかのように紫の目に見つめられる。
「私の結界には一つの綻びも無いのだぞ? だと言うのにこの有様……認められると思うか?」
「だからと言って、コスモス様に八つ当たりなさるのも如何なものかと。第一、故意に来られたわけではないのでしょうから」
「当然だろうそんなもの。故意に私の結界を破って侵入してきたのだとしたら、とうに盛っておる」
(あっれー? さっき、卑怯な真似はしないとか言ってたはずだけど……おっかしーなぁ)
空元気を装いながら心の中で務めて明るく言ってみるが、カップを持っているコスモスの手はカタカタと小刻みに震えていた。やはり毒を盛られていたのか、未だ効き目が無いという事は遅効性なのか、と考えながら橙色の液体を見つめる。
澄んだお茶の表面にもコスモスの姿は映らない。
「ほら、エステル様のせいでコスモス様が怯えてらっしゃいます」
「ぬぬう……。すまぬ、コスモス。例がない事態に苛立ってお主に八つ当たりしてしまった。毒は盛っていないから安心して飲んでくれ」
その言葉は信じてもいいのだろうか、とカップをソーサーの上に置いたコスモスはとりあえず笑顔で頷いた。
「第一、お主に毒は効かぬだろうし」
「え?」
「なんだ。お主、知らなかったのか?」
思わず顔を見合わせてしまったコスモスとエステルに、ケリュケも意外そうに「まぁ」と声を上げる。
そんな事気にした事も無かったとコスモスが呟けば、エステルは呆れ顔で溜息をついた。そして、不思議なものを見るような目でコスモスを見つめる。
「知らなかった……毒、平気なのか私」
「耐性があるとか、無効だなとか気づかなかったのか?」
「そもそも、毒と分かって食べたりしませんし」
基本、食べずとも生きていける状態なので今こうしてコスモスが食事を摂ったりしているのは、完全に彼女の趣味と言っていい。
元に戻った時に、食べる行為すら忘れていたら困ると神経質になって考えたこともあったが、今では異世界の地での食事を楽しみに過ごしていると言っても過言ではない。
「それは……確かに」
「ね?」
「変わった物を食べられたりはしなかったのですか?」
コスモスにとって元の世界と類似しているような食べ物以外はみんな変わった物だ。周囲が美味しいというから手を出して食すのであり、自らすすんで変なものを食べる気はない。
気になるものがあれば、周囲にリサーチしてから手を出すようにしていた。
そんな彼女は眉を寄せて唸っていたが、一つだけ思い当たる事があって声を上げる。
「あ、ある。蝶々食べた事ならあるわ」
「あら。またこれは珍しい」
「そこまで腹が減っていたとは……可哀想にのう」
コスモスが食事を必要としない事を知らない二人は、同情するような視線をコスモスに向けると甘いお菓子を追加して皿に乗せた。
気遣いはありがたいのだが、そうじゃないと否定したコスモスはクリームがたっぷり入ったパンを頬張って幸せそうに呟く。
「私が食べたのは、黒い蝶ですよ。普通の蝶じゃなくて」




