59 母心
窓の外に広がる森は今日も風に揺れていて穏やかそうに見える。
空は僅かに曇ってはいるが、雨が降る気配はない。
雲の切れ間から射し込む日差しを見つめていたマザーは、小さく溜息をついてこめかみを押さえた。
(困ったものだわ)
主とのやり取りを終えた彼女は疲れた様子でお茶の缶が並べられている棚へと向かう。今日は気分が落ち着いて香りが強くないものにしようとラベルを見つめていたマザーは、その中から一つの缶を取り出した。
隣の棚からは愛用している薔薇のカップとソーサーを取り出してお茶の準備をする。
茶葉を蒸らしている間も彼女の頭をじわじわと締め付けるような痛みは治まらない。ほんのりと室内に香る茶葉に少しだけ心が落ち着いたような気がしてマザーは寄りかかっていたソファーから身を起こした。
体調が優れないからと言って執務や予定の調整は信頼できる補佐官に任せている。歳なのだからあまり無理をしないようにとお小言を貰いながら彼女はこうしてゆっくり体を休めていた。
仕事は溜まらないようにこなしているので大した量ではないが、それでも面会しなければならない人物や処理しなければならない仕事は結構ある。
それもこれも、長年仕えてくれている優秀な補佐官たちのお陰で心配する事なく心身を休める事ができるのだ。
(やっぱり、歳なのかしら……)
まだまだ年老いてはいないつもりだが、補佐官に指摘されたように老化によるものが大きいのだろうかと彼女は溜息をついた。
ローテーブルの上には二客のカップと薬、補佐官が持ってきてくれた軽食が置かれている。パンにハムとレタスを挟んだサンドイッチは鮮度を失わないように魔法で薄い膜がかけられていた。
(嫌だわぁ。まだまだ若い気でいるのに)
実年齢は自覚しているが、力は衰えていない自信がある。そうは言っても存分に力を揮う場面は訪れず、後進育成をしながらそれ相応の役職に納まってしまうと中々前面に出られないというのもあるのだが。
儀式の時も国賓や王族の身の安全を優先し、結局言う事を聞かずに出て行ってしまった王妃にいいところを取られてしまった。
マザーが迎え撃とうと行動を開始する前に王妃から来賓の事を任されてしまったのがいけなかったと今でも彼女は思う。
(まぁ、それであの子の頑張りも分かったわけだから良しとしましょうか)
その場に居合わせなかったのは痛いが報告は耳にしている。本人たちからも充分なくらいに情報を得ていたマザーは、自分に任せずさっさと解決してくれとばかりに怒っていたコスモスを思い出した。
こちらに来て日も浅く、戸惑い煮えきらない態度ばかりとっていた彼女が最近は少し逞しくなったような気がする。
それは魔法の訓練のお陰かもしれないが、心が決まったというかある程度落ち着いたように見て取れた。
(じたばたしていたものねぇ)
見ていて呆れてしまうほどみっともないもがき方をしていたコスモスは、自分でも情けないと自覚はしていたらしい。何とか現状を受け入れようと理解したつもりでいて、結局受け入れきれなくなり逃避する。
それの繰り返しを見ていたマザーは、異世界から召喚されたにしては異質だと彼女に対する考えを明確に変えざるを得なかった。
今のマザーの主である本物のマザーは最初にコスモスと会ったきりで、他の仕事が忙しくいつ戻ってこられるのか分からない。その間、影武者である今のマザーが彼女の代わりを務める。
その言動に注意しなければいけないというのに、コスモスを体よく押し付けられた気もしていた。
「……ふぅ」
長い間繰り返してきた“なりきり”にも慣れたというのにここへ来て得体の知れぬ厄介な存在だ。
人魂のまま消滅する事無く、発狂し悪霊になる事すらなくコスモスは平然と存在している。主とのやり取りで彼女をソフィーアに会わせる事を決めた時もここまで上手くいくとは思っていなかった。
けれども最初から分かっていたという態度でなければならないので結構困ってしまう。
「このお茶で正解ね」
穏やかな香りは精神を落ち着かせる効果を持ち、微かな甘さは何杯でも飲めてしまうと思えるほどだ。
お茶が注がれているのはマザー愛用の薔薇のカップと、可憐な小さい花が描かれているカップだ。マザー以外誰もいないというのに当然のように注がれたもう一つのカップを見つめて彼女は首を傾げた。
「あの子が来て半年程度にしかならないのに、慣れというものは恐ろしいわ」
小さく呟いて湯気を立てるカップ越しに最近誂えた天蓋付きのベッドへと目をやる。コスモスが深い眠りについていた間に誂えた寝台も最初はここまで拘るつもりはなかった。
温度耐性がある彼女は、執務室の定位置で最近契約した青灰色の獣を枕にしているように眠っているらしい。マザーの目には獣に包まれるようにしか見えないのだが本人は違うと激しく抗議していた。
どちらでも変わらないだろうにと思うマザーだったが、自身の姿が人型で見えているコスモスにとっては大問題なのかもしれない。
可愛らしい少女ならば許せるが、と呟いていたコスモスを思い出しマザーはサンドイッチに手を伸ばす。
覆う膜に軽く触れれば簡単に解除され、作りたての鮮度を保ったままのサンドイッチを手にしながら彼女は苦笑した。
「あの子なら、この程度の量では足りなかったでしょうね」
食い意地が張っていて、美味しそうに平らげる様子を見ているのが好きだった。偶にいびきをかくので煩い時もあったが、それでも彼女との生活を思ったよりも楽しんでいる自分に気づき笑ったものだ。
監視対象でしかなかった存在が、一時的に首輪をつける為とは言え“娘”にしたことにより関係性が変わったのは事実。
(警戒も無く何でも話すあの子を見ていると、また頭が痛くなるわ)
どこで何をした、何があった。どんな夢を見た。
自分が不思議に思ったこと、聞きたい事を逐一報告してくれるコスモスのお陰でわざわざ他の報告を聞くまでも無い。
彼女の信頼を勝ち得ていると確信するのと同時に、隠さず何でも話してしまう彼女に危機感を覚えた。
騙されやすい性質なのではないかと問いかけるも「マザーは騙してるんですか?」と真顔で尋ねられる。
誤魔化すように曖昧に笑ったマザーに、コスモスはどちらでもいいと呟いて溜息をついた。
自分の現状すら投げ出してしまうような言葉にマザーは軽く怒ったのだが、だからといって帰れるわけでもないと言われてしまうと何も言えなくなる。
彼女はこちらが思っているよりも賢い。
こちらが何かを隠しているのを知っていて、それには触れず知らない振りをしているとマザーはサンドイッチを食べ終え小さく息を吐いた。
(ただ係わり合いになりたくないだけでしょうね……)
言われたことは文句を言いながらもとりあえずやってくれる彼女はお人よしだ。
これだけは読むようにと言いつけておいた本も難しい表情をしながら何度も読んでいる。容量に限りがあるから必要なものだけを選んだつもりなのだが、マザーとしては他に詰め込んでいて欲しい情報はいくらでもあった。
その中から厳選したつもりなのだがそれも上手くいったのかは分からない。
前よりも読みやすくなったとの言葉を信じれば随分と成長しているという事なのだが。
(それが、吉と出るか凶と出るか……よね)
基本、マザーは本物のマザーに従って行動をしているので自分が深く考えて行動する事はあまりない。非常事態の時も必ず主とやり取りをしてから決めるのだ。
自分はマザーの代理であり、なりきりの影武者であると理解しているのでコスモスの事に関しては必要以上に慎重にならざるを得ない。
本物のマザーは好きなようにさせておくように、と笑いながら告げていたが彼女の代理をしている影武者は額を押さえて頭を左右に振った。
(儀式から色々な事がありすぎて、眩暈がしそうよ)
襲撃者にお帰りいただいたと思えばひと月も眠り続けたコスモス。
防御壁にそれほどの力を使っていたわけではないのに一週間を過ぎても目覚める気配がなかった事にはマザーも驚いた。大声で名前を呼んでも、叩いても反応は無い。
コスモスの精神に干渉するようにしても、ただ眠っているだけで他の情報は得られなかった。
彼女の事を任せたはずのアジュールもいつの間にかいなくなっており、また何か厄介事になっているのではないかと心配したのだが意外にあっさりと目を覚ます。
そしてまたも彼女は自分が眠っている間どんな夢を見ていたのかを教えてくれた。
(流されていた、ね)
ゆったりと漂っていた夢を見たと告げた彼女にそれ以上何かを聞く事もせず頷いていたが、本当にそれだけかとつい聞いてしまいそうになって焦ったものだ。
コスモスの夢の話は情報量が多い。彼女自身が思っているよりも重要な情報が眠っている事が多々ある。
夢の中で出会ったアジュールの存在もそうだ。
主であるコスモスには絶対服従で従順な態度をとってはいるが、危険な魔物には違いない。それも容易にコスモスを屠れる程の力を持った魔物だ。
しかし彼は主従関係を破棄するでもなくコスモスに従い、常にと言っていいほど彼女の傍にいる。
最初は警戒されたものだが今ではすっかりお互い気にしなくなっていた。
(アジュールが話せるのは最初から分かっていたけど)
あえて話さなかった理由を聞いてつい微笑ましいと思ってしまったくらいだ。もっとも、それが彼の本心であったらの話だが。
教会内をうろついても悲鳴を上げられることなく、慣れてきている彼は時折居心地悪そうにしながらも現状に不服は無い様子だ。
今回も突然消えてしまった主人を探すと言ったきり出て行ったまま戻ってはこない。
(あの子も落ち着いたみたいで良かったけれど)
先日尋ねてきた兄妹の事を思い返してマザーは溜息をついた。
前回と同じように何度も尋ねてこられては堪らないので今回は「いない」と正直に言うしかない。
毎日のように尋ねてこられても困ってしまうからである。
(厄介だわ。首輪つけてるはずなのに、気配が途絶えてるなんて)
世界上に存在している限り、気配が途絶えることはまず有り得ない。
それでも有り得るとするならば、マザー以上の力を持った者かコスモス自身の妨害か、もしくはこの世界にはいないという事になる。
コスモスが自力で首輪を外す事はまず無理なので除外すれば残りは二つ。
可能性が高いのは第三者の介入だが、彼女の夢の話を聞いているとどこか違う世界に飛んでいることも有りうる。
変なものを引き寄せやすい体質には見えないが、稀な存在だけにそれも仕方がないかと納得できてしまった。
「……はぁ」
異世界人召喚失敗により人魂での定着。
発狂する事も無く絶妙なバランスで存在し続ける彼女は生ける標本と言っても過言ではない。だからこそ他の誰に目をつけられる前に首輪をつけておく必要があったのだ。
マザーの娘として周知されればされるほど、他の者は手が出しにくい。
例えコスモスを異世界人だと分かる者が現われても、指を咥えて眺めているだけしかできないのだ。
「そういう意味では、娘で良かったのよね」
彼女に何かあった場合も“マザーの娘”という首輪が効力を発揮する事だろう。だからと言ってそれに気づいたコスモスに好き勝手されても困るのだが。
(世間知らずの箱入り娘にしておいて正解だったわね)
その設定ならばヒヤリとするような事をされても強引に何とか言い訳がつく。躾をきちんとしろと怒られそうだが、物陰に隠れて様子を窺うような彼女だけに馬鹿な事をするとも考えにくい。
時々、思い切り背中を押してやりたい気持ちに駆られる事もあるが、慣れない異世界で一生懸命生きようとしているのを間近で見ている身としては中々そうもできなかった。
「近過ぎるっていうのも、考え物かしら。その内連絡は取れるでしょうし……またあの子びっくりしそうね」
契約関係の本も読ませたはずだがそれを理解しているかどうかは怪しい。
とりあえず頭に入れておけとばかりに流し読みしていた気がする、と彼女の読書を思い返しながらマザーは溜息をついた。
アジュールの出現に驚いていた時に、その事についても話しておくべきだったかと後悔する。
(とは言っても、使う必要なかったのだから仕方ないわよね)
遠距離でなければ使う意味がないのだから。
あの可愛げの無い声が聞こえるのか、と想像したマザーはコスモスが何て言うだろうと想像しながら笑った。飲んだ薬が次第に効いてきたのか睡魔が彼女を誘う。
テーブルの上は後で片付けようと一瞥し、カップに残っていたお茶を飲み干すとマザーは自分のベッドへと向かった。
(まったく、うちのバカ娘はどこに行ったのやら)




