58 待つ
金色で縁取られている緑の宝石は人工的に着色されたガラスだ。本物らしい見栄えだが安価で手に入れることができる庶民の味方である。
ユートと一緒に町に出かけたコスモスが一目で気に入ってソフィーアへのお土産として購入したものだ。
見るからにイミテーションだと分かる安物を王弟の息女であるソフィーアに渡すのはどうかとも思ったのだが、コスモスから貰うものならば道端に生えているありふれた花でさえ喜ぶだろうと言っていたウルマスの言葉が彼女の背中を後押しした。
ウルマスが言っていた通りコスモスがペンダントを渡すとソフィーアはそれこそ華が咲くように微笑む。
一目で偽物だと判る玩具のようなペンダントを両掌で受け取った彼女は、それをそのまま胸元に当てて目を伏せる。僅かに潤んだ瞳にコスモスがたじろいでいるとウルマスが「良かったね」とソフィーアに声をかけた。
「……」
目を閉じてその事を思い出していたソフィーアは、お守りのように肌身離さず身に着けているペンダントを服の上から触れるとゆっくりと息を吐く。
本当ならば外に出してコスモスから貰ったものだと自慢したいのだが、物が物だけにやめてくれとコスモスから懇願されたのだ。
無邪気にはしゃいでいたソフィーアもコスモスの言わんとするところが分かって笑顔で了承した。
ソフィーアにとっては宝石が偽物だろうが安価であるとかそういう事は関係ない。コスモスが自分の為に選んでくれたというのが重要なのだ。
それを理解していたウルマスは想像通りの光景に笑みを浮かべ、幸せそうに微笑む妹を見つめる。
もうちょっと高いものでも良かったかな、とぶつぶつ呟くコスモスに「姉様はそれが良かったんでしょ?」と声をかけて宥めれば小さく唸るように頷かれた。
たくさん並んだ装飾品の中からそれに目を惹かれたのなら、それがソフィーアに一番似合うと思ったからだろうと言葉を続けるウルマスに頷いてコスモスは喜ぶソフィーアを見る。
早速ペンダントを身に着けたソフィーアは、胸を張って自慢するように兄を見ると頬を緩ませる。にこにこと上機嫌な彼女にコスモス用のお菓子を用意していたサラも顔を綻ばせた。
「……」
ずっとそれが続くのだと思っていたソフィーアはゆっくりと目を開いて、いつの間にか服の上から握り締めていたペンダントを取り出す。
桃色の布張りがされた猫脚の椅子に腰を下ろしているソフィーアは、ペンダントトップを軽く撫でてその輝きに目を細めた。
賑やかにお茶を飲んでいたのがもう遠い過去のように思ってしまうのは、それだけ彼女との邂逅が濃かったせいかと考えてソフィーアは小さく笑う。
コスモスが存在しなければ自分は今こうしてここで暢気にお茶を飲んでいたりできなかっただろう。
屋敷にすら戻れず、教会からひっそりと姿を消していたかもしれない。逆にそうと見せかけて人目につかぬ場所に幽閉されていたかもしれないのだ。
王族の姫が守護精霊を持たぬという事例はただの一度たりとも無い。
それだけにそんな事が事実としてあるのだと露見してしまえば、家族だけではなく国にまで迷惑をかけてしまう事になるのだ。
幼い頃はまだ時期が早いのだという大人の言葉を鵜呑みにしていた。
しかし、焦る周囲に自分が変だと気づくのにそうはかからなかった。自分を心配するあまり事実を隠し、違うと否定する家族が痛々しくてマザーと秘密の話をしたのも懐かしい。
(マザーがいてくださらなかったら、教会に移れたかどうかも分からないのよね)
ソフィーアも自覚するほど家族が自分に与える愛情は大きくて深い。そして、深過ぎるが故に時にやり過ぎとも取れる行為を平然ととってしまう事がある。
マザーの説明に父親が取り乱した姿を見た時は恐怖で体が震えてしまったほどだ。
大事な話があると父親の書斎に行くマザーを尾行しようとしなければあんな目に遭わずともすんだのに、子供は何を考えるか判らないとソフィーアは幼い頃の自分に苦笑した。
話が終わった頃に顔を出そうと思っていたソフィーアの耳に聞こえたのは、父親の怒鳴り声。一度も聞いた事の無いその声にドアに耳を当てて事実を知った。
あぁ、自分は存在してはいけない子なのだとそう思った。
愛されて生まれたと耳にタコができるくらいに繰り返し聞かされた言葉も、幼子を宥める為の嘘としか思えなくなったのはその頃だっただろうか。
自分を探しに来たウルマスが無言で部屋に連れ帰ってくれなければきっとソフィーアはその場で呆然と立ち尽くしていたことだろう。
(あれは、四歳の誕生日前……)
随分と早い段階で残酷な事実が分かるものだと思いながら部屋に戻ったソフィーアは高熱を出して暫く寝込んでいた。何を聞いて何を思ったかは誰にも言わず、大体の事を察しているだろうウルマスも何も言ってこないので知らない振りを決め込む。
自分は病弱な末娘で大人しく周囲の言う事を聞いていればいいのだ。
そうすればきっと精霊は来てくれるというまやかしを信じて、縋って、試せる事は何でもした。
イストに頼んで何回か教会にも連れて来てもらった。妹に特に甘いイストはソフィーアのお願いを断ることができないと彼女も知っているのだ。
分かっていながら利用するのだから酷い女だとソフィーアはその頃を思い返して笑うのだが、それだけ幼いながらに必死だったという事でもある。
(信心が足りないのだと指摘されることになれば、余計に厄介だもの)
時折訪れる王妃が見せてくれる精霊の魔法を食い入るように見つめながら、どうやったら精霊と会話ができるのかとしつこく聞いたのも懐かしい。
それら全ては今も役に立ってはいないけれど、それでも何とかこうして生きている。
(教会に行って、お祈りをして。帰ればすぐに高熱出して倒れるものだから怒られたわ)
王都から教会までの移動だけで体調が悪くなるソフィーアが教会に行くことを父親のエルグラードはあまり良く思っていなかった。
けれども何回も行かせてもらったのは、頼んだイストや他の兄が説得してくれたお陰だろう。
すぐ上の兄であるウルマスは特に昔から自分を気遣ってくれている。イストのように頼めば何でもしてくれるような兄ではないが、困っていればすぐ近くで支えてくれる頼りになる存在だ。
(ウル兄様の方が先に精霊の声が聞こえてしまうんだもの……)
ウルマスはソフィーアが生まれる前から精霊の声が聞こえていたらしい。しかし、彼がその事を口にすることはあまりなかった。
それはきっと自分を気遣ってのことだろうと分かっているソフィーアは申し訳ない気持ちになる。
何をしなくとも得られる守護精霊を得ることが出来ない妹と違い、兄は精霊の声が聞こえるのだ。妹を他の兄たちと同じように可愛がっているウルマスの心中はどれほどのものだったのかソフィーアは知ることができない。
仮に彼女が聞いたとしてもウルマスは何でもないとばかりに笑顔を浮かべて上手くはぐらかしてしまうのだろう。
容易にその光景が浮かんでしまって、ソフィーアはカップに口を付けた。
サラが入れてくれた今日のお茶も鎮静効果のあるルカリ茶だ。
(拗ねて口をきかないなんて、本当に子供よね私)
辛い体を押して教会に通い、マザーの見ている前で祈りを捧げる。
一心に願うのは、精霊の降臨だけだ。
寂しいのも辛いのも、苦しいのも痛いのも我慢する。
サラが作ってくれる美味しいお菓子も我慢する。
友達ができないのも、外で遊べないのも、アレクシスと長く話ができないのも全部我慢する。
だからどうか守護精霊ができますようにと必死になって願ったものだ。
あまりに頻繁に教会に行きたいとねだるソフィーアと、彼女が必死に祈る様子を見て周囲も次第に彼女自身が異常だと気づいていることに気づき始めた。
それからは前以上に周囲が優しくなり、過保護になった。
アルヴィとイストが時間のある限り自分の傍にいるようになり、アレクシスも微妙な空気の変化を察して随分と遅くまで自分との会話に付き合ってくれたのを思い出す。
ウルマスは精霊の声が聞こえる自分の姿は見たくないだろうと暫く顔を見せなかったのだが、その事をソフィーアが知ったのも結構後になってからだった。
彼女は勉学や武術の練習に忙しいのだろう程度にしか思っていなかったのだ。
ある時偶々姿を見つけ、最近忙しそうだと告げたところ少し驚いたような表情をした彼の心情が今では何となく分かる。
それでも彼は嫌な顔一つせず「物覚えが悪いから、他より努力しなきゃいけないんだよ」と答えるだけだった。
幼いソフィーアはそれをそのまま信じていたのだが、今改めて考えるとそんな事はないと思う。
確かに武術ではアルヴィには敵わないし、魔法の腕ではイストにも敵わないだろう。しかしウルマスは凄いと賞賛していたコスモスの言葉を思い出してソフィーアは考えを改めた。
彼女自身、ウルマスの戦う姿は黒い蝶の元凶との場面でくらいしか目にする事は無かったが、しなやかな身のこなしは自分が知っている兄かと疑ってしまうようなものだった。
それだけ雰囲気が違っていて驚いたのを思い出す。
ソフィーアから見ればウルマスは充分に強い。だからその事を素直に褒めるのだが、彼は微笑みはすれど心底嬉しそうな顔はしなかった。
「ソフィーア」
開かれた扉をコンコンと鳴らしながら隣室からウルマスが入ってくる。
物思いに耽っていたソフィーアは、弾かれたように体を震わせると慌てた様子でお茶を入れ立ち上がった。
そんな様子の妹を見ながらウルマスは不思議そうに首を傾げて笑う。
「あ、ウル兄様は何のお茶がいいですか?」
「同じのでいいよ。ルカリ茶でしょ?」
「はい。昔はそうでもなかったけれど、今は妙に気に入ってしまって」
華やかな香りがするものや、甘い味が広がるものが好きだったのだが今では落ち着いた味のするルカリ茶を気に入って飲むようになっていた。
そう言えばコスモスも好んで飲んでいたような気がする、と思いながらソフィーアは兄へお茶を注いだカップを差し出した。
「姉様が好きなんだよね、ルカリ茶」
「ええ、そうでした」
「確か、センチャに似てるとか言ってたけど……どこのお茶なのかな」
何を飲むかと尋ねて茶葉を見せた時に、香りを嗅いで興奮したように反応したのがルカリ茶だった事を思い出しながらウルマスは苦笑する。
聞いた事のない名前に触れる事無く流していたが、今思い返すと気になってしまった。この場にコスモスがいればすぐに聞くことができるのだが、生憎彼女は暫く戻ってこないと見える。
「遠い異国の地なのでしょうね」
「もしくは、遠い昔に栄えた国の……とかかなぁ」
「そう言えばコスモス様は長い間眠っていらしたのよね」
今日のお茶請け菓子はドライフルーツが入ったフルーツケーキだ。しっとりとした食感に甘さ控えめのケーキを食べていたウルマスは、不思議そうな顔をしてソフィーアを見つめる。
「ソフィー。味覚変わった?」
「あ、いえ。これはサラがコスモス様用にと作ったのを私が味見という形で……」
「あぁそっか。そうだよね。ソフィーはお酒が効いたお菓子苦手だから変だなぁと思ったんだ」
隠し味程度ではなく結構量を多くしてあるケーキはソフィーアの好みではない。それに気づいたウルマスは彼女から理由を聞いて納得したように頷くと「ふふふ」と笑った。
「コスモス様が帰っていらしたら、大量のお菓子で攻撃するのです!」
「おやおや、それはそれは。姉様は悲鳴上げるだろうねぇ」
「勿論。そうでなくては困りますもの」
サラも腕をまくって気合を入れている事をソフィーアが告げれば、ウルマスも楽しそうに笑う。きっとコスモスは珍しく高い声を上げながら全て綺麗に平らげるのだろうなと二人は想像し、笑い合った。




