表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
いえ、私はただの人魂です。  作者: esora
道楽娘の家出
58/291

57 不安

 行けば必ず会えるものだと思っていた。

 今までがずっとそうだったので常にそこにいると思い込んでいた自分が悪いと少女は溜息をつく。

「……」

 小刻みに震える両手を握り締めながらソフィーアは深呼吸を繰り返した。夜着は汗ばんで呼吸が荒く安定しない。もう少し経てば落ち着くからと言い聞かせていた彼女は言いようのない不安に襲われて顔を手で覆った。

 闇に包まれる室内が怖くなってベッドサイドの明かりに手を伸ばす。

 しかし手は棚の上を滑って燭台と共にベルが音を立てて落ちた。絨毯に落ちたのでそれほど音は響かなかったが、すぐさま隣の部屋からノックの音が聞こえる。

 声を出して答える前に入ってきた主はランタンを掲げながら、ベッドからずり落ちてしまいそうな少女を慌てて支えた。

「ソフィー。大丈夫かい?」

 バランスを崩して上手く身を起こせないでいる妹の体に触れたウルマスは眉を寄せて部屋に入ってきたサラを呼んだ。すぐさま彼らの傍に駆けつける彼女は他に人を呼ぶべきかと判断し、ウルマスを見つめる。

「サラ、君だけでいい。あまり大事にはしたくない」

「承知いたしました。それではそのように」

 サラは短く告げてベッドに横たえられたソフィーアを見ると静かに部屋の奥へと消えてゆく。慣れた様子で厚手の布と換えの夜着を持ってきた彼女にウルマスは部屋を出て行こうとしたのだが呼び止められた。

「大丈夫だよ、ソフィー。着替えが終わったらまた来るから」

「そうですよソフィー様。私も傍におります」

 兄と自分をよく知る侍女を交互に見つめたソフィーアは静かに頷くとウルマスの袖を握っていた手を離す。彼女の幼い頃を思い出しながら軽く頭を撫でたウルマスはそのまま部屋を出て行った。




 鎮静効果があるルカリ草を煎じたお茶を飲みながら息を吐いたソフィーアは心配をかけてしまった事を二人に詫びる。可愛らしい花の細工がされたランタンが穏やかに室内を照らし、安心した表情をするソフィーアにウルマスとサラは笑顔で首を横に振った。

「落ち着いたようで何よりだよ。悪い夢でも見たのかな?」

「よく、覚えていないの」

 息苦しさに目を覚ましたのは事実だが、何故息苦しくなったのかが分からない。夢に原因があるのだろうかとソフィーアはずっと考えていたのだがその夢すらも思い出せなかった。

 けれど体が震え、不安と恐怖に押しつぶされそうな感情が胸に渦巻いて気を抜けば泣いてしまいそうだった。

 成人を終え立派な大人の仲間入りをしたはずなのに、子供のような己の弱さに彼女は拳を握る。

 そんな様子を見つめていたウルマスは、カップを潰すように力を込めている妹の手に優しく触れて笑みを浮かべた。彼女の華奢な手でカップが壊れるとは思っていないが、安心するようにと手を撫でれば力が緩む。

 爪が白くなるまで力を入れていた事にさえ気づかぬソフィーアは翠玉の瞳を揺らして、不安そうに兄を見つめた。

「朝までここに居てあげようか?」

「そんな、そこまで迷惑をかけるわけには」

「ふふふ。冗談だよ。もうちょっと小さかったらね、一緒に寝られたんだろうけど」

 可愛らしい妹をからかうようにして笑う兄に、ソフィーアは小さく頬を膨らませた。近しい者だけに見せるそういう仕草がまだ子供っぽくて愛らしいのだが指摘はしない。

 彼女は早く大人になりたいらしくて、子供扱いされることを嫌がるのだ。

 時々それを分かった上でからかったりするウルマスだが、今回は穏やかな表情で見つめると柔らかな頬をツンと人差し指で突いた。

「……ウル兄様も、もうお部屋に戻られて大丈夫ですよ?」

「んー?」

「今回は、偶々だと思いますし。サラもごめんなさい」

「いいえ。お気遣いなさりませんよう」

 離れた場所で兄妹のやり取りを微笑ましく見つめていたサラは優しい声でそう告げると軽く頭を下げた。お茶を飲んで落ち着いたとは言えまだソフィーアの顔色は優れない。

「ソフィー。明日、姉様に会いに行こうか?」

「!」

 最近の妹の興味を引かせるものを心得ているウルマスは穏やかな声でそう問いかけた。さらり、と揺れる金髪を見つめながら軽く目を見開いたソフィーアは視線を逸らしカップの中を見つめる。

「コスモス様に、言いつけるおつもりでしょう?」

「えー何が?」

「何がって……」

「ソフィーが悪夢見て飛び起きちゃって凄く可愛かったんだよーって?」

 朱が差したように白い肌がほんのりと赤くなる。ルカリ茶を飲み干したソフィーアは眉間に皺を寄せてウルマスを睨みつけるのだが、彼はにこにこと微笑んだまま頬杖をついて見つめてくる。

 空になったカップに再びお茶を注いだサラを見上げたソフィーアは、彼女に微笑まれて小さく頷いた。

「別にいいんじゃない? 姉様もニコニコしてくれると思うよ?」

「私は、成人したのですよ?」

「うん。知ってる」

 だったらもっと大人の扱いをしてくれてもいいものを、とソフィーアは心の中で呟きながら察したように笑顔を浮かべている兄を軽く睨みつけた。

 上の兄二人ならばともかく、すぐ上で歳も近いウルマスに昔と変わらず子供扱いされる事にソフィーアは少し抵抗を感じていた。

 嫌いなわけではないが、いつまで経っても態度が変わらないことが気に入らないらしい。

 自分が子供じみているせいだろうかと思って、振る舞いに気をつけて淑女らしくしても反応は変わらなかった。よく出来ました、とばかりに褒めてくるその対応をもっと変えてくれてもいいのに、と溜息をつくと頭を撫でられる。

「……」

 それも子供扱いされているようで振り払いたいが、嫌ではない。大事にしてくれている、愛されているというのが判るから抵抗はせずにじっとカップを見つめるソフィーアだった。

 そんな彼女を見てウルマスは顔を逸らし笑いを堪える。小さく震える体にサラは目を細めながら彼らを見つめ、そっと目頭を押さえた。






 不安な気持ちを誤魔化すように兄と会話をしていたソフィーアだが、教会に入った途端彼女の動きが止まった。羽織っていたケープを揺らしながら力強く腕を引く彼女にウルマスは首を傾げる。

「ソフィー?」

「兄様、兄様!」

 呼吸が荒く軽く目を見開いている妹のただならぬ様子に、ウルマスは彼女の背中を優しく撫でた。出迎えの神官兵たちが心配した様子で見つめているのを視界の隅に入れ、彼は妹に声をかける。

「そう心配しなくとも姉様は逃げたりしないよ」

「……」

「ソフィー?」

 屋敷を出て教会に向かう道中ではとても機嫌が良かったソフィーアは無言で首を左右に振りながら小刻みに震えていた。具合が悪いのかと声をかける神官兵に小さく頷いて応接間へと通してもらう。ソファーに座り、サラの入れたお茶を飲みながら何か言いたげに見つめてくる妹にウルマスは優しく彼女の名前を呼んだ。

「ソフィー? やっぱりまだ調子が……」

「違うの……違う」

 何が違うのか分からないからその理由を聞こうとするのだが、ソフィーアは何も言わず首を左右に振るだけ。口にすればそれが現実になりそうで怖いと呟く彼女の声にウルマスは優しく頭を撫でて落ち着かせた。

 控えているサラも心配そうにその様子を見て、持参した菓子を皿に盛り二人の前に置く。食べると幸せな気分になるといつも微笑んでいたソフィーアは一向に手をつけようとはしない。

 ウルマスは彼女を宥めながら、クリーム状のペーストをクッキーで挟み込んである菓子へと手を伸ばした。乾燥させたフルーツが練りこまれており、程よい甘さで腹持ちも良い。三センチ角のそれを口に放り込みながらウルマスは小さく息を吐いた。

 ソフィーアに何かあった時にすぐに対処できるよう、ウルマスは自室ではなくソフィーアの隣室で寝起きをしている。常時屋敷にいることができない父親や兄たちを考えると、第三者に頼むよりウルマスに任せたほうが最適だとエルグラードが判断したからだ。

 仕事が無いから暇で平気だとは言っているウルマスだが、父親からの第一の指示がソフィーアの周辺に気を配ることなのだからこれも立派な仕事である。

 当然のように指名された弟に歯軋りをしながら悔しがっていたイストだが、彼が一緒だとソフィーアの気が休まらず家名に傷もつきそうなので仕方がない。そんな馬鹿な真似はしないと本人は言っていたが誰一人としてそれを信用することはなかった。

 未だに諦めていないらしいイストは時間に余裕ができる度にウルマスに何か変わった事はなかったかと尋問のように問い詰める。

(イスト兄じゃなくて良かった。また姉様が酷い目に遭うことだった)

「マザーは相変わらずお忙しいのかな」

「……」

 忙しくて朝食をあまり食べられていなかったウルマスは、ソフィーアの分を残しつつも皿に乗っていた菓子を平らげてゆく。それを見たサラは溜息をついて困った様子でウルマスを見つめる。

 穏やかな態度をして余裕があるように見えるウルマスだがいつでも対応できるために気を張りつめている事をサラは知っている。

 しかし、本人はそれを他人に知られる事を嫌がる性格なので心得ているサラは見ないふりをしてさり気なくフォローをするのだ。

 苦難を乗り越えて平穏な日々を迎えられると期待していたサラだが、暗雲は立ち込めたまま二人の様子も晴れない。少しでも気分が軽くなるようにと彼女を始めとするヴレトブラッド家に仕える使用人たちは日々努力している。

 それはこれからも変わらないと思いながらサラはバスケットの中から、ふんわりとした食感のケーキを取り出す。

 朝食もろくに食べなかったソフィーアの為に食べやすく消化の良いこのケーキならば食べてくれるだろうとサラは考えたのだ。

 マザーは未だ仕事が終わらないらしく待機する時間が長くなりそうなので丁度良いとサラは空いたカップにお茶を注ぐ。

 優しい味のするケーキを見たソフィーアは少しだけ表情を緩ませてカップを置くと、フォークを手に取った。一口大に切り分けて食べ始めた様子を見つめ、ウルマスもサラも安心したように息を吐いた。

「美味しい?」

「はい。サラ、ありがとう」

一口食べてしまえばそこからは食欲を思い出したようにソフィーアは食べ始めた。ウルマスが残していた菓子も食べ、お茶で口の中を潤していた頃にドアがノックされマザーが現われる。

 二人の様子を見たマザーはにっこりと微笑んで羨ましそうに用意されている菓子を見つめた。

 心得ているようにサラは腰を下ろしたマザーの前に盛り合わせの菓子を置き、お茶の準備をする。

 マザー付きの修道女たちが近づいてきたので軽く微笑むと、サラは彼女たちと会話をしながら奥の部屋へ消えていった。

「マザー」

「分かっているわ。あの子に会いに来たのでしょう?」

 カップに口を付けながらその香りを楽しんでいたマザーは、切羽詰ったような声を出すソフィーアに穏やかな口調のまま答える。

 静かに頷いたソフィーアが口を開く前にマザーはカップを置くと困ったように頬へ手を当てた。

「あの子ね、ちょっと出かけてくるって行ったまま、まだ戻ってこないのよ」

「え?」

「放浪癖のある子で、興味があるものについふらふらーっとついて行ってしまうから」

 教会に入った時点でコスモスの気配がしなくて驚いたのだろうとマザーが指摘すれば、ソフィーアは静かに頷く。それで変に不安がっていたのかと理解したウルマスは「ふぅん」と呟いた。

 面白いコスモスと会って、また面白い話でもできるかと彼も会うのを楽しみにしていたらしい。

 ソフィーアは窺うようにマザーを見ると、柔らかく微笑む彼女に安心したように胸を撫で下ろした。

 最近夢見が悪いのだと過剰に心配する理由を話し、その内容がさっぱり分からないと告げる。気を遣い過ぎて自分を追い詰めているのが夢に現われているのではないかと指摘され、ウルマスにも同意するように頷かれたソフィーアは困ったように目線を下げた。

 自分では一生懸命やっているつもりで、迷惑をかけないようにと振舞っているのは昔だから今更な話だと言えば二人は困ったように笑う。

「成人したとは言え、そんなに無理をしなくともいいのよ?」

「けれど……私は」

「そうだ。聞いてくれますマザー? ソフィーは教会にすぐにでも移りたいって我儘言ってるんですよ」

 やっと戻ってきたと思えば、と付け足すウルマスにソフィーアは慌てた様子で兄を見上げる。彼はケーキを口に運びながら少々拗ねたように向かいに座っているマザーを見つめた。

 優しい紫の瞳が少し細められ、ウルマスの隣に座っているソフィーアへと向けられる。

「我儘では、ありません」

「そんなすぐ結論出さなくてもいいのにって言ってるのに、頑なに譲らないんですよ。アレクの事もあるっていうのに」

「そうねぇ。アレク王子は昔から一途だものねぇ」

 曲がる事無く真っ直ぐと育ったアレクシスを思い浮かべてマザーは微笑んだ。彼は昔から正義感が強くソフィーアを護ることをまるで使命のように感じていた。それが今でも変わらぬというのだからこれほど微笑ましい話はない。

 エテジアンの第三王子が婚約者だというのに未だソフィーアへの求婚が止まないのは、彼が優し過ぎるからかもしれないとマザーは苦笑した。

「そんな事よりも、コスモス様はどちらに行かれたのかご存知ですか?」

「ううん。私も分からないわ。その内連絡は来ると思うけれど。飽きたら帰ってくると思うわよ」

「……姉様って、いつもそうなんですか? 僕はもっと消極的で引き篭もり体質だとばかり思っていたけど」

「ムラっ気があるのよね。隅っこの方で固まってるのがほとんどだけど、突っ走るときはいきなりだから私も困ってしまうわ」

 今に始まったことではないけれど、と呟いたマザーの声色からは心配している様子が見えない。マザーがそう言うのであれば大丈夫なのだと安心したソフィーアは、目的の人物に会えなかった事を寂しく思いながらケーキを口に運んだ。

 ふわふわとしたケーキはコスモスがまだ食べていないものだ。

 これを口にすれば彼女ならペロリと平らげてしまっただろうにと考えて、自分に何も言わずに出かけてしまった彼女への怒りがほんの少しだけ湧き上がった。

 自分の家族でもないのに行動を制限するなんてできないのは判っている。けれども、家族のように彼女を慕っているソフィーアはそんな自分の感情に眉を寄せると溜息をついた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ