55 黒い塊
抑圧された感情を爆発させたいと思っても中々そうはいかない。
周囲に与える影響や、築かれた人間関係にひびが入るような事を考えると、そんな事をするわけがない。
もう少し我儘な性格だったら楽に動けたのだろうかと想像してコスモスは苦笑した。
(無理だわ。寧ろ振り回されるその他がお似合いだわ)
今になって性格が変わるわけもない。
黒く、燻っている塊を見つめながら彼女はすっきりしたように息を吐く。
他人の目を気にせず思うがまま暴れられるのはやはり夢の中でしかない。
(それはそれで性格が悪いけど)
誉められた性格ではないと自覚している。
しかし、それだけではなく要領も悪いかとコスモスはため息をついた。
「……」
黒い塊が形を崩し、ずるりと這い出るように影が伸びてゆく。気持ち悪いと思いながらそれを眺めていたコスモスは、鋭く飛んでくる影に軽く目を伏せた。
バシィという音と共に消滅してゆく影の手が脳裏に浮かぶ。
驚いたのは最初だけで、今はもう見慣れてしまった光景には溜息しか出なかった。
同じ事が繰り返されて終わりが見えない。
「アグァ……ゴォ」
這い出たものは生物とはとても言えぬような異形の影。
攻撃しても全て消滅することはないので面倒くさいとコスモスは欠伸をしながら蠢く影を見つめた。
周囲に響く音は影が発している呪詛のようなものなのだろう。耳慣れぬ声はどこかの言葉のように聞こえて、その感情が手に取るように分かった。
憎悪と嫉妬。
負の感情を剥き出しにぶつけられても自動的に展開される防御壁によって全て遮られる。便利なものだと自分が展開したらしい防御壁を眺めながら、ずるりと音を立てて近づいてくる黒い塊にコスモスは眉を顰めた。
「何なのかしらね。夢にしては悪趣味じゃない? まぁ、そんな悪趣味なのは私なんだろうけど」
ホラーゲームに出てくる化け物はこんな感じだった気がすると、弟がやっていたゲームを思い出しながら彼女は身震いをした。
どうせならもっと楽しくて夢や希望が溢れる綺麗な世界が良かった、と呟く。
(……私もなんでこんな夢見るかな。他にこんな夢見て家に帰りたがってる子とかいないのかしら?)
召喚される年頃は青少年が多いので自分のような成人越えはいないはずだ、とコスモスは首を傾げる。若さがあるからこそパニックホラーの環境でも順応して道を切り開いていけるのかもしれない。
こちらの世界に不満があるわけではないが、どうせならば自分の知っている世界だったら嬉しかったなとコスモスは溜息をついた。
(そう都合良い世界があるわけないのにね。帰りたい感情を自動的に抑制させられるのが本当だとしたら、ブラック会社も真っ青か)
自分以外の異世界人を知らないのでそこのところが良く分からない。
召喚された異世界人同士で情報交換をしてみたいとコスモスが目を軽く見開けば、黒い塊は巨大な氷柱に貫かれた。耳に残りそうな気持ち悪い叫び声を上げて動きを止めた塊の声は次第に掠れてゆく。
(理想の世界に理想的な立ち位置で召喚されたとしても、楽しそうだとは思えないのよね。私はやっぱり傍観者が向いてる気がするわ)
ニヤニヤするのも振り回されるのも画面越しだからこそいいのだ、と一人納得しながらコスモスは自分の事をひどく心配していたソフィーアの事を思い出した。
前よりも元気が良さそうな様子を見て安心したのだが、未だ教会に行きたい彼女と普通の暮らしをさせたい家族との間には溝があるらしい。
アレクシスの事は心残りだろうが決めるのはソフィーアと彼女の家族だ。
できるだけ娘の意思を尊重するエルグラードでもどこまで彼女の意向を聞く気なのだろう。マザーの娘という立場でソィーアとの間にある繋がりは薄らいでしまったコスモスも、友達として気になる程度だ。
(教会に移った方が安心なのは分かるけど……。あぁ、だとエルグラード様は寧ろ承知するかな)
儀式を無事に終えたとは言え油断ができないときっとマザーから話は聞いているはずだ、とコスモスは頷いた。氷柱が刺さったままの黒い塊はぴくりともしないが見ていて気持ち悪い。
どうしたら消えるだろうかと彼女は考えながらゆっくりと後退りしていった。
視線は巨大な氷柱から離さず、少しずつ距離を開けてゆく。
(アレクなら姫の申し出を承諾するだろうけど……彼は王子様だから国としては危ないのかしら?)
第三王子とは言え、高貴なる王家の血筋である。
彼の国についての知識は本で得たものと、ソフィーアとマザーからの情報くらいしかないコスモスは、ミストラルよりも大きな国で栄えているというぼんやりした情報を思い出した。
幼い頃から婚約者として決められている両国の王子と姫の結婚は、民衆の知るところでもあろう。そういう形で牽制をしているのだと苦笑していたウルマスの言葉を思い出し、コスモスは眉を寄せる。
(ソフィーア姫が話を蹴っちゃったら、友好国が一転して敵国へとかならないといいんだけれど)
黒い蝶の事がまだ完全に片付いたとは言えない状況に、厄介事が重ならなければいいのだがとコスモスは小さく唸った。
コスモスの望みは未だ変わらない。
落ち着いた穏やかな日々を暮らしながら帰還の情報を収集し、元の世界に帰る事。
巻きこまれて結局厄介事に首を突っ込むはめになるのも、最終的に帰る事に繋がるのならばそれでもいい。
(独りよがり、自分勝手。当然よね、そこまでのお人よしじゃないし)
視界の隅で巨大な氷柱が粉々に砕け散る様が見える。粉砕された氷の欠片はキラキラとして光を反射させながら軽やかな音を立てて床に落ちていった。
そして、飛び散る氷の破片を縫うように伸びてくる影は未だ執拗にコスモスを追う。
黒い線を描くようにして近づいてくる塊は、彼女が自分の二メートル先に展開させた一つ目の防御壁にぶつかり動きを止めた。
「おおぉ」
しかし今回は消滅する事無く防御壁を突き破ってそのまま向かってくる。予想外の出来事につい興奮した声を上げてしまったコスモスは、瞬き一つする間に二つ目の防御壁を強化した。
ヘドロのような黒い塊が自分の身にぶつかった事を想像するだけで気持ち悪い。
いくら夢でもそれは嫌だ。
鼻を突くような異臭もするだけに早く悪夢から目覚めたいのだがそうもいかない。黒い塊を消すことができない以上、彼女が目を覚ます以外に逃げ切る方法はないだろう。
しかし、残念なことに目覚め方が分からなかった。
(夢が覚めないって恐怖ね)
消滅させられないものから逃げずにいれば、自分はアレに取り込まれてしまうだろうとコスモスは本能的に感じていた。
目覚められない以上、どこまでも逃げるしかない現状だ。
「しつこいっつーの」
性格の良いフツメンまたはイケメンにこれだけしつこく追い回されてみたかったわ、とボヤキなやら彼女は巻き起こした風で球状の防御壁にへばり付く黒い塊を弾き飛ばした。
意外と簡単に飛ばされた塊は、骨が折れる音や口を開けたまま何かを食べるような音を立てながらゴポゴポと泡立ち始める。
「起きたらマザーに対処法聞いてみようかな。アレを知ってるかどうかは分からないけど」
知らない事など無さそうに見えるから不思議だ、と歩く辞書呼ばわりされて怒っていたマザーを思い出した。影武者とは言えあまりにもそっくり過ぎるので、偶に影武者であることを忘れてしまうくらいだ。
彼女としては本体でも影武者でも支障はないので構わないらしいが、コスモスとしては少々複雑である。
一応マザーの娘という事になっているのに違いがよく分からない。
やっと習得できた慧眼を使用しようにも、カウンターを食らって倒されてしまう有様だ。
一度痛い目を見たコスモスは、それからも探るようにしながらマザー相手に慧眼を使用していた。何度か気絶して体で覚える内に、どの程度までなら踏み入る事ができるかというのを理解したくらいで特に成果は得られず。
呆れたように溜息をついたマザーと、無駄なことを繰り返すコスモスに律儀に付き合い衝撃を和らげてくれるアジュールはいい迷惑だっただろう。
(ぼんやりとしたオーラなら見られるからいいんだけどさ)
娘の自分にも本性は秘密なのか、と一度抗議した事もあったが笑顔で黙殺されてからは大人しくする事にした。笑顔のマザーがとても恐ろしいことをコスモスは良く知っている。
アジュールはあっさりと情報を開示してくれたので逆に気が抜けてしまった。あそこまで見ろとばかりに見つめられると見る気を無くすのは何故だろうかと首を傾げ、コスモスは分裂して飛んでくる黒い塊を火の玉で沈めた。
「あぁ……しつこい」
何の意味がある夢なんだと愚痴りながら、回避と攻撃を繰り返す。単調なその繰り返しにも飽きた様子でコスモスが溜息をつけば、黒い塊が笑うように鳴いた。
複数の塊に氷柱を突き刺して動きを止める。そのまま塊ごと凍らせた彼女は足掻くように蠢く塊を見つめて息を呑んだ。
ボコリ、という音と共に塊の表面に現われた大きな目玉。
反射的に氷柱で突き刺していたコスモスは氷の中で飛び散る液体に顔を歪ませ飛び退いた。
凍らせておかなかったら酷いことになっていたと息を吐けば、カタカタと床に落ちた氷の塊が揺れる。氷に閉じ込められた塊は赤黒く変色して突き刺された隙間から外へと這い出してきた。
「……そのしつこさは、他に向けられませんかね」
分裂したままの状態で各個凍らされていた塊たちは意思を持つように集まって、一つになっていく。白い床に流れ出た赤黒い液体は黒い塊の血にも見えて不快感を与えた。
液体が床をゆっくりと侵食してゆく様をただ見ているだけのコスモスではない。自分が今持てる魔法をぶつけ、少しでも消そうと躍起になるのだが流れる液体は増えてゆくばかりだ。
結局、気づけば自分が展開している防御壁以外は全て赤黒く澱んだ色へと変化し、あれだけ綺麗だった白の部屋が今では見る影もない。
反転したみたいだな、と呟きながらもコスモスはどうしたら起きられるのかと自分の頭を軽く叩いた。
天井に向かって呼びかけてみるが返事など無く、代わりにせせら笑うような鳴き声が響く。
(とても嫌な展開ですけど……夢ならばどうにかなる!)
無理矢理気合を入れて飛び上がったコスモスは、先程まで自分が立っていた場所があっと言う間に侵食されてゆく様子を見て形勢逆転してしまった事を嫌でも理解した。
球状の防御壁に護られているコスモスを除いて、視界は全て黒く染まっている。
うねるように隆起する黒い波が彼女を襲い、飲み込んで潰そうとするのだがコスモスも必死に抵抗をしていた。仮に夢だとしてもこの状態で身を委ねるのは勘弁したいと唇を噛み締める。
ボール遊びをするように四方八方に投げられ、転がされ、圧をかけられる。けれども彼女の防御壁が崩れる事はなく、楽しげに聞こえていた声に苛立ちが混ざったような響きが広がった。
感情は無いと思っていたが一応あるのか、と緊急事態だというのに違う箇所に感心していたコスモスは避けられない大きな壁が緩やかに自分を飲み込んでゆく様を見て溜息をつく。
(あー飲み込まれちゃったよ)
不安と恐怖で感情が振り切れないのは防御壁のお陰なのかは知らない。あるいは彼女は未だこれは夢だからと言い聞かせているせいかもしれない。
どちらにせよ、パニックにならずに諦めた様子で視界を黒で塞がれた彼女は、淡く発光する防御壁の明かりだけを支えに目を閉じた。
(防御壁さえ消えなければ何とかなる。大丈夫大丈夫)
飲み込まれたとは言っても消化されなければ問題は無い、と口に出して自分を落ち着かせた彼女は目を瞑ったまま楽しいことだけを考える事にした。
あの時と同じように、鼻歌を歌い嘲笑する鳴き声に対抗する。
(あ、そうだ)
新譜が入ったのだったと大きく頷いた彼女は、最近覚えたばかりの歌を口ずさみ目の前は満天の星が降る綺麗な景色だと繰り返し自分に言い聞かせていた。
アロハシャツを着たお茶目な老人の声を思い出し、なぞる様に口ずさむ。
噛まないようにと気をつけていた彼女は、自分が思っていたよりもスラスラと発音できる事に驚いて笑みを浮かべた。




