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54 心配

 温かくて柔らかい。石鹸と花の香りが混じった匂いは懐かしいと思ってしまう。

 そんなに昔の話ではないのにと苦笑しながらコスモスは自分を抱き締める存在に声をかけた。

「ただ寝てただけだってば。大丈夫だから」

 優しく声をかけるも少女は動く気配をみせない。コスモスが視線を隣へ向ければウルマスは困ったようにしていた。

 アジュールは新しくできた寝床が気に入ったらしく、珍しくコスモスの傍にはいない。

 ケサランとパサランは心配するようにコスモス達の周りをぐるぐると回っていた。

「……」

 ぎゅう、とコスモスを抱きしめる力が強くなる。

 少女は何も言わずにただ目を瞑って大切な彼女を潰さぬよう抱え続けていた。少女がいくら力を込めたところでコスモスは痛くはないのだが、心配している感情が伝わって申し訳ない気持ちになる。

 彼女が熱くならないように防御壁を纏い、コスモスは宥めるように少女へと声をかけた。

 優しい声で機嫌をとるような言葉をかけても彼女は微動だにしない。

 いつもの彼女らしからぬ行動に困り果てたコスモスは、少女の兄へと視線を向け呼ぶ。少し離れた所で妹の様子を見ていたウルマスは驚いたような顔をしたものの、困惑した声の響きを聞いて苦笑した。

「ソフィー。姉様も困っているからそろそろ離してあげたら?」

「……」

 少女はかぶりを振って抱えている存在に頬をつける。伝わってくる温かさに瞑っていた目に力を入れ、彼女は唇を噛み締めた。

 ただ疲れて眠っていただけだと聞いた。

 けれども胸騒ぎがしてどうしようもなかったのだ。周囲に詳細を聞くも思っていたような情報は得られず、直接教会に来てマザーから話を聞いても笑顔で安心するようにとしか言われない。

 その言葉を信じていないわけではないが、細く繋がった絆がプツンと切れてしまったような気がしてソフィーアは眠れぬ日々を過ごした。

 力を使い過ぎて疲労しているとは聞いたがそんなに疲労するほど何をしていたのか、と気になってしまう。けれども儀式が終わってからコスモスとの関係も変わってしまっている自分が踏み入れない領域だというのもソフィーアは理解していた。

 期間限定で、成人の儀を無事にやり過ごす為だけに助力を願った存在。

 知識豊富な人格者で世界的にも名の知られているマザーが大丈夫だというのだからそれで納得できれば良かったのだ。

(あの人があんな事を言うから)

 もぞもぞ、と抱えている腕の中で身じろぎをするコスモスに頬を当てたままソフィーアはゆっくりと目を開けた。大きな火の玉は以前と変わらずそこにある。

 心配そうに自分を窺っているのが判り、何故だかソフィーアは嬉しくなった。

「姉様は大丈夫だってマザーが何度も言ってたじゃないか。僕だって言ったよね? 姉様なら大丈夫だって」

「……でも」

 いつもなら聞き分けが良く滅多に我儘を言ったりしない。言ったとしても我儘とは言えないくらいの可愛らしい要求だ。

 これ程までに頑なでコスモスを離そうとしない妹の様子を見ていたウルマスは苦笑して首を傾げた。

 ゆっくりと彼女の傍に近づいて目線を合わせるように屈む。

 ぺたんと床に座り込んだ良家の子女らしからぬ格好をしているソフィーアの名前を優しく呼んでも彼女は返事をしない。嫌だとでも言いたげに眉を寄せて無言の抵抗だ。

 ウルマスにはコスモスの姿が見えないが、妹が透明な球体を抱えているのだろうというのは見て判る。

 その様子からこのくらいの大きさなのかとウルマスが手を伸ばし、球体がある場所へと触れようとした。


パシッ


「……」

「……」

 しかし、手はすり抜けることも接触することも無くコスモスに近づく寸前で叩き落とされる。しなやかで綺麗な手を叩いたのは彼よりも小さくて華奢な手だ。

 驚いた様子で目を丸くするウルマスは目に力を入れて睨んでくる妹についつい笑ってしまう。

「ソフィー。姉様は君のものじゃないよ? 君が敬愛する素敵な人だろう?」

 離れて暮らしているうちに随分と大人びたと思っていたがどうやらそれは上辺だけだったようだと彼は安心する。こうして幼い顔を覗かせる辺りまだ彼女は自分の可愛らしい妹のままなのだ。

 これが親しい者だからこそ見ることのできる素顔なのは判っているが、だからと言っていつまでもこのままという訳にもいかない。

 会議があるからと執務室に主であるマザーの姿は無いが、好きに寛いでくれて構わないと許可を貰っていた。部屋の外にいる神官兵も心得ている様子で何も言ってはこない。

(これがイスト兄なら、デレデレして好きにさせるんだろうけどさぁ)

 長兄であるアルヴィの言葉ならば一発で効くのにと思いながらウルマスは兄を呼んでこようかとも考えた。

 しかし職務で忙しい彼の貴重な時間を割いてまで呼ぶまでもない。

 ソフィーアに何かあったのならば話は別だが、妹の我儘に手を焼いているからという理由では申し訳ないだろう。下手をすると父親や次兄に仕事の邪魔をするなとお小言を貰ってしまう。

 もっとも、次兄の場合は何故自分を呼ばなかったのかという完全な八つ当たりだろうが。

(頼んだら来てくれるのは分かってるけど、悪いよねぇ)

 どんな理由でも面倒見が良く優しいアルヴィなら苦笑しながら来てくれることだろう。どれだけ忙しくても余程のことがない限りは時間を割いて来てくれる辺り、結局彼も歳の離れた妹を大層可愛がっているという証だ。

 ウルマスは小さく唇を尖らせながら顔を背けるソフィーアの頭に触れ、優しく撫でる。

 それでも彼女は動く事なく球体をしっかり抱え込んだままだ。時折もぞもぞと動くのはきっとコスモスが居心地悪くしているせいだろうとウルマスは笑みを浮かべた。

「ソフィー」

「……」

「無言じゃ分からないよ?」

 自分の意見が通らなかったり譲れないものがあると決まって彼女は無言になる。せめて何か言ってくれれば対処ができるのだが無言では困ってしまう。

 それを判っているのかいないのか、ソフィーアはちらりとウルマスへ視線をやってすぐに逸らした。

(困ったね。姉様はペットじゃないんだけど……)

 妹が抱えている存在は精霊ではないが似たような存在だ。

 マザーの娘だと言うのにこんな扱い方をしていいものかと顔を青褪めさせてしまうところだが、彼女たちは親子そろってあまり気にしない。

 可愛い子ならば許す、というコスモスの言葉を思い出してソフィーアの頭を撫でていたウルマスは長期戦になりそうだとその場に腰を下ろした。

「怖いんです」

「ん?」

「……コスモス様が、いなくなってしまうのではないかと思って」

 ここ最近彼女の眠りが浅い事に気づいていたウルマスはその言葉で推測が確信に変わったと頷く。

 ゆっくりと顔を兄の方へ向けて、小さな声で話し始めるソフィーアは震える手でそっと自分が抱いている存在を撫でた。

「ソフィーア姫。私意外と頑丈だから大丈夫よ?」

「そうだよ。姉様は姉様自体が凶器になりうるくらい頑丈なんだから。相手は粉砕しても姉様は残るから平気だよ」

「ウル兄様!」

「……君の私に対する認識がよく分かった気がするわ」

 優しく声をかけるコスモスに同意するようにウルマスも熱く語る。どれだけコスモスが強いのかを語ろうとしたのだが何故か彼女の耐久度の話になってしまった。

 流石に言い方がまずかったとウルマスが思った瞬間に、声を荒げる妹の顔に身を引き、溜息交じりの呆れた声に「そんな事ないって」と繕うような笑みを浮かべた。

(間違ってはいないと思うんだけどな)

 ついうっかり口を滑らせてしまったかと笑顔で謝罪するが妹の非難めいた視線が変わる事はない。申し訳無さそうに頭を下げて謝ればその表情が少し和らいで、ウルマスはホッとした。

 天使の顔で悪魔の所業をする彼もやはり妹に嫌われるのは辛い。

 コスモスの場合は「しょうがない」と許してくれそうなのである程度の毒を吐いても許されると思っているらしいが。

「久しぶりの練習だったから、ちょっと勝手が分からなくなっただけよ」

「……けれど」

「良くあるって。気にしすぎだよソフィー」

 随分と寝ていたせいで力の使い方を忘れた、と聞くものが聞いたら驚愕しそうな事を淡々と告げるコスモスにウルマスはつい笑ってしまった。

 いくら長く寝ていたと言ってもその位は覚えているはずだろう、と彼は思う。魔力を持ち、ある程度使える者にとって魔法というのは近しい存在だ。

 だから忘れるというのは想像できない。

 最初から使えないというのならば話は違うが。

(けろっ、として言うんだもんなぁ。姉様)

 物忘れが酷いのは歳のせいだろうと笑顔で言っていたマザーを思い出していたウルマスは、妹を宥めるコスモスの声を聞きながら頬杖をついた。

 さらり、と癖のない金髪が揺れて緑目が優しく細められる。

(忘れたとかって、姉様は面白いなぁ)

 一体どのくらい寝れば魔法の使い方も忘れてしまうんだろうか。

 そんなウルマスの疑問に「忘れた」とあっさり返したコスモスを思い出し、彼は小さく笑う。

(マザーの娘で、精霊魔法が使えるのに魔法はろくに使えない、と)

 気になる事はたくさんあるがそれを聞いてもいいくらいに親しいわけでもない。土足で踏み入るような真似はウルマスも嫌なので、彼は何も問わず妹とコスモスのやり取りを聞いていた。

「ね? ソフィー」

「……私、こちらに移ります。一両日中にでも移ります」

「ソフィー。急にそんな事言っても困るだろう?」

「マザーにお願いします」

 上体を起こしたソフィーアからやっと解放されたと溜息をついたコスモスは、緩んだ両腕の拘束にふわりと浮かんで流されるようにウルマスの元へと移動した。

 小さく声を上げて手を伸ばしたソフィーアが彼女に触れる前に、コスモスはウルマスの膝の上に収まる。

 妹の視線から自分の足の上にコスモスが移動した事を知ったウルマスは、悔しそうな妹の表情を見つめながら首を傾げた。

「お願いしてどうするの。父様や兄様たちにも説明しなきゃいけないだろう?」

「それは……説得します」

「無理だったのに?」

「それでも、頑張ります」

 生まれ育った家にいるのがそんなに嫌なのだろうか。

 彼女の幼少時を思い出していたウルマスは不思議そうに眉を寄せながらも、胸の前で拳を握って決意したように上唇を噛む妹を見つめた。

「襲撃のことならもう心配しなくてもいいよ? 警備は増強したし、マザーからシールドも張ってもらったから」

「……それは、違います」

「姉様がいるのはここだから?」

 ならば彼女がここまで教会に拘るのは一つだとウルマスが自分の足の上に乗っているらしい存在を指差せば、面白いくらいに華奢な体が跳ねた。

 視線を斜め上に向けながら彼女はもごもごと口を動かす。

「姉様好きなのは分かるけど、ソフィーにはソフィーの仕事もあるだろう?」

「!」

 ずるい言い方だとは分かっているがこうでもしないと彼女は引かないだろうとウルマスは笑顔で問いかける。他の兄弟より彼女と歳が近く、お目付け役も兼ねて一緒にいる事が多いウルマスは俯いてしまうソフィーアを見て目を細めた。

 さらさら、と綺麗な銀髪が彼女の表情を隠してしまう。

「でも、私の仕事は……」

「教会に身を捧げるのが悪いって言ってるわけじゃないけど、アレクはどうするつもり?」

「……私には勿体無い方ですし」

 互いに憎からず思っているというのに何故その優しさを自ら捨てようとするのだろうかとウルマスは溜息をつく。幼い頃から一途で離れていてもまめに手紙を書くほど彼女の事を大切に思ってきたアレクシスの事を思うと、ウルマスの胸は痛んだ。

 ウルマスにとってアレクシスは既に自分の弟と言ってもいいくらいの存在だ。

 屋敷にいた二人が襲撃されたと知った時も、アレクシスが一緒ならば大丈夫かとつい安心してしまったくらいである。

「そうやって逃げるの? アレクに直接そう言える?」

「逃げてなどいません! それに、話せばきっと彼は分かってくれます」

「そうかなぁ」

 純粋に育て過ぎたかと真っ直ぐな瞳を向けてくる妹に嫌な笑顔で返しながらウルマスは自分の足の上に乗る存在に視線を落とした。

 先程から黙ったままなので本当にそこにいるかどうかが怪しいのだが、ソフィーアの視線を見る限りやはり自分の足の上にいるのだろう。

 ほんのりと膝の上が温かいのを感じながらウルマスは妹を見つめる。

「分かってくれなかったら?」

「え?」

「分かってくれなくて、不履行だって訴えられたらどうする?」

 優しく物分りの良い“弟”ならば辛くとも己の気持ちを押し殺して笑顔で妹の判断を応援するだろう。彼に足りないのは強引さだと胸の内で呟きながらウルマスは表情を曇らせる妹へ目をやった。

「あの、さ……ゆっくり考えたら?」

「姉様?」

「私が口出す問題じゃないのは分かってるけど、納得行くまで話し合わないと後が辛いと思うよ? ソフィーア姫」

 家庭内の問題には立ち入れないと理解しているコスモスだが、仲の良い兄妹が険悪な雰囲気になるのは避けたい。だからソフィーアに答えを急ぐなとやんわり告げれば、少女は小さく頷いた。

 完全に納得していない表情ではあったが、じっくりと話し合うと告げられた言葉にコスモスは笑みを浮かべる。

 そんな妹の様子を見ていたウルマスはわざとらしく溜息をついた。

「姉様が言えば大人しく聞くなんて……次からもお願いしようかなぁ」

「えー。それは貴方たちの役目でしょう」

 自分の立場が無いとばかりに拗ねた響きで告げるウルマスに溜息をついて返すコスモス。二人のやり取りを眺めていたソフィーアは頬を緩ませて可愛らしく笑った。




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