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 どこまでも広がる大きな海は自分が知っているものと少し違う。

 地平線は見えてもその先は無いとサンタに言われたからだろうかと首を傾げ、コスモスは小島を散策しながら彼に言われた物を採取していた。

 夕飯に使うからと言われれば協力せざるを得ない。

 早く戻りたいという彼女に対し、そう急ぐ事も無いだろうと告げる老人の意図がさっぱり読めずコスモスは視線を落としてアジュールに尋ねた。

「もしかしてサンタさん、私の事狙ってるとか無いわよね?」

「……」

「うん、ごめん。一応私も乙女だし? ちょっと確認ていうか……ごめん、ひどい冗談だったわ」

 身の危険を軽く感じたのだが、アジュールに馬鹿にしたような顔をされると自分の考えは間違っているのだとコスモスは思う。

 確かにサンタは人が良く、朗らかで人畜無害そうな雰囲気を醸し出しているがその本性は判らない。危険視するのは当然だろうと言い訳を呟いていると呆れたように溜息をついたアジュールが彼女を見上げた。

「ならばマスター。貴方はそれほど危険視している相手の手料理を馬鹿みたいに食べるのか? 毒が入っているかもしれないのに?」

「あ……」

「第一、彼の趣味じゃないと思うのだが。失礼だろう?」

 失礼な物言いにカチンとくるが正論なので何も言えない。

 サンタから見ればアラサーとは言え充分若いというのに、魅力が無いのかとコスモスが変な反論をすればふくらはぎに噛み付かれた。

 ジーンズの上から甘噛みされて「痛い」とコスモスは彼の頭を叩く。

「面白い、興味深い対象という意味で手厚く歓迎しているというのはあるかもしれないが」

「まさか……マザーじゃあるまいし」

「確かにあの老婦も食えぬ存在だからな。まぁ、マスターが心配するような事にはならないと思うが」

 アジュールの言葉に頷きながら彼がマザーを酷く警戒していた事を思い出す。マザーの方はにこやかにして毛を逆立てる彼を見つめていたのだが。

 ああいうタイプが苦手なのかと聞いてみればアジュールは嫌そうに溜息をついた。

「得体が知れぬ。マスターに危害を及ぼすかもしれんと判断しての事だ」

「私はマザーのムスメなんですけどね。一応」

 一時凌ぎという事でそういう肩書きになったはずなのだが、周知されるにつれて引き戻せないところまで来ているのではないかと最近コスモスは感じていた。

 いざとなればまた眠りに入ったという事にしてもらおうかと考えながら、渋いアジュールの声を聞く。

「それにしても、私はマザーにそんな気配は一切感じたことはないけど……相性悪いのかしらね?」

 コスモスがマザーの娘となる前。

 初めて異世界に飛ばされた時の事を思い出しながら彼女は小さく唸る。教会内で会ったマザーは人の良い上品な老婦で嫌な感じは全くしなかった。

 怖いと感じた事も無ければ、不快感を抱いた事もない。

 しかし、そんなコスモスとは対照的に未だアジュールはマザーの事を警戒する素振りを見せている。どこにいても常にコスモスの傍を離れぬのは最初は主従だからと思っていた彼女も、最近はマザーの事を気にしてなのかと思うようになった。

 アジュールと会話できないのでそれを知る術は無かったのだが、今はこうして普通に話せている。

 コスモスがこの場所で人魂ではなく、元の世界にいた時と同じように肉体を持って動いているのと同じように当然とばかりに人語を話すアジュールに驚いたものだ。

 這いつくばりながらコスモスが金貨を取るのに必死になっていた時に、部屋のドアを突き破って現われたアジュールの声は今思い出しても渋くていいものだった。


『マスター!』


 とても焦って心配した様子の声で呼ばれては、その声の良さと敬称にコスモスの乙女心がキュンとしてしまう。

 ただ、みっともない場面を見られて恥ずかしい状況ではあったが。

 自販機で小銭探しをしている様だなと思いながらコスモスは違うのだと必死に言い訳をする。埃まみれのコインを手にして、拾っていただけだと慌てながら告げる彼女に、アジュールは顔を引き攣らせていた。

(あれは、タイミングが悪過ぎたわ。うん)

 アジュールが喋った事よりも自分の立場を守るだけで精一杯だったコスモスは、溜息をついた彼にガリガリと腕を噛まれてそれどころではなくなった。

 ベッドから落ちた音で何かあったのではないかと思って駆けつけたのだと姿を現したサンタに言われ、彼女はだらしない顔で笑ってしまう。

 心配してくれたのかとニヤニヤ笑うコスモスに、不機嫌そうなアジュールは前足で彼女を叩いて低く唸った。

「それにしても驚いたわよ。まさかアジュールまで来るとは思わなかったし、喋るし」

「そう驚く事でもない。マスターがいる所に私はいる。何も変ではないだろう?」

「え……あぁ、まぁ……そう言われれば?」

 どう考えても立場が逆のような気がしてならないと複雑な心境になりながら、コスモスは野草や果物が入っている籠を隣に置いて砂浜に腰を下ろす。

 サンタは鳥を射止めてくると爽やかな笑顔で言っていたので暫くは戻らないだろう。

 そう考えていたコスモスだがあの老人であれば瞬殺かもしれないと背後に広がる森を見つめる。籠を置いた反対側に座ったアジュールは、ぴったりとコスモスに寄り添うようにしながら伏せた。

 寄せては返す波の動きに彼の尻尾がゆらりと揺れる。

「初めて会った時もここだったものね。当然て言えば当然か」

「……」

「え? 何?」

「いや、マスターがそう思っているならばそれで良い」

 じっと赤の双眸に見つめられたと思えばすぐに逸らされる。驚いたように瞳孔が開く様を見つめていたコスモスはてっきり噛まれるかと思っていたので拍子抜けしてしまう。

 前足を舐めて毛づくろいしているアジュールを見ながらコスモスは彼に言われた言葉を反芻していた。

 何かが引っかかるがそれは何なのかと眉を寄せ、独り言のように口を開く。

「貴方と会った場所と、ここは違う?」

「……そうだな」

 コスモスの言葉にアジュールの動きが一瞬止まるが、彼は何でもないようにそう呟いた。場所の違いに何かあるのかと考えても良く分からない。

 アジュールと出会った時のコスモスは目を瞑ったままだったのでどんな光景だったのかは知らないが、それ以外の部分で違いを感じられなかったのもまた奇妙な話だ。

「似てると思うんだけどな。あのとき意地張ってないで起きれば良かった……」

 今回のように綺麗な光景を見ることができたのなら、どうして頑なに目を閉じたままだったのかとコスモスは自分の行動を悔いる。

 最後の辺りはほとんど意地で瞑り続けていたのだが、アジュールに今回とは違うと言われると興味がわく。どこがどう違うのか比べる事もできない彼女はつまらなそうに唇を尖らせた。

「起きられないと思うのだがな。恐らく」

「えー?」

「あまりにも心地良過ぎて、目覚めを嫌っていただろう」

「そんな素敵な場所だったの? うわー惜しい事したわ」

 ただの夢だからというので片付けてしまったのがいけなかったのだろうかとコスモスはアジュールの背を撫でながら溜息をつく。

 一体どんなところだったのだろうと妄想してみたコスモスだが、今回と同じ光景しか思い浮かばずに唸り始めた。

「ここと、前のところとどっちが良かった?」

「それは人によるのではないだろうか。私はマスターの傍にいられるのならば、どちらでも良い」

「ぐっ……」

(何と言う殺し文句! まさか獣に言われる日が来るなんて)

 アジュールの言葉は主従の契約からくるものだというのは良く分かっているコスモスでも、やはりときめかずにはいられない。

 相当飢えているのか、と自己嫌悪に陥りつつ溜息をつくアジュールの背中を彼女は軽く叩いた。

(ああ、やだ。チョロイな、私)

 これは都合のいい夢ではなかろうかと頬を抓りながら反対の手をアジュールの口元へ持ってゆく。いつものように甘噛みをしてくれたらその痛みに夢か現かの判別がつきそうだったからだ。

 しかしコスモスの思い空しく、目の前に手を差し出されたアジュールはガブガブと甘噛みをする。

(甘噛み、か)

 流石に「もっと強く噛んでください」とは言えなかったコスモスは、前足で軽く自分の手を固定しながら掌を舐めるアジュールに心の中で突っ込みを入れる。

 そんな声が聞こえるわけのないアジュールはある程度気が済むまで噛み終わると前足で振り払う。

 獣とは言え、自分の好みに当てはまる要素をいくつか持っているだけでこれだけ違うのかとコスモスは彼とクオークを頭の中で比べた。

 前者が親しみやすく傍にいても何ら不快を感じる事はないのに対し、後者は姿を見るだけで全力で逃亡したくなる。

 避けたい相手としてすぐに頭に浮かぶのはクオークだ。

 間一髪で簡易契約をせずに済んだが、諦めていない様子の彼には頭が痛い。

 忘れてくれるのが一番だがそうもいかないだろうと彼女は溜息をついた。

 万が一契約してしまっても、主たるコスモスは絶対なので逆らって研究素材にしたりすることはないだろうとマザーは言っていた。

 第一、簡易契約をしたいと言う時点で異常だと呆れていたマザーの表情を思いだしコスモスは首を傾げる。

(メリットないのにね。自分に不利な条件をつけてまで契約したい理由って研究とかの他にあるのかな)

 できれば考えたくないが、心に留めておいたほうがいいだろうと一人頷いた。

 尻尾で砂浜を叩くアジュールは波音に耳を傾けながら目を伏せている。

(そう言えば、契約があるとは言えアジュールが大人しく私に従ってる理由も良く分からない)

 慧眼を習得した彼女がそれを使ってアジュールを“見た”ところ、彼を覆う黒い靄のようなものは薄くなり最低限ではあるがその霊的活力オーラを確認する事ができた。

 その時の事を思い出していたコスモスは痛みにハッとする。

「マスター。人の話を聞いていたか?」

「ごめんごめん、ちょっと違う事考えてた。何?」

「だから、私以外に従属する者がいるのかと聞いたのだ。いるのならばその者の事を詳しく教えてもらいたい」

 アジュールのその言葉にコスモスは他に使い魔はいないと答えた。

 ケサランやパサランを初めとした精霊のことならばアジュールも知っているので除外する。

 自分と簡易契約を望む変人がいるということと、自分が異世界人ということ、ソフィーアの異常体質も話して反応を窺ったコスモスだが、アジュールは大して驚いた様子も無く静かに聞いていた。

「分かってると思うけど私の正体と、ソフィーの事は内緒ね? マザーに口外禁止されてるから」

「分かっている。というよりも、分かっていた」

「は?」

「どちらも既に理解していたと言っている。マスターに害を為すような事も、マスターが大事にするあの娘を陥れるような事もするつもりはない。もちろん、あの老婦人にもそれなりに敬意を払おう」

 その言葉は信じてもいいものかと暫し見つめ合ったコスモスは、探るように赤の瞳を覗き込みながら小さく頷いた。凛々しい顔立ちに、濁りの無い瞳。

 声は相変わらず渋くて、その響きは真面目そのもの。

「第一、私がマスターに逆らえるわけがない。私は貴方に隷属すると決めた。自らの意思で、従うと決めたのだ」

「うーん、アジュールの方がどう見ても強そうなのに?」

「実際の強さとはそれだけではない。出会いの時に感じた衝撃はいつまでも忘れぬだろうな」

「衝撃、ねぇ」

 名前を欲してつけてもらった喜びと、彼女のその存在にアジュールがどれだけ歓喜していたのかコスモスは知らないのだろうと彼は小さく笑った。

 彼の他にも同じように彼女に従いたいというものは多数いたのだが、それらを蹴散らして自分が今彼女の傍にいる。

 雁字搦めにされた戒めを食いちぎり、纏わりつかせながらも必死になってたどり着いた自分だからこそこの場にいる権利があるのだとアジュールは誇らしげに顔を上げた。

「良いのだ。マスターが何も不思議に思っていないのならばそれで」

「はぁ?」

「目に見えぬ方が良いときもある」

「うーん」

 アジュールもまた自分が知らないことを知っているのかとコスモスは納得していない声を上げて首を傾げる。何もかも見透かしているようなサンタにしろアジュールにしろ、置き去りにされているのは自分だけかと彼女は溜息をついた。

(ああ、もしかしたらマザーもかな?)

 いいように扱われているのはコスモスも理解している。

 帰還する為の情報を得るためと言いながら、本気で抵抗していないのだからそれは自分が悪いと分かっている。

 なんとなく色々な事を隠されているなと勘付いてはいたが、自分が知らないことを他人ばかりが知っていて取り残されてしまうのは悔しい。

 聞いたからと言って何ができるわけでもないだろう。何もできないと考えるのが普通だ。

 厄介事に巻き込まれたくないからと逃げ癖がここにきて裏目にでているのか、と思いながらコスモスは眉間の皺を指で揉む。

「聞かない方がいい事?」

「いや、別に。マスターが知りたいのならば教えるが、後悔はしないでほしい」

(覚悟が無いなら聞くなってか。何にでも当てはまるわよね、それ)

 ぐりぐり、と揉み解しながらコスモスは唸り続ける。嫌な事が待っていると判っていて聞くべきか、知らなかったことにして蓋をすべきか。


『足掻くのも良いがの。目を瞑って見ないようにしても、逃げても、避けられぬものはある』


 サンタに言われたことを思い出したコスモスは大きく溜息をついて眉間を揉む指に力を込めた。

 先延ばしにして逃げていても、いつかは追いつかれる。

 早いか遅いかだけの話だ。

 ここでこんな話になったのもきっと何かの縁だろう。

 覚悟を決めろ、ということなのかもしれない。

 こうしてこの場所にいるのも、そういうことなのかもしれないと考えながら、コスモスは深呼吸を繰り返す。

「教えて。アジュール」



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