48 さんた?
寄せては返す波の音。
その音を聞いているだけで心が安らぐのは何故なのか。
(ヒーリングサウンドってやつね)
目を開けたコスモスはぼんやりとしながらその音を聞く。そして、自分が水の中にいない事に気づいて目だけを動かした。
「はぁ……」
水面に浮かんで流されていた時の方が楽だと寝返りをうつのですら苦労しながら息を吐く。
見たことの無い天井、室内。
個室の寝台で体を横たえている状況を確認しながら彼女はずり落ちそうになっていたタオルケットを掴んだ。
「おや、起きたかね」
横になったまま足でタオルケットを広げてもう一眠りしようと思っていたコスモスは、背後から聞こえてきた声に動きを止める。
背後にあるのは開けられた窓。温かい風が時々室内に入っては優しく彼女の頬を撫でてゆく。潮の香りがすれば南国リゾートかと気分も上がるのだが匂いはない。
無視して狸寝入りをしようかと思った彼女は、去る気配のない窓辺へ仕方なさそうに顔を向けた。
レースのカーテンがヒラヒラと風に揺れているその向こう側で、人の良さそうな顔をした老人がニカッと笑みを浮かべる。
(サ、サンタさんっ!?)
髪、眉毛、長い髭は綺麗な真っ白でふさふさとしている。
そんな白髪に埋もれるように小さな目が眼鏡の奥で細められていた。
半袖アロハシャツを着たサンタは綺麗にカールしているカイゼル髭を指先でちょんちょんと弄りながら「ふむ」と呟く。
その様子を見ながらコスモスは、真夏のサンタはこんな感じだった気がすると前にテレビで見た南半球のクリスマスを思い出していた。
サングラス、アロハシャツに赤い半ズボン、足元はビーチサンダルでトナカイの代わりにサーフボードを持っているサンタクロースのお土産品。
茶目っ気があって可愛いなとは思っていたが実際目にする事になるとは、と彼女は大きく瞬きを繰り返した。
気だるかった体を起こして様子を窺っていたコスモスは、桟に止まっていた幸福の蝶を見つけて小さく声を上げる。ゆっくりと羽ばたく蝶は、その声に反応するようにふわりと舞い上がり彼女の前髪に止まった。
「あの、何だかお世話になったみたいで。すみません」
「いやいや。釣りしてたついでだから気にせんでくれ」
(釣り?)
先程まで心地よい水の流れに身を任せ眠りに落ちていたのは覚えている。溺れているのかと思って助けられたのだろうかと考えていたコスモスは「はっはっは」と笑う老人の言葉に首を傾げた。
(魚はいなかったはずだけど……)
流れているのは自分だけで魚の姿は元より、他に生物の気配など感じた事がなかったからだ。
(……太公望ってか)
サーフボードでも抱えていたら完璧だったと勝手な事を思いながらコスモスは自己紹介をしようとして躊躇う。名前を無闇に告げてはいけないとマザーから注意されていた事を思い出したからだ。
それに彼女の祖母も同じ事を良く言っていた。
(魔よけと防犯なんだろうけど)
「ええと、ただの女です」
どう言うべきかと考え、出てきたのは結局それだけ。
あまりにも酷い自己紹介の仕方にコスモスが自分でも顔を歪めていると、そんな彼女の反応が面白かったのか老人は楽しそうに笑っている。
もじゃもじゃの白くて長い顎鬚を手で撫でながら彼は軽くウインクをした。
「ハッハッハ。そうかそうか、警戒しておるのか。よしよし」
「……はぁ」
何が良いのかさっぱり判らないのだが機嫌を損ねたわけではないらしいとコスモスはホッとする。胸を撫で下ろして体調を気遣ってくれる老人に、気だるいだけでどこも怪我はしていないと告げれば意外そうな顔をされた。
眼鏡の奥の瞳が細められると、何もやましい事はしていないのに身が強張ってしまう。
ただ見つめられているだけだというのに全てを見透かすかのようなその青い目に、コスモスは思わず自分自身を抱きしめるように腕を交差させてしまった。
体を傾けて視線から逃れるようにしていれば、それに気づいた老人が大きくずれた眼鏡を直して「おやおや」と呟く。
「これはすまんなぁ。ちと、セクハラじゃったか」
「せ、セクハラ!?」
何をした、と尋ねたいが答えが怖いので聞かないことにしてコスモスは眉を寄せた。
老人は柔和な笑みを浮かべて「ふぉっふぉっふぉ」と一人楽しそうに笑ってばかりだ。
前髪に止まった幸福の蝶はくるりと向きを変えて頭頂部辺りで止まる。そのこそばゆさにコスモスが口をもごもごさせていると老人が窓から腕を出してきた。
「?」
「ほれ。これでも見て癒されなさい」
手に握られていたのは小ぶりの貝だ。
細長く、表面はつるりとしていて薄い桃色がかっている可愛らしい見た目の貝だった。老人の顔を窺いながらその貝を手に取ったコスモスは、まず中身があるのかと光に透かし、コンコンと軽く叩いてみる。
それを見ていた老人は「空じゃ」と穏やかに告げて訝しげに貝を見つめるコスモスの様子を眺めていた。
(貝を見て癒される? いやいや、私そんな乙女じゃないし……いやしかしここはせっかくの好意だから)
「ありがとうございます」
とりあえずお礼を言ってからコスモスはどうしたものかと手の中にある貝を見つめた。確かにコレクションに加えたくなる一品ではあるが、残念ながら癒されはしない。
「耳に当ててごらん?」
「あぁ、はい」
波の音でも聞こえてくるのだろうかと恐る恐る貝を耳元に近づける。
眉を寄せて貝に意識を集中していたコスモスは、驚いたように目を見開き「え?」と困惑したような声を上げた。
貝と窓辺にいる老人とを見比べて、何度も貝を耳に当て直しては不思議そうに首を傾げる。
「何ですかこれ……えぇ?」
「面白いじゃろ?」
「面白いというか、綺麗ですけど」
穏やかな波の音に混じってシャラシャラと耳慣れぬ音が聞こえてくる。貝から耳を離すと何も聞こえないので、離したり取ったりを繰り返しながらコスモスは貝をもう一度光に透かしてみた。
内部の様子が透けてしまうくらいに薄い表面は、よく見ると細かな凹凸がある。指で触ると滑らかなので気づかなかったと思いながら彼女は指先で貝を軽く叩いてみた。
コンコン、と鈍い音は最初に確かめた時と同じだ。
「?」
しかし、表面を軽く叩きながら貝を耳に当てるとまた違った音が聞こえてくる。
ざわざわ
ざわざわざわ
まるで誰かが会話しているようなそんな音に耳を澄ませ、コスモスは何とか聞き取れぬものかと粘ってみた。
(二人、三人? いや、もっといる?)
何重にも重なる話声は聞いたことのない言語も混ざって一つの音楽のように感じる。
自動翻訳の恩恵に与っている自分が聞き取れない言語もあるのだなと思いながら、コスモスは響いてくる声に意識を集中させた。
「よ……ど、けいか、うまく?」
重なり合う言葉の内、ちゃんと聞こえる声を追うように口を動かしていたコスモスだがさっぱり意味が通じない。意味などないのだろうかと耳から貝を離した彼女は大きく息を吐いて、手にしていた貝を眺めた。
「おや、随分と耳の良いお嬢さんだ」
「え? いや、そんな事は」
「いやいや」
何か試されたのだろうかと老人の反応を窺いながらコスモスは小さく唸る。そんな彼女の様子を見ていた老人は桟に両腕を置いて「どっこいしょ」と掛け声をかけながら外にある椅子に座った。
白木の椅子は座りやすそうに丸みを帯びており、長時間座ってもお尻が痛くならないようなクッションが敷かれている。
「あぁ、そうだ。私は一体どうしてここにお世話になってるんでしょう?」
「それは最初に言ったはずじゃ。釣りのついでだと」
「あ、じゃあ私は釣られたんですね」
根がかりのようなものか、と自分を例えるコスモス。
「釣ったというか、見つけて掬ったんじゃがな。これで」
「すみません……ってタモかよ!」
大きな玉網を掲げて見せた老人に、申し訳無さそうに謝っていたコスモスが驚いたように大声を上げる。確かに釣るよりは簡単で確かだろうが、網で掬われたというのを想像すると情けない。
人魂の姿ならばそちらの方が救いやすいのは確かだが、複雑な心境になる。
思わず突っ込んでしまった彼女の反応を楽しそうに見つめながら、老人は玉網を隣に立てかけて窓越しに彼女との会話を続けた。
「しかし、珍しいもんじゃの。あんなところに流されて自我を持ってるとは」
「うーん……そんなにおかしいですかね」
夢じゃないのか、と嫌な推測を胸に抱きながらコスモスはなるべく表情に出さぬよう首を傾げる。
また違う場所に来てしまったのかとこめかみを揉んで彼女は諦めたように溜息をついた。鮮明過ぎる夢は疑えとこちらに来た経験を元に自分に言い聞かせていたというのに、実際こうなってみるとどう対処していいか判らない。
目覚めればいいのだろうが、夢現の判断が上手くできないのだ。
不思議な音が聞こえる貝を枕元に置いてコスモスは穏やかな笑みを浮かべる老人に笑い返す。
「そりゃあおかしいのぅ。まぁ、稀にある異常かもしれんがの」
「せめて、例外とか言われた方がまだこう感じ方が違うんですけど」
きっぱりと異常と言ってしまわれたら頭を抱えたくなってしまう。そんな事をした所で何の解決にもならないのは分かっているが、異常続きの彼女にとってこれまで以上の異常事態は避けたいのだ。
しかし老人はそんな彼女の心情を知ってか知らずか、暢気に「異常は異常じゃからなぁ」と呟いている。
「直感というのは馬鹿にできんぞ」
「う……でも」
窓から見える外の景色へと目をやりながらコスモスは頭を左右に振った。
青い空、穏やかな太陽の日差しに白い砂浜と澄んだ綺麗な水を見て何もかも忘れてしまいたい。
老人のように軒下で椅子に座りながらビールを飲み、南国リゾート気分を味わえたらどんなに素敵なことか。
(ノンアルコールでもいけるわ)
そんな事を思いながら再び寝てしまおうかと彼女はシーツの皺を伸ばすと、枕をポンポンと叩いた。頭頂部にいる蝶に声をかければ彼はひらりと舞い落ちて枕元にある貝へ止まる。
「それに寝たところで、きちんと覚めるかの?」
「夢はいつかは覚めるものでしょう?」
「さぁてな。それが、夢であるならば……の話じゃが」
随分と嫌な言い方をしてくれる。
まるで夢ではないみたいではないか、と薄々感じながらも考えないようにしていた事を指摘されたコスモスは渋面になりながら頬杖をつく老人を軽く睨んだ。
勝手にやったとは言え助けた相手に睨まれてしまった老人は、わざとらしく驚いた表情をしながら肩を竦めて笑みを浮かべた。
何でもお見通しですよ、という表情に溜息をついたコスモスは悪あがきをするように体を横たえる。
「怖いこと言わないでくださいよ」
「……夢の中で夢を見ているとすれば、どうしたら目覚めるのじゃろうな?」
「え?」
夢の中で夢を見ている。その夢の中でまた夢を見て、と想像していたコスモスは顔を歪めて溜息をついた。
出口が見当たらないじゃないかと呟く声に老人は苦笑する。
「ただのお話じゃ。何も考えず眠り続けるのも良いじゃろう」
「そう、ですかね」
眉間に皺を刻みながら唸るコスモスを見つめ、老人はどこから取り出したのか本を広げて読み始めた。中々寝付けぬ彼女を横目で見ながら彼は苦笑する。
「……」
「足掻くのも良いがの。目を瞑って見ないようにしても、逃げても、避けられぬものはある」
頭では理解しているが心がそれを拒否している。
コスモスはモヤモヤとした感情を抱き続けたまま暫く唸っていたが、幸福の蝶が軽く彼女の頭に飛び乗って羽を動かすと嘘のように静かになった。
強制的に閉じられた目は開く事なく、すぐに規則正しい寝息が聞こえてくる。
「おやおや、お前は随分と懐いているんじゃな。よしよし」
仕事は終えたとばかりに再び貝へと移動する蝶に声をかけながら、老人は眼鏡をずらして一人と一匹の様子を眺めた。
眉間に皺が刻まれたままの彼女は夢の中でも魘されていそうだ。可哀想な気もするがだからと言ってどうする事もできはしない。
苦痛を取り除いても結局は先延ばしになるだけ。
理解していても受け入れたくないその心情を汲み取りながら老人は自嘲するように笑った。
「歳は取りたくないものじゃな」
非常に稀なる来訪者に祝福を、と言いたいところだが中々そういうわけにもいかない。
変わることのない穏やかな景色を振り返った彼は、どこからともなく聞こえてくる声に鼻歌を歌いながら読んでいた本へ視線を戻した。
「おや?」
バシャバシャと響く水音にゆっくりと振り向いた老人は、その視界に珍しいものを見つけて楽しそうに目を細めた。




