47 たゆたう
体が重い。
ヒューヒュー、と隙間風のような音が彼女の口から出る。
(意識はまだある。でも、体が重いな)
必死に口呼吸をしながら生きていることを噛み締めるだけで精一杯だ。
羞恥と屈辱と憤怒。
鏡が目の前にあったならきっとひどい顔をしていることだろうと彼女はぎこちなく笑う。
少々上手くできるからいい気になっていたにしろ、これはあんまりだ。
(でも、調子に乗ったバツとか? ありえそうね。私なら)
口の中に広がる血の味に眉を寄せながら、力の入らない体を必死に動かし仰向けにする。
目を閉じて気配を探るも近づいてくる様子は見られなかった。
とどめを刺すまでもないと飽きられたのか、と歯を食いしばりながら綺麗な青空を見ていれば笑いがこみ上げる。
掠れた声に咳き込むと地面に広がってゆく血の跡。
(大した事じゃない。すぐに回復するから……大丈夫)
ゲホゲホと咳き込んでいると誰かがこちらにやってくる足音がした。知っている気配に笑みを浮かべながら視界に映る人影を見上げ、そこで彼女の意識は途切れた。
ゆらゆら
ゆらり
包み込むような心地よい揺れに、緊張して固くなっていた体が解れていくように感じる。
揺り篭や安楽椅子はこんな感じの揺れなのだろうかと思いながら目を開けたコスモスは、視界に映る綺麗な夜空を見て感嘆の溜息を漏らした。
濃紺の夜空に煌く無数の星がチカチカと瞬きながら自分を見下ろしている。
(あの時と同じだ)
マザーと精霊の歌声を聞きながら眠りに落ちた先で感じたもの。
生温い水にたゆたう感覚といい、耳に心地よい水の流れといい、あの時とそっくりだった。ただあの時と違うのは目を開けているということ。
あの時は何となく目を開けたら想像している光景が音を立てて崩れてしまいそうなのが嫌で瞑り続けていた。
そしてその中でマザーたちが歌っていた歌を口ずさみながら心地よく流されていたあの夢。
(あ、体動く)
腕を動かして水を掬うと発光している透明な水が綺麗な音を立てて指の間からすり抜けていった。
夜空の星を映した水はまるで天の川のようだ、と一人笑みを浮かべながらあの時と同じように鼻歌を歌う。
ゆったりと流されながら大きく広がる星空を見つめ、コスモスは贅沢な気分を味わいながら充足感を抱いていた。
酷く疲労して、まともに動けなかったのが嘘のように体のあらゆる箇所が修復されてゆく感覚に息を吐く。
痛くも無く痒くも無く、ただ温かい。
じんわりとした熱が体中に広がってゆく。
程よく温い水と相まって、半身浴でもしている気分だ。
(あー、起きたらお風呂入らせてもらおうかな)
人魂故に彼女は汚れる事は無い。汚れた、と思うのは彼女の感覚であり本当に汚れたり汗をかいたりしているわけではないのだ。
どんなに傷ついても、泥だらけの場所に転がっても彼女は汚れず清潔のまま。異臭もしないので入浴は必要ないのだがやはりお風呂は恋しい。
偶に、森の泉や教会内にある噴水で人がいない時を見計らい水浴びのような真似はするのだが、すっきりする事はなかった。
カラスの行水のようになってしまうのは、自分の姿が他から見えないと分かっていても人目が気になるからである。
年増ではあっても、心はいつまでも乙女だ。
夜は怖くて七不思議の一つに数えられてしまいそうなので、夜明けか昼間の人がいない頃を見計らって水浴びするしかない。
森にある泉ならば人目を気にしなくてもいいのだが、そこまで行くのが面倒でいつも中庭にある噴水で済ませていた。
綺麗に手入れされている中庭は、噴水もきちんと清掃されており水も綺麗で丁度いいからだ。
修道士や修道女たちの姿がない時間帯も大体把握してきたので、そんな時間帯を狙って中庭に出ては水浴びをして花畑で日向ぼっこと昼寝というのがいつもの日課だった。
(今はアジュールがいるからなぁ)
ケサランとパサランしかいなかった時は彼らを認識できる存在も少ないので、通りがかる人がいても強引に水浴びができていた。
精霊が水浴びをするのは珍しいらしいが、毎日のように水浴びをしていたお陰でミストラルの教会にいる風の精霊は水浴び好きという噂が広まり、それ見たさに外部から人がやってくることもある。
コスモスが主に中庭の噴水で水浴びをしている事を知っているマザーは、サービスと称して外部からやってきた人々に水浴びを見せるようにと言う事もあった。
姿が見えないからいいものの、冷静に考えるとどんな羞恥プレイだと声を荒げたくなる。
仮に彼女の姿が見えたとしても彼女自身のように人型として見えるのではなく、大きな人魂として見えるのでお色気シーンも何も無いのだがコスモスとしては嫌だ。
コスモスの中庭での水浴びが精霊のものだと勘違いされ、人が多くいる時間帯でも気にせず水浴びできるようになったのはいいのだが、今度はそれを目的とする修道士たちが多く通うようになって結局森にある泉まで遠出する事になってしまった。
最近はまた落ち着いてきたのだが、それでも最初の頃より中庭に来る人数が多い。
今ではコスモスの真似をするようにケサランとパサランが噴水で水遊びをし、それを見ていた他の精霊たちも同じように遊んでいるようで賑わっているようだ。
いつもは厳しい表情をしてマザーの部屋の前に立っている神官兵も、中庭で水遊びをする精霊の姿を見て表情を崩していた。
精霊の姿は見えないが、何の姿も無いのに噴水の水が跳ねたり螺旋を描くように舞い上がったりする様は古い書物にも書かれている精霊が遊んでいる様子そのものらしい。
コスモスはただ悪ふざけをしたり悪戯をしているようにしか見えないのだが、尊いものを見るかのような目で見つめている彼らを目にすると何も言えなくなる。
きゃっきゃ、とはしゃぐ精霊たちに声をかけて神官兵へ水をかければ、彼は怒るどころか膝を折って嬉しそうに祈りの言葉を口にし始めた。
あの姿を見た時にはまずいスイッチを押してしまったかとコスモスは本気で不安になってしまった。
(あの人頑張ってるもんなぁ)
室内での会話は外に漏れぬようマザーの力で遮断されているとは言え、何かと不思議な事が起きる執務室の扉の横で交代が来るまで一日中立っていなければならない。
マザーの部屋に訪れるたびにコスモスに遊ばれていた神官兵たちは、彼女の悪戯の犠牲となり何人も役を辞退してしまった。
その事で怒られたことも懐かしいとさえ感じながら彼女は今の神官兵を思い浮かべる。
がっしりとした体躯で年の頃は二十代後半といったところだろうか。厳つい顔をして何が起こっても動じない彼はコスモスが何度すり抜けても身じろぎする事はなかった。
自分の職務に忠実で、マザーも彼の性格は気に入っているのか護衛として同行させることもある。
教会の神官兵なのだから教会からの指示に従うかと思いきや、それよりもマザーの命令を優先している場面を何度か見る機会があった。
確かにマザーはミストラルの教会における最高責任者であるが、教会という組織の中で彼女がどれだけの地位にいるのかコスモスは知らない。
彼女が推測するにそう大して高くない地位だと思うのだが、あの神官兵はいつもマザーの意図を汲んでその言葉に静かに頷くだけだ。
多くは語らず仲間と楽しくつるんでいる所も見かけない。
大抵一人で食事をしているが、彼を見つけた後輩らしい神官や修道士たちが好んで傍にやってくるのは良く見ている。
自分に驚かない人物は教会内でマザーと彼くらいなものだ。
だからこそコスモスも変に意地になって何とか驚かせてやろうと思ったのだが、どれも彼を喜ばせる結果にしかならなかった。
精霊たちに水をかけるようにと指示した時も、夜中に彼にだけ聞こえるように鳴くようにと頼んだ時も、彼は嬉しそうに微笑むのだ。
そわそわ、と大きな体を珍しく動かしながら視線だけをぐるりと動かし周囲を見回す。
それが精霊を探している行為だと気づくのにそうかからなかったコスモスは、一緒にいるケサランを彼の頬に無理矢理押し当てた事がある。
嫌がりもせず楽しそうな声を上げた彼の表情は今思い出しても笑えてしまう。
(ほっぺたが硬いってケサランが怒ってたのよね)
彼は持っていた槍を落としそうになりながらケサランを押し付けられている右頬にガシッと手を当てたのだ。
熱くて仕方がないはずなのに彼は気にした様子もなくペチペチと自分の頬を叩く。
精霊が見えない者にとってはその存在が確かにそこにいたとしても触れる事はできない。ただ熱を感じるだけ。
そう考えると人魂であるコスモスも似たようなものである。
小さく鳴き声を上げるケサランの声が耳に届いたのか、彼は嬉しくて仕方がないという表情を浮かべていたのを思い出した。
(彼にも見えるようになればいいのにねぇ)
本当に精霊が好きなのだなと感心してしまうくらい彼は毎日時間があれば精霊の痕跡を探しているようだった。精霊が中庭で水浴びをするという噂が広まって間もなく、彼が頻繁に中庭に顔を出していたのをコスモスは目撃している。
コスモスがその神官兵を観察している時間が長くなる程、周囲の精霊たちも興味を持ったように彼の周囲に集まるようになっていた。
腕はいい、とマザーから聞いていたので勘も鋭いのだろう。
周囲に漂う精霊たちが近づけば何かを察知したかのように周囲を見回す。後にそれはマザーから精霊が周囲にいるせいだと言われたのか、にやけそうになる口元を必死に噛んでいる姿を見かけた。
だらしなく頬を緩めてたどたどしく精霊を称える古代語を口にしたいのだろうが人目があるのでモゴモゴと口を動かすだけの日々。
厳つい顔の腕の立つ尊敬すべき神官兵がそんな表情をしていたならば、自分だったら見なかったことにして立ち去るだろうなとコスモスは思う。
そのギャップに可愛いとも思うかもしれないが、彼の心情を考えると静かに頷いて踵を返す以上の良対応が彼女には思い浮かばない。
(あ、そう言えばここにはケサランもパサランもいないのか)
流れに身を任せながら思うのは二体の精霊。ふわふわしていて温かくて、小憎たらしい時もあるけれど頼りになる風の精霊は流石に夢の中までは来れないらしい。
(夢、夢か。そうだよね。夢なら人魂だって見れるからね)
自分だけが見ている夢ならしょうがない、と納得したコスモスの視界に金色の雪が降る。
小さな雪かと思ったそれは光の粒で、ゆったりと優雅に羽ばたいている存在に彼女は小さく笑った。
「貴方はどこでも行き来自由なのかしら?」
自分の知っている彼と同一なのかは知らない。だが、纏う黄金のオーラとその人懐っこさから行動を共にする幸福の蝶だとコスモスは理解した。
彼は自由に飛び回りながら金色の光を撒き散らす。
発光する水に落ちたそれらは、ゆらりと揺れる水面に流されながら静かに沈んでいった。
そのまま夜空に舞い上がって星になってしまいそうな幸福の蝶は、飛び回ることに満足した様子でコスモスの元へとやってくる。
そして彼女の鼻の頭に止まるとゆっくりと羽を動かした。
「くすぐったいのですが……」
こそばゆくて体を揺らしても蝶が離れる事はない。彼は笑うコスモスの声に小さく羽を震わせてそのまま休憩するように動きを止めた。
何となく目が合っているような気がしたコスモスだが、気にする事なく彼の羽を人差し指で軽く叩く。
ふわり、と舞い散る光の鱗粉に軽く咳き込んでいれば蝶が笑ったような気がした。
「貴方がいるのに、幸運使いこなせない私って駄目よねぇ」
幸福の蝶が一緒にいるならば運が上がっても良さそうなものだ。
トントン拍子で欲しい情報が手に入り、そのまま苦労する事無く望んだ条件で元の世界に帰れればいいのにと溜息をついたコスモスに、幸福の蝶は触覚を動かす。
「あーでも、ここにいる事自体が幸運だったりして?」
問いかけても答えは返ってこない。
けれども夢とは言えこの澄んだ心地よい空間に来られるならば何度もお願いしたいものだ、と遠くで聞こえる遠吠えを耳にしながらコスモスは欠伸をした。
夢の中なのに心地よく体が温まってきたら、また眠くなってしまった。
「おやすみ」
できればまた良い夢を、と自分に告げながら彼女は重くなる瞼に抵抗せずそのまま目を閉じる。
静かに眠りに落ちたコスモスの穏やかな寝顔を見つめながら、幸福の蝶は数回羽を動かすとゆっくりと羽を開いたまま動きを止めた。




