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42 なかよく

 白く小さな手に頭を撫でられているアジュールは、むず痒そうにしながらも耳を伏せされるがままになっている。

 自分以外に牙を剥いて威嚇していたのが嘘のようだと思いながら、その様子を眺めていたコスモスは興味津々と輝いている翠玉の瞳に気づいて苦笑した。

 さらり、と揺れる銀糸のような髪がアジュールの鼻先で揺れ、彼はヒクヒクと鼻を動かす。

 大きく口を開けてくしゃみをしても、自分に触れる少女は然程驚かずに目を細めたので意外そうに彼は喉を鳴らした。

「姉様は凄いね。こんな強そうな使い魔がいるなんて」

「新顔だから私もそれ程仲良く無いんだけど」

「またまたぁ、完全服従じゃない」

 教会裏に広がる森にコスモスがいると聞いた二人は、わざわざ彼女に会いに来てくれた。花畑でのんびり昼寝をしている彼女たちを見つけて嬉しそうに走る妹を窘め、ウルマスは少々警戒しながら花畑に似つかわしくない存在を観察する。

 しかし、青灰色の獣はコスモスが言った通り大人しく危害を加えるような気配を見せなかった。

 好奇心を隠し切れずに触ってもいいかと問う妹の言葉に、二つ返事で即答したコスモスへ獣が嫌そうに顔を歪めていたのを見ていた彼はつい笑ってしまう。

 しかし、こうして大人しくしているところを見ると自分も触りたくなって撫でさせてもらっているのだが。

「でも本当に新顔なの? 覚えていないだけじゃなくて?」

「……そう言われると困るなぁ。長く寝てたから、正直良く覚えてないのよね」

 ウルマスに尋ねられたコスモスは頭の中でどうするのがいいか考える。

 新顔と口にした以上はその体で進めていくしかない。

 ボロが出てもいいようにどちらの意味にも取れる曖昧な言葉で濁して逃げようと彼女は苦笑しながらそう告げた。コスモスの心配に反してウルマスは「あぁ」と納得したように頷く。

「随分とお寝坊さんなんだね、姉様は」

「そうかなぁ。寝てる間は長いとも短いとも感じないんだけど」

 実は今も本当は夢の中にいるんじゃないかと思ってしまう彼女は、目覚めたら全てが「夢オチでした」という展開になるのではとも思っていた。

 こんな濃くて鮮やかな物語がただの夢として終わってしまうのは勿体無い気もする。

 仮にこれが夢だとして、自分は目覚めてからもこの夢を鮮明に思い出せるだろうかと考え眉を寄せた。

「そっか。だから彼は不機嫌なわけか。ご主人様に忘れられたら、それは不機嫌にもなるよねぇ」

「……そうかなぁ?」

 どうやらウルマスはコスモスが深い眠りにつく以前からアジュールを使い魔としていた、と受け取っているらしい。

 彼女は尻尾をパタパタ動かしながらこちらを見つめるアジュールを無視した。

(大人しくしてくれてるだけいいけど)

 アジュールと出会った時の事を思い出しながら、彼女はいつの間にか獣の近くにいるケサランに目をやった。パサランはいつもの定位置であるコスモスの頭上に収まっている。

 どうやらアジュールに近づくのはまだ怖いみたいだ。

 そんなパサランとは違って、ケサランはアジュールとソフィーアの傍を飛び回って、時折尻尾とじゃれたりしている。

 あれだけ怯えていたのが嘘のようだ。

(一度本気で喧嘩して仲良くなるって、いつの時代の青春パターン?)

 そんなことを思いながら溜息をつくコスモスだが、そんなことになったのは彼女のせいだ。

 『お前の力はその程度じゃないだろう!私を攻撃した時の事を思い出せ!』

 そう言ってケサランを煽ったのをすっかり忘れているようで頭上のパサランは小さく鳴く。

 そんな言葉に乗せられたケサランもケサランだが、彼としてもこのままではいけないと思ったらしい。

 無言で見つめ合う獣と精霊。

 彼らは静かに距離を取って向かい合うと喧嘩をし始めた。

 それがつい先ほどだ。

(二人が来る前に終わって良かった)

 そう思いながら彼女は二者の対峙を思い出す。

 “喧嘩”という表現が適切なのかどうなのかは判らないが、戦闘ではないのでそんなもんだろうという程度の認識だ。

 コスモスにとっても喧嘩でなければ困る。万が一ケサランに何かあった場合は、マザーにも怒られるだけでは済まないだろう。それにケサランは生意気で暴力的なところもあるが、中々頼りになるいいヤツでもある。

(仕方ない。危なくなったら私が盾になるか。恐らくアジュールは私には牙剥かないだろうし)

 吠えるアジュールに、浮遊したままのケサランは身を屈めるアジュールの出方を窺うように見下ろしている。

 ゆらり、とアジュールの尻尾が一度、二度、揺れたと思えば次の瞬間に彼の姿は空中にあった。

 コスモスの目にはちょっと高く跳んだ程度にしか見えないが、ケサランとぶつかったと思った直後に淡い緑色の光が線のように走り、突風が巻き起こる。

「うわぁ」

 人魂である事を忘れ、思わず顔の前に腕を翳しながら通り抜けてゆく砂塵を防ぐコスモスが閉じていた目を開けた時に決着はついていた。

 ころり、と地面に転がって動かぬケサランに一瞬ヒヤリとしたが、淡く緑色に点滅する中央部を見て彼女は胸を撫で下ろす。

 潔く負けを認めたケサランは、好きにしろとばかりに動かないままじっと見下ろしてくる青灰色の獣を見つめているように見えた。

 抵抗する気配もなく、鳴きもしないケサランの様子にアジュールは前足を伸ばしてちょいちょいと彼を転がした。

(すっごい猫っぽい)

 とどめを刺さなかったのは、コスモスからきつく言われていた事をきちんと聞いていたのかどうかは知らない。

 危なくなったら嫌だけれど割って入ろうと覚悟していた彼女は、ケサランをボールに見立てて転がし遊ぶアジュールを見て気が抜けた。

 頭上で固まっていたパサランも「キュル?」と不思議そうな声を出していたのを覚えている。

 そこから二人がどんなやり取りをしたのかは知らないが、前よりも随分と仲を深めた様子でケサランは調子に乗ってアジュールの背中に乗ったり頭の上で跳ねたりしていた。

 アジュールも鬱陶しそうにはするものの、威嚇したり噛んだりはしない。

 余りにも鬱陶しいと前足で蹴るのだが、ボールのようにバウンドして転がってゆくケサランは寧ろそれを楽しんでいるようで繰り返し蹴られていたのを思い出す。

 とにかく両者が距離を縮められたのは良かったと、気が抜けて疲労したコスモスはゆっくりと花畑で居眠りをしていた。

 そんな時に兄妹がやってきた。

 コスモスは嬉しそうに微笑みながら優しくアジュールを撫でているソフィーアと、尻尾に触れて嫌がられているウルマスを交互に見ながら首を傾げた。

「二人で礼拝にでも来たの?」

「え?」

「あぁ、そうなんだ。一応無事に儀式が終わった礼も兼ねてね」

 回りくどい事をせずに直接疑問を投げかけたコスモスに、笑顔のソフィーアが戸惑う。

 彼女が小さく口を開きかけていれば、するりと滑り込むように穏やかな声でウルマスが答えた。その様子を見ながらコスモスは「ふぅん」と頷く。

(礼拝だけじゃなさそう? マザーに会いに来たんじゃないのかな?)

 まだ他に何かありそうな雰囲気だったがコスモスにそれを聞き出す理由は無い。心配だからと言って聞いたところで何の役にも立てない気がしたコスモスは、納得したように「熱心にお祈りしてたもんねぇ」とソフィーアと出会った時の事を口にした。

 その言葉に驚いた顔をしたのはソフィーアで、彼女は手を胸の前で組み合わせながらキラキラと輝く瞳をコスモスへ向ける。

「まぁ! あの時からコスモス様はお傍にいてくださったのですね!」

「あぁ…うん。最近だけど」

「これも神のお導きですね。これから毎日お祈りに来なくては」

 そこまで言われる程ではないのだけれど、と冷や汗を流しながら曖昧に頷いたコスモスにウルマスも嬉しそうに微笑んだ。

(本当に、褒められる程のものじゃないんですけど……言えない)

 目覚めた場所が偶々この教会だっただけというのに、ここまで言われてしまうと申し訳なさでいっぱいになる。

 本当の事を言って謝りたい気持ちはあるのだが、マザーに口止めされている手前そうもいかなかった。

 それは違うのだと、偶々でそういう事ではないのだと何度もコスモスが言うのだが、ソフィーアは勘違いしたまま「謙虚なのですね」と更に感心したように目を細める。

 何となくコスモスの気持ちを察して止めてくれればいいものを、ウルマスは悪乗りするように「姉様は素晴らしいね」なんて呟いてしまう。

(……本気で思ってないくせに。この悪魔め!)

 それも口にして言えたらどれ程良い事か、と悶えるように空中を大きく移動しながら頭を抱えたコスモスの表情の変化をアジュールは静かに見つめていた。

 





 世界の東方に位置する小さな国から男が音も無く消え去ったのと同刻、夜中だというのに真昼のような明るい光で満たされている場所では儀式が行われていた。

 天井には円形に文字のようなものが刻まれており、磨きぬかれた綺麗な石の床には複数の柱が一定の間隔で立っている。

 否、良く見ればそれは柱ではなく大きな布を纏った人であるのが窺い知れた。

 シーツを頭から被ったような細長く白い物体は、中心に大きな水瓶を囲むように車座になっている。

 穢れる事のない白で統一されていた空間に本体を持たぬ影が遊ぶように駆け回った。

 床に蛇が這い、蝶へと変化し、星になって散るその影絵のような動きにも誰一人反応する事はない。

 幼子が戯れはしゃぐ声が周囲に響き渡る中で、彼らはただ静かに中央の水瓶を見つめていた。

 大人の男が十人くらい両手を伸ばしてやっと囲めるくらいの大きさがある水瓶は両脇に銀の装飾が施された持ち手があり、その表面は白磁のように白く滑らかだ。

 どこの言葉か判らぬ絵文字のような記号のようなものが、その表面に羅列されており瑠璃色に染まったそれが時折淡く発光する。

 水瓶に湛えられている水は特別に清められたものらしく、その水面には小さな白い花びらがいくつも散らされていた。

 時折コポリという音と共に泡が上がって水面を揺らすが、大きな水瓶は花弁を模した青白磁の台座に乗せられている。

 奥から音も立てずにゆったりと歩いてきた人物が、長いローブの裾から腕を出して金色の何かを水瓶に落とした。

 静かに落ちてゆく物体が水瓶の底についた途端に器が震え、耳に心地よい音が空間に反響する。

 音は外に漏れる事は無くその空間内だけに収まり、その残響を聞きながら立っていた人々がその場に腰を下ろした。

「影が随分と騒いでいるな」

 水瓶に金色の物体を落とした人物が大きな器の内側をぐるりと指で撫でながら呟く。

 音は次第に弱まってはいるが、消える事は無い。

 車座になって胡坐を掻いている他の人物たちは何も言わずにその言葉を聞いていた。

「しかし、これも全て決められた事なのでしょう?」

 その中で一人、一番小さな姿をした人物が声を発する。その声は深く重みがあり、他の面々はざわりと騒ぎ出した。互いの顔が見えずとも顔を見合わせては口々に世界の状況を話し出す。

 黒い蝶が発端となり、次第に世界へ広がりつつある大きな影の話を。


「起きる事は防ぐ術が無いと記されていた通りか」


「いや、だからと言って何もしないというのは……」


「愚か者が。行動に起こした者がどうなったのか知っておるだろうに」


 溜息をつきながら告げられた女の声にざわめいていた声たちが静まり返る。

 中央にいる人物はその様子を気にする事もなく器の縁を軽く叩きながら波紋を起こすと、袖から大量の花びらを取り出して水面を埋めた。

 ヒラヒラと散る花は水面に揺られ図形のような形を取ると青白く発光する。

 次から次へと色々な形に変化してゆく様を見つめながら、その人物は小さく口を動かして思案するようにその口元へ指を当てた。


「ここも監視されていると言うのか?」


「そう考えた方がいいだろうな」


「それでは何をしても無駄ではないか」


「希望など持つだけ無駄だ。何の足しにもならん」


 頭を抱えて苦しげに呟いた一人をきっかけに、再び場はざわめき出す。悪寒を感じて身を震わす者、諦めたように受け入れる者、何とかできないかと抗う者。

 その根本は皆同じだというのに多種多様で面白い、と中央にいる人物は小さく笑みを浮かべる。

 変化していた水面の花びらが、落ち着いたように元に戻るのを確認してその人物はゆっくりと振り返った。

 ぐるり、と水瓶を囲むように並ぶ面々からの視線を一身に受けてその人物は口を開く。

 

「予定通りに」



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