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41 蝶と消える

 ひらり、と蝶が舞う。

 闇に溶けるようにひっそりと蝶たちは消えていった。

「……」

 肩で大きく呼吸をしたその人物は揺らめく月を見つめ、ゆっくりと水面から顔を出した。

 ざんばらに切られた髪は黒く、長い前髪に瞳は隠されている。

 水面に映った月と星が静かに揺らぐその様子を見つめながら、その男は近づいてくる蝶を指で撫でた。ふるり、と震えた蝶たちは彼の動きに合わせて動き出す。

 闇から生まれたかのように次第に数を増してゆく蝶は陸に上がった男の全身にぴったりとくっついて淡く発光した。

 金に近い光が紫へと変化し波紋のように上から下へと広がってゆく。

「さぁ、帰ろうか」

 男が優しい声で静かにそう呟くと、蝶たちはその姿を布へと変化させる。

 闇に溶ける黒いローブを身に纏った男は静かに木陰へと消えていった。

 



 魔物の気配がない教会裏の森は今日も相変わらず穏やかで平和だ。

 小鳥たちは楽しそうに囀り、木々は優しく吹く風に葉を揺らしている。

 木漏れ日の下で腰を下ろしたコスモスは、いつもは煩いくらいに賑やかな精霊の姿が見えないことに少しだけ寂しさを感じていた。

 温かな精霊たちに囲まれながら、ケサランやパサランと他愛のないおしゃべりをする。

 そんな日はもう戻ってこないのかと溜息をつく彼女の後頭部に鋭い痛みが走った。

「痛いっ!」

「グルゥ」

 精霊の代わりに彼女の傍に存在する青灰色の獣が彼女の後頭部を噛んでいる。

 無理に逃げようとすると余計酷くなるので放置が一番だと最近悟ったコスモスは、再度溜息をついて獣のヒゲを引っ張った。

「やめてって、言ってるよね?」

「グルル」

「じゃれてるだけ? そんなわけないでしょ」

 マザー曰くどうやらコスモスの使い魔のようなものらしいが、良いように遊ばれてばかりだ。襲われたりはしないものの、気に入らないことがあるとすぐに噛んでくる。

 嫌になったコスモスが必死に逃げようとしてもどこまでも追ってくるというストーカー。

 マザーに何とか頼み込んで押し付けようとしたのだが『無理』と素敵な笑顔で返されてしまった。

 おまけに『決して野放しにはしないように』ときつく言いつけられているので、適当な場所に捨ててくるという真似もできない。

(もし仮に捨てられたとしても、帰ったら先に定位置で寝てそうな気がする)

 こんな事になるとは思っていなかったから、と言ってもそれは言い訳でしかない。

 夢の中だとは言え、不用意に求めに応じてしまった自分が悪いのだからそれは今後同じ事が無いように反省するしかなかった。

「アジュール。精霊は食べちゃ駄目よ? ケサランたちとも仲良くね?」

「……」

「返事」

 精霊に関しては彼もあまり良く思っていないのか、聞こえていない振りをして顔を逸らす。顎を掴んで無理矢理正面を向かせても、力ずくで顔を逸らしてしまうので力負けするコスモスは毎回疲れていた。

 嫌なものを無理矢理好きになるよう仕向けても無理なことは分かっている。だが、どっちも捨てられないコスモスとしては選択の時に差し掛かっていた。

(精霊か、獣か)

 どんな二択だよと突っ込みを入れつつ溜息をつく。

 来客が来るというので部屋を追い出された彼女は、森に来る途中で見かけた姿を思い出して首を傾げた。

 お祈りにでも来ていたのかソフィーアとウルマスの姿があったのだ。

(来客って、あの二人? 私を追い出すような話、か。気になるけどしょうがない)

 自分が聞いてはいけないような事でもあるのかと考えて、コスモスは大きく伸びをした。

 遠巻きに彼女たちを見ていた精霊たちはそわそわと落ち着かない。一匹の精霊がふわりとコスモスに近づこうとした際にアジュールに睨まれ、驚き飛び退いてからこの場所でも怯えられてしまっている。

「……アジュール。言う事聞かないと、強制的にマザーの所に置いてきぼりだからね」

「……グルゥ」

「噛んでも駄目。そんな痛くないし」

 本気で噛もうと思えばそれ以上の力を加えられるはずなのに、彼は甘噛みしかしてこない。少しでもコスモスが本気で痛がるとすぐに口を離して止めてしまうのだ。

 そして伏せをしながら上目遣いで様子を窺ってくる。

 一度、そんな事をするなんて嫌いだと叫んで彼女が逃げた所、一定の距離を置いてのストーキングが始まった。気づけばそっと物影から見ている青灰色の獣の姿に修道士たちは悲鳴を上げ、神官兵が集まる騒ぎとなったのだ。

 マザーの『娘の使い魔がごめんなさいねぇ』との言葉で片付けられてしまったが、コスモスは騒ぎを起こしたとして随分と説教されてしまった。

 自分の姿が見えないから、アジュールも見えないと思ったとの発言は言い訳として切り捨てられ、きちんと躾をするようにと言われる。

 人も滅多に来ないだろう教会裏の森にいるのは、そういうわけもあった。

(マザーの娘の使い魔がこんだけ禍々しいのに、ホッとして納得する皆もどうかしてるわ)

 神聖な場所にそんなものが存在しているというだけで卒倒しそうなものだが、マザーの言葉一つで安堵し理解を示した光景は異様と言えば異様だ。

 それだけマザーが信頼されているという事もあるだろうが、宗教じみていて怖い。

(あ、教会だから宗教だったわ)

 コスモスは自分に突っ込みを入れ、ぺちんと頬を叩く。年甲斐も無く「てへっ」と可愛い子ぶってみるが、反応する者は誰もいない。

 アジュールでさえ見なかった振りをして、スッと顔を逸らした。

 なんという空しさ、と呟いた彼女は深い溜息をついてアジュールを見つめる。

「無理に好きになれとか言わないから、威圧するのはやめて。怯えさせないようにしてちょうだい」

 彼の頭を撫でながら、言い聞かせるように告げる。

 契約が結ばれ主従関係にあるのなら主たるコスモスには逆らえないはずだ。マザーの説明をその通り受け取るならば主導権は彼女が握っている。

「ググゥ…」

「その禍々しいオーラ消すのとか抑えるのとか難しいの? 制御できない?」

「グルル」

 せめて姿を消してくれればとコスモスは思うのだがアジュールはそんな事をするつもりはないらしい。

 人魂であるコスモスと精霊たちは、認識できる存在が少ないのでほぼ見えないと言ってもいい。だからこそあちこちフラフラ出歩いても悲鳴は上がらない。

 だが、アジュールは違う。黒い靄と共に消え、黒い靄と共に現われることが可能だというのに姿を消すのは嫌だとばかりに抵抗するのだ。

 姿を見えなくするだけだろうとコスモスとの押し問答が続き、結局彼女は項垂れながら溜息をつく。

「いいですか? 貴方はちょっと体格のいい渋い声をした猫です。そう、貴方は猫です」

「ガルゥ」

「人前ではそうやって唸らないようにお願いします」

 彼がちょっと吠えただけで精霊たちが震える。草むらの影に隠れた小動物たちも逃げたいのに硬直して動けず、その場で小刻みに震えていた。

「私もさ、貴方と似たようなものなのよ。首輪つけられてるようなものなんだからさ」

 望んでそうなったわけではない。

 自己防衛と保護という名目で互いの利害が一致したからそうなっているだけのこと。

 しかし、自分を召喚した人物でないだけいいのかと思いながらコスモスは喉元を触ってみた。目に見える制約も何もない。けれども自分は“マザーの娘”という名の使い魔だ。

 上手いように利用されてはいるが、命令されているという気はしない。

 相手に不快を与えず動かすのが上手いだけかと考えて、コスモスは溜息をついた。

(今思えば最初に名前付け合ったのも契約の一つなのかなぁ。おっそろしい)

 それまでとその後と、何も変わった事がないから安心していたが既にマザーの手駒であることは間違いないだろう。彼女からの『お願い』を渋々聞いているだけで強制的に命令される事はない。

 嫌ならば嫌だと言えるし、反抗されたからといって無理矢理言う事を聞かせるという手を彼女は取らなかった。

(反抗されて、とんでもない事になるとか? 無理無理、マザーにとったら私なんて吹いて消し飛ぶような人魂だもの)

 滅多にない事象に面白がっているだけだろうと結論付けて、コスモスは困ったように鳴くアジュールに腕を回した。

 見た目は本当に禍々しいのに、嫌な感じはしない。

 獣らしい匂いもしなければ、好んで口にするのは果物ときた。てっきり肉食かと思いきやそうでもないらしい。

 渋い声と赤い目。青灰色の毛並みは触り心地が良くて温かい。

「見た目だけだよね、怖いのは」

 その気になればすぐに立場を逆転させる事も可能なはずだが獣は大人しいままコスモスに従っている。それすらも策の内なのかと最初は疑っていた彼女だったが面倒になって考えるのをやめた。

 そうなったらそうなったで、マザーにどうにかしてもらおうと他人に押し付けたのだ。

(練習用の的、粉々に砕くなんてねぇ。攻撃力といい、素早さといい、強いって)

 訓練できる場所が欲しいと前からマザーに言っていたコスモスは、森の中に専用の場所を作ってもらった。

 とは言っても開けた場所に簡易の的が数個用意しているだけという簡素な作り。

 それでもケサランたちの力を試せる場所としてはちょうどいい。

 早速その場でアジュールの力を見るべく並べた的を撃破するようにと指示を出したのだが、彼は「そんな事でいいのか」とばかりに全ての的を素早く粉砕してしまったのだ。

 マザーの魔法で用意された的は、破壊されても再生するという仕組みになっている為にいくら壊しても困る事はない。

 最近では行動パターンを設定できる“人形”も増えて練習の幅は広がっていた。

 ぴょんぴょんと跳ねる案山子のような動く人形も、マザーからの提供である。

 彼らもまた破壊されても再生するので何度も心行くまで練習できるいい相手だ。

(能力測定っていうより、すっかり戦闘訓練な気もするんだけど……き、気のせいだわ)

 マザーによってコスモスの指示に従うようにと命令されている的や人形は、彼女が『やめ』と言えば動きを止める。的の場合は地面に突き刺さったまま動かないのだが、上部の的の部分だけがクルクルと回転したりする仕組みだ。

(こんなに能力が高いのに、何でアジュールって私に従ってるんだろう)

 愛嬌のある人形で、一斉にアジュールを攻撃させたところ長い尻尾で振り払われた挙句に鋭い爪で全ての人形が真っ二つにされてしまった。

 人形の攻撃力が低いとは言え簡単に倒してしまう様子を見て、コスモスは周囲の精霊たちに協力してもらい小さな竜巻を数個出現させ彼に投げつける。

 するとアジュールは器用にそれらを避けながら、鋭い爪で切り裂き消失させてしまった。

 そんな事が実際起こりえるのかと驚いたコスモスだったが、冷静に考えれば自分がやっている事も非現実的だ。面倒な事は考えないようにしようと薄ら笑いを浮かべ、彼女は協力してくれた精霊たちに礼を言った。

(人魂で存在している上に、精霊見える時点でねぇ。ヒトの事は言えないわ)

 再生され復活する人形たちは何事も無かったかのように大人しく一本足で直立している。チラリ、と視線を向けてきたアジュールに溜息をついたコスモスが、人形たちの行動パターンを考えてアジュールを攻撃するようにと設定する。

 勝敗は見えていたが疲れた様子も無く遊んでいるだけの彼に、少々腹が立った。

(これでもっと小さかったらなぁ。少し凶悪な面構えでもここまで周囲が怯えなかっただろうに)

 精霊に協力を要請しながら動き回る人形と協力してアジュールを攻撃する。

 最初は優勢かと思えたが状況はすぐに変化し、最終的には大きな猫が玩具で遊んでいるような光景が広がってしまった。

 そろそろ再生も終わっただろうが、人形たちは食い千切られ、爪で破られと悲惨な状況になっていた。意思が無いのが救いかと思うが、はみ出た綿を見ると痛々しくなる。

 暢気に的で爪を研ぐアジュールは正に猫だ。

(はぁ、これからどうしよう。ここにある的じゃアジュールの相手にはならなそうだし)

 かと言って対等な相手を探すのも難しい。

 この森に存在する動物は大小あれど、きっと彼の相手にはならないだろう。

 そんな事を考えていればアジュールの姿が無い。散歩でもしているのだろうかと大した心配もせず木漏れ日の下、のんびりと休憩していたコスモスの元に帰ってきた彼は、兎を咥えて誇らしげな表情をしていた。

「……私は食べないわよ?」

「…グルゥ」

 アジュールが食べるというのならそれでいい。

 獲物を地面に置いた彼は少しだけつまらなそうな表情をした後、大きく口を開けて仕留めた兎を食べ始めた。見るに耐えなかったコスモスはげんなりした気分で目を閉じ、耳を塞ぐ。

 好んで食べるのは果物だが、他のものが食べられないというわけではないらしい。

 

 ガリ…バリッ、グチュグチャ

 

 耳を塞いでいるのに近くで食事をしているせいで音が聞こえてくる。抑えられた音だとはいえ、何がどうなっているかなんて容易に想像ができてコスモスは必死に違う事を考えた。

(食物連鎖、食物連鎖。食べるなら綺麗に残さず…って違う。そうだ、楽しい事を考えよう)

 背後から脇に頭を突っ込まれるまで、精霊たちと楽しく戯れていた頃の事を思い出していたコスモスはその衝撃に食事が終わったことを知った。

 ちゃんと口を濯いでくれとか、ふわふわと漂う白い毛は、と気になる事もあったが無視して考えないようにする。

 他の精霊は食べないようにともう一度きつく言い聞かせてみたがその通りにしてくれるかどうかの自信はない。


(使い魔の躾け方とか、本ないかなぁ)

 広い場所である程度体を動かす事ができた彼は、食事も終えて満足したのかコスモスの膝に頭を乗せる。

 ゆらゆら、と尻尾を揺らしながら目を伏せた彼は撫でる手が止まると不満そうに喉を鳴らした。


 

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