39 青灰色の獣
ゆらゆらと漂う感覚は気持ちがいい。
生温い水に浮かんでいるような感覚で、コスモスの体はそのまま静かに流されてゆく。
夢の中のせいか、水の抵抗は感じられなかった。
瞼越しに穏やかな明るさを感じる。恐らく日中なのだろうと思いながら彼女は小さく息を吐く。
ここで目を開けてしまえばこの心地よい夢が終わってしまいそうでもったいない。暫く考えていた彼女はこのまま目を瞑っていることにした。
(マザーの歌を聞きながら寝るなんて贅沢だな。それにしても気持ちいい夢だわ)
体は沈むこともなくプカプカと浮いたままゆっくりと流されてゆく。
指先を動かして体が動く事を確認していれば、つま先がこそばゆくなった。
何かが這い上がってくるような感覚に嫌な予感もしたが、そういうことはなるべく考えないようにする。
(考えると実際にそうなるからね。そうなると困るからね)
最初に目を瞑ったままでいようと決めた自分は正しかった、と力強く頷いて彼女は楽しいことを考えることにした。
目を開けていれば最悪の状況を免れたかもしれないという事態もあるが嫌な予感しかしない。
もし目を開けて夢から覚めなかったらどうすると考え眉を寄せた。
(最悪な状況を見なくて済むならそれでいいんだけど。夢なら対処できるかな)
夢だと分かっていながらも逃れられずバッドエンドで終わる悪夢も多い。この状態なら少しは制御できるかもしれないと考えた彼女だが過度な期待はしないことにした。
(平常心、平常心。楽しい事を考えよう)
ただの勘だとしても彼女の判断は正解だった。
この状況を目にすれば混乱のあまり目を覚ます前に昇天しかねない。
人魂としてはそれが一番いいのかもしれないが、元の世界に帰る前に昇天なんて彼女も嫌だろう。
ゆっくりと流れていく彼女の体は、想像しているような透き通った綺麗な水の上にはない。
一見すれば水とは思えないくらいに黒く濁ってドロドロとしている液体の上にある。
見ようによっては黒髪にも見えるその大きなうねりの中を彼女一人がポツンと漂っている。人魂の姿ではなく、本来の人型をしている彼女の周囲だけが明るくて異質だ。
その他にそこには何があるかと言えば星の無い黒い空と、赤黒い月があるのみ。
赤黒い月は凶星。
星の無い暗闇の空は、災いの前触れとも言われている。
そのどちらも悪いことの象徴なのだが目を瞑っているコスモスは知らない。例え目を開けていたとしてもそれが何を指すかなんて分からなかっただろう。
ただ不安で、怖くて、気持ち悪い。そう思う程度だろう。
目を瞑って何も分からないからこそ暢気に流されていられる。心地よい、なんて目を開けていたら絶対に思わないだろうに彼女は穏やかな表情をしてその液体に身を委ねていた。
(あーそう言えば、こうやってお風呂入ることもあれから無いのよねぇ)
マザーが歌っていた歌を思い出しながら鼻歌でそれを歌う。
友人と行った流れるプールを想像しながら、今の状況は正にそんな感じだろうと想像していた。
黒い水のようなものが、ゴポリと音を立てたり赤い目のような物がその中で光っていたりする事も知らない。
音も立てず黒い粘液が水面から突き出て、大きな爪を形作る。そして暢気に鼻歌を歌い続ける彼女の腸を抉るように振り下ろされ、届く前に呆気なく消えた。
「ふんふんーふふんふーん~」
気分がのってきたコスモスは例の歌が気に入ったのか何度も歌い続ける。鼻息は荒く、そして時折大きく腕を振るう彼女の動きに合わせるように、攻撃してこようとする黒い影のようなものが次から次へと消えていった。
無数に降り注ぐ小さな影の針も、その腕が大きく横に払われるだけで消える。
彼女の動きにわざわざ合わせるかのような影の攻撃だが、どうやらそれは偶々のようだ。離れた場所から様子を窺うように見つめる光の点たちが忌々しそうに歪められ、ザワザワとした音が響く。
「ふっふーん、ふんふふーん」
多数ある光の中でも一際強く輝く赤い光は水面下から彼女を狙うようにどこまでも追いかけ、常に近い位置を維持している。赤い双眸がゆっくりと水面まで浮かび上がると、黒い水が爬虫類を思わせるような生物の姿に変わった。
音もなく静かに生まれたその異形は、赤い双眸でコスモスを見下ろしながら黒い滴を零し、大きく口を開いて牙を剥く。
大きく咆哮するように天を仰いだその獣に、他の光が萎縮するように震えた。
「ふふーん、ふんーふふーんふんふんー」
しかし相変わらずコスモスと言えばご機嫌で鼻歌を歌い続けている。
周囲の変化に何一つ気づかず、異形の咆哮もどうやら彼女の耳には届いていない様子であった。
鍛えられていない、少々弛んだ腕を突き上げて大きく両手を動かすその姿は指揮者にでもなったかのようである。
何度目かのフィナーレを迎えたその時に大きく腕を上げ、ゆっくりと下ろす。そして彼女は余韻に浸りながら瞼の裏に広がる観客席に向かって手を振り優雅に礼をした。
拍手喝采の観客総立ち。
ブラボーの声があちこちから響いて、オーケストラからも拍手を貰う。
コンマスから大きな花束を受け取りながら、「ありがとう」と何度も礼を言ってカメラのフラッシュに微笑む。大きな仕事をやり遂げたとばかりに充実した表情をした彼女は、目を開きかけて慌てて閉じた。
「ふぅ。危なかった」
小さく溜息をついた彼女のその息で、牙を剥いた影の竜は掻き消されるように形を崩していく。
溶けるように再び水面へと落下したそれらは、色々な姿を取って彼女に近づこうとしていた。けれども、彼女の周囲には見えない壁のような物があるらしく、そのどれもが彼女に触れられる事なく壁にぶつかった衝撃で崩壊し、消失する。
何かが壁にぶつかると流石にコスモスにも影響があるのか、体が揺れる震動に彼女は眉を寄せた。
「あーもう、さっきからうるさい! しつこい!」
また精霊のようなものが自分の周りで遊んでいるのだろうと思っていた彼女は、少々声を荒げて周囲を威嚇する。大した声ではないのに大気がビリリと震え、彼女が漂っている水面が波打つ。
彼女の周囲に精霊は一切いないのだが静かになったことに満足し、コスモスは軽く足を動かした。ぱしゃぱしゃと水が跳ねる音が響き、頬にまで水滴が飛ぶ。
(ナマエ…ナマエ…ナマエ)
「あーだから、うっさい! 知らない人に名前を簡単に教えちゃいけませんて、園児でも知ってるわ!」
静かになったと思ったのに付きまとう気配と初めて聞こえた声。
せっかくいい気分でいたのに阻害されたとばかりに彼女は不機嫌そうに鼻を鳴らした。そして気持ちを落ち着かせるように再び鼻歌を歌い出す。
ゆっくりと呼吸しながら緩やかなテンポで歌っているとささくれ立った気持ちが少しずつ落ち着いていった。
群がるように近づいてきていた気配も、今ではその距離を更に遠くしているのが何となく判る。
けれどもまだ諦めない気配も残っていたようで、それはしつこく流される自分についてきた。声を荒げても遠ざかる事なく、一定の距離を保ったままついてくるのだがそれ以上は近づかない。
鬱陶しそうに手を払って「あっちに行け」と言う彼女の言葉を理解していないのか、その気配は一向に離れようとはしなかった。
一定の距離を保ったままついてくるというのが、ストーカーのようで気持ち悪い。
(ナマエ…ナマエ、ナマエ、ナマエ?)
夢の中で何だかよく分からないものにストーキングされているのかと、自分の状況を考えればなんだか笑えてしまって、コスモスはその場にそぐわぬ笑い声を上げた。
(あー、またなんかの精霊か。どうせならイケメンにストーキングされてみたいわ……)
漂っていた黒い水が突如溶けるような音を出して、焦げた匂いが鼻を刺激する。
夢なのに匂いまでリアルで顔を顰めたコスモスは、ストーキングをしてきた存在が少しずつ遠くなっている事に気づいた。
何かあったのだろうか、と思うのだがここまできたら意地でも目は開けられない。
(ナマ、エ)
掠れたような声で呼吸も荒く必死に追いつこうとしているのが気配でわかる。
ここまで来ると、一緒に流されている仲としてはちょっと可哀想になり彼女は得体の知れぬ何かを呼んでみた。
「アジュール」
(あ、噛んだ。ま、いっか)
頭に浮かんだ適当な単語を口に出してみたのだが、実際発音したかった言葉とは違う。夢の中で普通噛むか、と自分に突っ込みを入れつつ噛んだとしても意味は同じだから問題ないと一人頷いた。
嬉しそうに鳴く声が響き渡ったが、精霊とは思えぬ可愛らしくない声である。
「……」
清らかな水の流れに身を委ねながら悪戯好きの精霊たちと一緒に流されていると思っているコスモスは、首を傾げながらも気のせいかと誤魔化すように鼻歌を歌い続けた。
そうしてまた暫く流されていると、遠ざかっていたストーカーが再び近づいてきたのが気配でわかる。
(頑張るなぁ)
先程までの弱々しい様子が演技だったと思えるくらい静かに素早く近づいてきた気配は止まる事なく、衝突するかと思えば腹部に重みを感じた。
動物か何かの顎を乗せられているように思えて犬や猫で想像する。
手を伸ばして撫でてみれば天鵞絨のようなすべらかな触り心地につい頬が緩んでしまう。想像していたよりも随分と大きいが、ストーカーのわりに害を加える事は無く非常に大人しかった。
一定の距離を保っていたわりに、こうしてすぐ接触してくる辺り図々しい性格なのだろうか。
(夢なら仕方ないかー)
ワンと鳴くのかニャーと鳴くのかは知らない。
形の良い耳を触りながら鼻歌に合わせるようにして、グルルと鳴く声にコスモスは小さく首を傾けた。
(獣型の精霊。妖精? うーん)
可愛くない鳴き声に彼女は犬か狼かと想像する。短毛だから狼ではないのかと残念に思いながら頭を撫でると怒ったような響きが耳に届く。どうやら残念がられたのが分かったらしい。
「ご主人様のお腹に頭を乗っけるとは、ふてぶてしいやつめ」
このやろう、とばかりに強く掻くように指を立て頭を撫でれば「グルルゥ」という声が聞こえた。わざとらしい口調で本気ではないと理解したのだろう。
甘えるような声の響きに気を良くした彼女は笑いながらその生物の頭を軽く叩く。
(これはどんな種類の精霊なんだろう)
マザーが暇な時にでも聞いてみようと思いながら、コスモスは得体の知れぬ獣と共に暢気に鼻歌を歌いながらそのまま流され続けたのだった。
「う……うう」
頭に重石でも乗せられているような感覚に眉を寄せながら呻くコスモス。
身動きが取れぬように押さえつけられ、圧迫されている苦しさにもがくが上手く動けない。
掴んでどかそうとした彼女の指がそれに触れ、この体勢はきついと無理矢理動こうとすれば「グルグル」という声が聞こえてくる。
遠くでケサランたちが騒ぐ声がしたのでコスモスはゆっくりと目を開けた。
「……」
定位置から見るいつもの景色に変化はない。
いつもなら目の前にいるケサランとパサランの姿を探せば、何故か離れた窓辺に寄り添うようにしていた。
何かを訴えるように焦った声色で鳴く彼らを見ながら彼女は大きく欠伸をする。
(はぁ、重かった。それにしても、何? そんな怯えた顔して)
精霊に表情は無いのだが何となくそんな気がしたコスモスは首を傾げる。
怯えられるような真似をした覚えはないと思っていると、後頭部を何かにベロリと舐められた。
「うおぅ」
マザーに溜息をつかれるような可愛げのない声を上げながらコスモスは体を震わせ、今まで感じた事の無い圧に冷や汗を流す。
顔を正面に固定しながら目だけを動かせば、上方に見える青灰色の何か。
視線を落とせばふさふさの毛に覆われた二本の前足のようなもの。
(えっとー?)
まだ夢か、そうか夢なのか、と小刻みに頷いて目を閉じようとしたコスモスに背後から「グルルゥ」と声がかかる。
振り向いたら駄目だと思うがケサランとパサランが「現実を直視しろ!」とばかりに騒ぐので、彼女は仕方なくゆっくりと振り返り、また静かに顔を正面に戻した。
(よし。寝よう)
体の力を抜きつつ、前足と顎の間のスペースから抜け出そうと転がりかけたコスモスだったが、伸びてきた右前足に抑えられ頭を動かせなくなる。
その様子を見て更に怯え様子を窺っているケサランとパサラン。周囲の精霊たちも部屋の隅で固まるようにして小さく震えていた。
「……」
コスモスを元の位置に戻した何かは、満足そうに喉を鳴らして彼女の後頭部を齧る。
甘噛みなのだろうが大きさが違うので痛い。
「痛い痛い! 髪が切れる! コラッ!」
頭はボールじゃない、と獣の頭を必死に叩きながら何とか逃れたコスモスは悪びれた様子のない獣を見下ろして顔を引き攣らせた。
見知らぬ獣が自分の神聖なる場所に陣取っているのはどういうことか。
マザーの使い魔だろうかとジロジロ獣を観察しながら距離を取るコスモスの背後から聞き慣れた声がした。
「あら、随分と大きな猫さんね」
「マザー! これなんなんです? もしかしてこの場所、この獣の寝床でした?」
あらあら、と呟きながら音もなく姿を現したマザーの姿に、猫にしては体格が大きい獣はグルグルと威嚇するように牙を剥いて彼女を睨みつける。
ご主人様に対して随分と反抗的な態度だと呆れながら様子を見ていたコスモスは、獣の前足でバシバシと叩かれ悲鳴を上げた。
何故自分が叩かれなければいけないのか、と距離を取って睨みつける。
「コスモス、飼うなら飼うで、ちゃんと面倒みないと駄目よ?」
「はーい。わーい、やったぁ飼っていいんだぁ! ……って違うわ!」
爪を出して目を鋭くさせた獣に悲鳴を上げたコスモスは回避しようとして後方にひっくり返る。そしてそのままの体勢でノリツッコミをした。
慌てて起き上がった彼女を見ていたマザーは楽しそうに笑っている。
今にも飛び掛ってきそうな獣を睨みつけていたコスモスは、困ったような声で鳴く獣に首を傾げた。
「だって私のじゃないもの。貴方のでしょう?」
「は?」
「あなたの、ペット。使い魔? なのかしらね」
ペット、使い魔。
その単語に全く心当たりのないコスモスは眉を寄せて獣を見つめた。
青灰色の毛並みをした猫科と思われる大きな獣は真っ赤に輝く双眸で彼女を見つめている。
豹にしては小さく、虎にしては見たことのない色だ。けれど、どちらかと言えば虎に似ているだろうか。
喉元のふさふさとした長毛が鬣のようで触り心地が良さそうだ。
(使い魔……使い魔?)
撫でろ、とばかりにゆっくり近づいてきた獣は頭を彼女の手に押し付けてくる。先ほどとは違う様子に戸惑いながらも頭を撫でていたコスモスは顔色を変えた。
その様子を笑顔で眺めていたマザーが彼女に声をかければ、覇気の無い声が返ってくる。
「あの、夢で、いたような気がしますねぇ」
「……あら、夢の中から連れて来ちゃったの?」
「いや、そんなの可能なんですか? こっちが聞きたいんですけど」
「不可能では無い…わね」
言葉を濁すようにして小さく首を傾けるマザーにコスモスは自分が見た夢を簡単に説明する。それを聞いていたマザーは苦笑しながら手を伸ばし、牙を剥いて威嚇する青灰色の獣を見つめた。
「ふふふ。面白い事するわよねぇ、コスモス」
「分かってやったわけじゃないんですけど。使い魔にした覚えも無いのに困ります」
「名付けたからでしょう?」
「いや、でもだからって。名付けてホイホイ増えるなら誰も苦労しないですよね」
コスモスが名付けたのならケサランとパサランも同じだ。
しかしコスモスとマザーが同時に命令したならば二体は必ずマザーの命令を優先させるだろう。
それに、コスモスが名付けたのは他と区別しておかないと面倒だったのと、軽いペット感覚でだ。
楽しそうについて来てくれるが、それがマザーによる指示の可能性もある。
目の前の獣もどこからかやってきた野良かもしれないとコスモスが呟けば、こんなに懐いていて野良というのはありえないとマザーは否定した。
「でも……」
「第一、教会内部に魔獣が入り込めるわけがないもの」
「でも現に」
「例外でしょうそれは。内部にいる者が呼んだのなら可能だわ」
それはそれで危険じゃないのかと小さく唸る声を聞いたマザーは、自分に対して警戒する様子の獣を撫でつつ目を細めた。
ぐるぐる、と気持ち良さそうに鳴いてはいるが警戒は解かない。
「契約しているなら呼べるでしょうね。支配権が貴方にあるなら問題ないわ」
「契約……支配権」
「ねぇコスモス。アクシオン氏と契約しそうになった時のこと覚えている?」
「あぁ、はい。忠誠誓うみたいなこと言われて私はただ了承すればいいとか」
「そんな感じよ」
「どんな!?」
全く違うではないかとばかりに声を荒げたコスモスは、鋭い目でマザーを観察しながらも彼女に撫でられる獣を見つめた。マザーが手を離すと満足気に獣はコスモスを囲うようにして伏せる。
マザーの方へはいかず、自分の傍にいるということは恐らく夢であったあの獣に間違いないのかもしれないとコスモスは溜息をついた。
(厄介なのが増えた……)
「名前を求める存在に、名前をあげたんでしょう? それで契約成立よ」
「えぇ、だからそんな簡単に?」
あまりにもざっくりした説明過ぎないかとコスモスが怒るのだが、マザーは「ウフフフ」と笑うばかりでそれ以上は何も言わない。
ただ、とても楽しそうに笑みを浮かべて大人しく伏せる青灰色の獣を見つめていた。




