38 お守り
書類にペンを走らせていた彼女は「ふぅ」と溜息をついてサインをし終えると、それを受け取りに来ていた修道士へと渡す。
一礼をして受け取った修道士がそのまま静かに退室し、足音が遠ざかっていく音を聞きながら彼女は眼鏡を静かに外した。
視界の隅に精霊が困惑した様に集まっているのが分かる。
「コスモス」
「はい」
「報告は既に聞いています。ですが、何か言いたい事は?」
「ありません」
ケサランを通じて彼女に自分のやっている事が筒抜けだったという事を思い出したコスモスは、定位置に収まりながら静かにそう答えた。
街中でコスモスが何をしでかしたのか、既にマザーの耳には入っていたらしい。
気持ちは判るがそういう子供みたいな真似はするなときつく怒られるかと思っていたコスモスは、周囲の精霊たちに身を隠すように静かにしている。
「……」
ちらり、と観葉植物の陰から姿を出してこちらを窺うようにしている姿は中々面白い。
彼女の周囲にいる精霊たちも真似をするようにそろりと見つめてくるので、マザーは思わず笑ってしまった。
コスモスがどう動くのかは予想の範囲内。
想定外の事もありはしたがまだ修正が利く範疇だ。それに彼女はとても良い働きをしてくれている。
娘にしたのは正解だったと自分の判断を褒めながらマザーは笑顔を浮かべた。
「けれど本当に良くやったわね。感心するわ」
「?」
「アクシオン氏との簡易契約の話よ」
「してませんって!」
今後するかもしれないが、まだしていないと声を荒げるコスモスにマザーは思わず笑ってしまう。
不用意な事をしてしまったと本人も反省しているのだからそれについてはもう責める事はしない。
寧ろそうするように誘導されたのだとしたら、相手の方が上手だという事だ。
そうなると彼女は利用されたのだろうから怒る事もできない。
「ウルマスがいなかったら、完全に契約していたものね」
「本当にウルマスには感謝しております」
契約したとしても主従関係の支配権はコスモスが握ることになるだろう。その関係を受け入れなければ簡易契約はできないのだから当然だ。
「随分と苦手にしているようね」
「そうですね」
クオークは中々いい男だ。
見た目は言わずもがな、冷たく見えるようなその外見に惹かれる女も少なくないだろう。
それに知識も豊富で頭が切れる。
儀式を混乱に貶めた黒い蝶に関する事も彼が協力を申し出てくれなければこれだけスムーズに調査結果が出る事はなかっただろう。
黒い蝶が幸福の蝶ではないと正式な結果が出てからは、両陛下も協力してくれた彼や彼の国に大層感謝していた。
調査隊に加わった先での出来事と言い、ミストラルの信頼を確実に得たと言っても過言ではないだろう。
けれどそれを利用してソフィーアに接近したり、国の内部に取り入ったりという事は全く無かった。
引き際を弁えているというのか、深く話が及ぶ前にスッと退くのだ。どうやって察知しているかは知らないが勘も良さそうな男だとマザーは感じていた。
「簡易契約って言ってもどうせ観察対象、研究対象? みたいなもんでしょうし。怖いんですよね」
「あら、でも頭も良くて見目もいい男なんだからいいじゃない」
「そんなのはいい男とは言わないと思います」
「厳しいのね」
ふふふ、と笑うマザーに「だから独り身なんだろう」と遠回しに言われたような気がしたコスモスは、ムッとして視線を落とした。
恋愛も恋人もしばらくごめんだ、と低く吐き出すように呟いた彼女にマザーは表情を変えずゆっくりと瞬きをする。
「貴方には悪いけど、それでもアクシオン氏との簡易契約は進める方向で維持してもらうわよ」
「えぇ……」
「ソフィーア姫の為にもうちょっと我慢してちょうだい」
マザーはコスモスの弱いところを知っている。
国の為にと付け足さず姫の名前だけを出す辺りがそうだ。
案の定コスモスは変な顔をしながら拳を強く握り締め、唇を噛み葛藤している。
ギリギリと歯軋りの音を聞きながら、マザーはのんびりと「私がもう少し若かったらねぇ」と呟いた。
「うおおぉぉ」
「可愛くない声ね、コスモス」
ごろんごろん、と床を転げ回る彼女に続くようにして周囲の精霊たちも転がる。真似をして遊んでいるのだと見ていれば小さな辻風が起きてマザーは僅かに眉を寄せた。
辻風は大きくなる前に消えてしまうが何度も何度も発生し続ける。それこそ、コスモスが止まるまで。
「可愛い反応できてれば、ここにはいないと思いますけど」
「拗ねないの」
「あーあ。でも可愛さも一つの才能ですよね。ソフィーア姫の愛らしさは飛びぬけてますけど」
ごろり、と転がる速度を緩めながらコスモスが呟く。
確かにソフィーアは非の打ち所のない憧れのお姫様だ。しかし彼女の背負うものが余りにも大きすぎて自分だったら耐えられないとコスモスは溜息をついた。
彼女の事を考えるたびに自分が情けなくなる、との声を聞きながらマザーは引き出しから紙を取り出す。
「本物の方も、クオークみたいなのがタイプなんですかね?」
「え? あぁ、そうね。いい男は皆好きだと思うわよ」
影武者である自分にも本物と変わらず接してくるコスモスは、やはり面白いとマザーは思う。突然何を聞くかと思えばそんな事だ。
くだらないとしか言いようが無いのだが、彼女が問いかけると何故か面白いと感じてしまう。
自分も随分と情が移っているのかしら、と胸の内で呟きながらマザーはペンを手に取った。
「いい男かぁ。基準は人それぞれですけどね」
「そうねぇ。あぁ、じゃあコスモスが思ういい男って誰かいた?」
「うーん。皆さん美形で気後れしますけど、それとはまた違いますからねぇ」
王侯貴族、来賓、余りにも美しい顔がたくさんで逆に気持ち悪くなってしまった事を思い出す。
この世界ではそれが普通なのかもしれないが、ここまで美形揃いだと自分の身が人魂で良かったとコスモスは安堵するのだった。
「そうね。まぁ、そのうち見飽きるわよそんなもの」
「慣れるんじゃなくて!?」
「ホホホ。美しさなんて足しになるのは偉い人たちくらいだもの。後は、嫁入り先探す時よね」
確かにミストラルだけが特別ではなく他の国でもそうならば、大して珍しい事ではない。
出会った人々が皆、普通では無かったから自分の感覚が麻痺しているのかもしれないとコスモスは床に頭を打ち付けて体を硬直させた。
「コスモス?」
「違う、違うっ! 私は違うっ!」
「落ち着きなさいな」
取り乱したように部屋を駆け回る人魂の姿に精霊たちもザワザワと騒ぎ出す。あちこちで小さな風の渦ができているのを確認しながら一つ一つそれを潰し、マザーは彼女の動きを止めた。
「違うんです。アレと同じじゃないんです」
「なに言ってるかさっぱり判らないわよ、コスモス?」
床に軽く頭を打ちつけて冷静になろうと思っていたコスモスは、その行動に既視感を覚える。そして、その時の光景が鮮やかに蘇り青褪めたのだ。
何が、とは詳しく言わないが嬉しそうに笑う声が聞こえたような気がして身を震わせる。
「なにごとも、普通が一番だと思います!」
「あぁ、そうね。そう言えば貴方、ユートだったかしら? 警備隊の子と仲良くなったようね」
「彼はとっても真面目でいい子ですよ。律儀に私の相手もしてくれますし」
「あらそうなの。アクシオン氏が歯軋りしてたわよ」
「私はっ、何も聞こえません!」
間髪入れずのやり取りは心地よい。
マザーという存在を完全に信頼しているコスモスの雰囲気には危機感さえ覚えるが、注意したところで治らないだろうと彼女は溜息をついた。
マザーと同じ姿声をした人物が目の前に現れたとき、彼女は一体何を基準に良いものか悪いものかを判断するのだろう。
自分が本物とは違うものだと指摘した時のように勘かもしれない。
その感性はもっと磨くべきだろうと床に寝転がったまま動かないコスモスを見てマザーは目を細めた。
「とりあえず、貴方は何もしなくていいのよ。アクシオン氏の言動は適当に流せばいいわ」
「えっ?」
「契約してくれれば私としては嬉しいけど、貴方が嫌がるのに無理矢理というわけにもいかないでしょ」
話を聞く限りクオークは退かないだろうと判断したマザーは、苦笑しながら戸惑うコスモスに笑いかけた。
てっきり嫌と言わずに我慢しろというような事を言われると思っていたコスモスは、意外なことに動きを止める。
ゆっくりと起き上がって周囲を見回し、首を傾げた。
「向こうが貴方を利用するつもりであるならば、こちらが利用しても問題ないじゃない」
「えぇっ」
「大丈夫よ。貴方が適当に気を引いて今の関係性を維持すれば良いだけの話だから」
「それはそれで苦痛なんですが」
どんな小悪魔だよ、と呟くコスモスにマザーは声を上げて笑う。
寧ろそうなって御覧なさいと優しい笑顔を浮かべれば、コスモスは再びギリギリと歯軋りをし始めた。
「コスモス、こっちにいらっしゃい」
「なんですか?」
万が一と言う場合を考慮してとマザーは彼女に自分が書いた文字を読み上げるように促した。
白い紙に綴られた文字を見たコスモスは、不審がる事も無く素直にその文字を読む。
淀みなく滑らかに紡がれる発音に目を細めてマザーは相槌を打つように頷いた。
「んー、なんですかこれ?」
「コスモス、貴方もう少し危機感持った方がいいわよ?」
「へ?」
言われるがまま簡単に読んだというのはそれだけ相手を信頼しているという事だ。騙されやすいのではないかと指摘すると言葉に詰まったように人魂が退く。
注意したところでと思ったマザーだが、思わず口にしてしまった自分に苦笑してしまった。
コスモスは何かマズイ言葉を口にしてしまったのだろうかとオロオロしている。そんな彼女に笑いながら、マザーは淡く発光する文字を眺めてスッと指でなぞった。
(……あの方がおっしゃっていた通り、だわ)
なぞられた文字はバラバラ分解され、小さく息を吹きかけただけで紙面から舞い上がる。
空中に浮かんだ文字の欠片は、それぞれに揺れ、回転しながら一列に並ぶと何かを形作るように動き出した。
不思議な光景をぼんやりしながら見つめていたコスモスは、脇を通り過ぎる影に半拍遅れて声を上げる。
「あ」
手を伸ばして掴もうとしたが、空を掻くばかりで何も掴めない。
驚いた顔をするマザーの目の前で、宙に浮かんだ文字の欠片たちは飛んで来たケサランに美味しくいただかれてしまった。
「お馬鹿! ケサランっ!」
「あらあら」
綺麗に食べ終えたケサランは軽くゲップをすると満足そうに声を上げる。手を伸ばしたままのコスモスはその手を下ろして床を叩いた。
マザーに怒られても知らないぞと思うのだが彼女はにこにこと笑うだけで怒りはしない。
「困った子ねぇ」
(えっ私の時と、態度違わない?)
確かに彼女にとって、異世界から来た人でもない人魂のコスモスと風の精霊たるケサランは後者の方が愛着もあり可愛いだろう。それは判る。
しかし、仮にも勝手に娘としているんだからもう少し優しくしてくれてもいいんじゃないかとコスモスは思った。
ソフィーアの儀式も無事に終わって、後は帰還の情報を集めるだけだというのに便利に扱われている気がしてならない。
思うように情報は集まっていないみたいで、それ所ではない状況に仕方がなく待っている状態だというのに。
本人も影武者も自分の扱いがどうにも雑な気がするのだが。
(自分で情報収集って言っても、良く知らない世界で?)
ケサランとパサランがいるものの、その力がどこまで通用するかは判らない。彼らがいなかったらただの浮遊霊でしかないだけに旅の僧侶辺りにさくっと成仏させられてしまいそうだ。
結局のところ、ミストラルの王都周辺が稼動可能範囲になるのでマザーの言葉を信じて大人しく情報を待つしかない。
彼女からも不用意に動く事はしないようにと言い聞かせられているコスモスは、得意気に鳴くケサランの声を聞きながら項垂れた。
「あ、それでその文字って何だったんです? 上手く翻訳されなかったんですけど」
「あら、そうなの?」
上手く言葉にするのは難しいが舌を噛みそうな読み方もある、意味不明の言葉だった。きちんと読めて発音もできたがそれが何を示すのかは判らない。
意外そうな顔をするマザーを見つめながら、のろのろと立ち上がったコスモスが近づいてきたケサランを鬱陶しそうに手で退ける。
珍しくスリスリと擦り寄ってきた彼はそれでもめげずに彼女の手を避け、後頭部から擦り寄った。
「古代文字で、お守りの言葉のようなものよ」
「へぇ。お守り」
「そう。“貴方の行く先に幸福と光がありますように”っていう意味なのよ」
もう一度その言葉を口にしようとするが、発音しにくかったせいで良く思い出せない。
コスモスがもごもごと口を動かしていればそれを見たマザーが苦笑して綺麗に発音してくれる。滑らかな響きは歌のようでもあり、感心しつつ眺めているとケサランとパサランが嬉しそうに鳴く。
それに反応するように周囲の精霊たちも「キュ」「キュルル」と鳴き出した。
「……古代語って精霊に近いんですかね」
「どうしてそう思うの?」
「この子たちが凄く嬉しそうなので。まぁ、マザーが言ったからかもしれないですけど」
「そうね。そうかもしれないわね」
一瞬驚いたように目を軽く見開いたマザーはすぐに頬を緩ませて「うふふ」と笑う。何が楽しいのかコスモスにはさっぱり判らないのだが口元に手を当てて笑う彼女は本当に楽しそうだ。
それに合わせるようにして精霊たちがまた鳴き始める。
歌うように鳴き、体を揺らして踊るように室内を動く彼らを見ながらコスモスはつられるように体を動かした。
体の奥から力が湧いてくるような、そんな不思議な感覚を受ける。
その熱い力が全身に行き渡るようにイメージをしていれば、マザーの声が聞こえた。
(なんだろうこれ、懐かしい?)
聞いたことがないはずなのに、懐かしく感じる歌は心にじんわりと染みてゆく。湧き上がった力と溶け合うように混ざり合い、自分の中の奥深い部分にある“何か”が強く揺さぶられるような感覚に陥った。
(あぁ、でも……気持ちいいなぁ。とっても眠い)
ゆったりと流れる歌声を包み込むように精霊たちが鳴く。色々な音が重なり合って、目を瞑ればその波紋が鮮明に見えるようだ。
淡く緑色に発光した波が寄せては返す。
「おやすみなさい、コスモス」
優しいマザーの声を遠くに聞きながらコスモスは深い眠りへと落ちていった。




