36 急接近
室内に沈黙が漂う。
集まった面々を眺めながらヴレトブラッド家当主、エルグラードは穏やかな瞳の奥で注意深くその人物の所作を観察していた。
こうして自分の家に集まってもらったのは家族だけではない。
それが面倒で厄介だが後回しにするわけもいかない以上、ある程度こちらの情報を公開してこちら側に取り込む必要があった。
平兵士であるユートは嫌なやり方だが権力で物を言わせれば何とかなる。彼自身、小心者で野心は抱いていなさそうなので使いやすい駒だ。
息子であるウルマスやアルヴィも「平凡過ぎるくらいの平凡」と僅かな愛情を込めて言っていたくらいだ。こちら側で何とか処理できる範囲にある。
しかし、問題は他国からやってきているクオークだった。
彼の出自、経歴は調べてあり身元も確かなので誰かが彼になりすましているという事は考えにくい。何よりあのマザーが大丈夫だと笑っていたのだ。
(御息女の支配下にあるとは言っておられたが)
それがどういう意味なのかとの問いは笑顔ではぐらかされてしまう。
マザーの娘である存在についてはエルグラードも両陛下も知らない事が多い。けれどもマザーという人物をとても信頼しているからこそ、彼女の言う不確かな存在である娘に対しても警戒する事はない。
両陛下はどう思っているか知らないが、エルグラードは娘に対するマザーの信頼は篤いと見ている。
(御息女はソフィーの為に尽力してくださった。儀式もあの方がいなければ無理だったとマザーがおっしゃっていたくらいだからな)
得体の知れないものを信じるのは難しい。
エルグラードは精霊を認識できないのだから尚更だ。
悪い気配はしないと王妃の言葉を思い出し、娘や息子から聞くその存在についての情報を頭の中で纏める。
(確かソフィーが言うには大きめの火の玉だとか。精霊を従えている辺り、能力は高いのだろうな。母親譲りか?)
マザーの娘を想像しながら眉を寄せる。疑問はたくさんあるが、それを深く追求するのは今やるべき事ではない。
そう判断したエルグラードは溜息をついて娘と話すクオークへと視線を向けた。
歯痒いとはこういう事を言うのだろう。
無力に打ちひしがれているわけではないのだが、言いたくても口にできないこの状況は正にそうと言える。
複雑な表情をしながらコスモスは近くにいるウルマスに声をかけた。
「ねぇ、ウルマス。何であの二人はあんなに仲がよろしいのかしら?」
「……姉様のせい、かな」
「え?」
一通りエルグラードから話が終わった後も、二人は仲睦まじく会話を続けている。
丁寧な所作で話をするクオークからは狂喜の研究者らしい顔は全く見えない。まるで別人だな、とコスモスが呟けば同意するようにユートが頷き、慌てて首を左右に振った。
「なんで私?」
「耳澄ませてみなよ。会話の内容ってほとんど姉様に関することだから」
「え?」
二人がまるで恋人同士のようにいる光景にアレクシス派の自分としては耐えられなかったんです、と変なことを呟きながらコスモスは仕方無さそうに彼らの話に耳を傾けた。
近くに座っているアレクシスは嫉妬するでもなく穏やかな表情でソフィーアを見つめていた。
割って入る事はせずに見守っている様子に焦りは一切見られない。
「そうなのですか。ソフィーア姫は本当に御息女の事を慕っておられるのですね」
(笑顔が怖い。爽やかそうなのが尚更恐ろしい)
「はい。コスモス様は本当に楽しくて、とても頼りになるお方です」
(うん。ソフィーは今日も可愛い)
彼らが話すごとに心の中で突っ込みや感想を呟きながらコスモスはじっと我慢して二人の会話を聞いていた。
時折、話にアレクシスやアルヴィが入るものの、会話をしている中心はクオークとソフィーアの二人だ。
綺麗に整えられた金髪で切れ長の目をしたクオークと可憐な少女を体現しているソフィーアは悔しいくらいに絵になる。
兄妹として見えてもおかしくないのだが、年齢差のある結婚が当たり前だろうこの世界では恋人同士と言ってもおかしくはない。
クオークの瞳は優しく細められており、小さな手を動かしてコスモスとの出来事を話す彼女を見つめる眼差しは穏やかなものだ。
ソフィーアも上に三人もの兄が存在するせいか、クオークに対して身構えたりする事はない。
コスモスとユートの二人が到着する前から話に花を咲かせていたと聞いていただけあって、随分と打ち解けている様子が見られた。
(ん? まさかクオークが簡易契約結びたいのって本当は姫に近づく為? その為の口実だった?)
それにしてはリスクが大き過ぎるのだがソフィーアとの距離は縮められるだろう。研究者であるクオークならばそこまで計算して契約せざるを得ない状況に持っていったとも考えられた。
そうなると、コスモスとウルマスはまんまと彼の掌の上で踊らされたという事になる。
(いやいやいや、考えすぎだな。うーんでも、ないとは言い切れない)
共通の話題としてコスモスを利用しつつ親交を深め、あわよくばと考えているのかもしれない。
他国からの来賓である為にこういう時に率先して妨害するイストも、窓辺の椅子に座ったまま動く事はなかった。微かに体が震えて、唇を強く噛んでしまっている為に血が出てはいたが。
恐らく無礼な振る舞いはするなと父親と兄からきつく言われているのだろう。
そして、楽しそうに話をする妹の機嫌を万が一損ねたらと考えれば、ここはじっと堪えるしかないと思ったのか。
馴れ馴れしくするでもないクオークの対応にはケチの付け所が無い。
同じ話題で盛り上がって、楽しそうに笑う妹の姿などイストにとったらご褒美でしかないはずだ。
(まぁ、最終的に選ぶのはソフィーア姫だから心配してもしょうがないんだけど)
彼女の恋路の邪魔をするつもりは毛頭ない。
ただ幸せになれば良いと思うコスモスは彼女が好きならばクオークでも誰でも夫にすれば良いと思っていた。流石にひどい男を選ぶような見る目のなさは持ち合わせていないと思うが。
「……姫がいいなら、いいんじゃないかな」
「姉様なんか覇気が無いけど大丈夫?」
「ウルマスは、もしソフィーア姫がアレク王子じゃなくてクオークを選んでも嬉しい?」
「は?」
ソフィーアの耳に入らないように声を潜めながらウルマスに尋ねれば彼は困ったような表情をした。コスモスの声が聞こえるユートも自分はここにいてもいいものかと視線を落とす。
「それはソフィーが考える事だからね。あの子が選んだ相手ならしょうがないよ。それにソフィーの人気が高いのは今回のことで良く分かったから」
「へぇ、昔からじゃないんだ」
「昔は外に出ることなんて滅多になかったし、教会に移ってからは押しかけられなかっただろうからね」
今考えればそれで良かったのだと小さく笑うウルマスは、苛々とした表情をする事も無く笑みを浮かべてクオークと話をする妹へと目をやった。
調査した洞窟内でどういう事があって何をしていたのかと簡単に話すクオークはまるで昔から親しい仲だったかのように溶け込んでいる。
イストは相変わらず厳しい表情をしていたが、流石にクオークを睨む事はできないので代わりにアレクシスを無言で睨み続けていた。
困ったように笑うエルグラードは時折クオークに質問をする。それに対しても失礼が無いように丁寧に受け答えをする彼の印象はとても良い。
「マザーは多忙でな。後日来てくださるそうだから、その時に聞きなさい」
「……あの、父様」
「ん? なんだい」
「私、荷物を纏めて教会へ移ってもよろしいでしょうか」
先程までの穏やかな空気が一変する。
ここでそれを言ってしまうのかと驚いたコスモス以外は、寝耳に水の様子で彼女を見つめた。近くに座っていたクオークも驚いた表情はしたが、すぐに落ち着きを取り戻す。
「ソフィー?」
「私、今回の事で良く判ったのです。教会にいる事こそが私がヴラトブラッドの為、ミストラルの為にお役に立てる事だと」
胸に手を当てて深く噛み締めるように言葉を紡いだソフィーアは真剣な表情で父親を見つめる。
母親譲りの綺麗な翠玉の瞳には強い意志が感じられて、言葉を探すエルグラードは困ったように視線をアルヴィへと向けた。
「それは前から考えていたのかい?」
「はい。教会で神や精霊に祈りを捧げている時からずっと、これが私の役目なのだとそう強く思ったのです」
穏やかに尋ねられたアルヴィからの問いにソフィーアは目を輝かせて答える。
役目が判って、役に立てる事が見つけられて嬉しいのだとその表情が彼女の気持ちをよく表していた。
大きく震えて目を見開いたイストは言葉を放とうとするが頭の中で整理できていないのだろう。悔しそうに唇を噛んで俯くと額に手を当てて溜息をついた。
「ソフィー、それは君の意思で? 君ができる事はもっとあるというのに?」
焦りを隠してできるだけ落ち着いた声を出そうとしているアレクシスは、しきりに手を組み替えながら真っ直ぐに彼女を見つめる。
父親から婚約者へと視線を移したソフィーアは、揺るがぬ瞳で笑顔を作り「はい」と頷いた。
「……」
何か問いかけるかと思っていたウルマスが一向に動こうとしないので、コスモスは不思議そうに彼を見つめる。ユートは部屋から出ていた方がいいんじゃないかと思いながらここで聞いたことはすぐに忘れようと心に決めるのだった。
「素晴らしいですね」
緊張する室内の空気を破ったのは、クオークだった。
上辺ではない心からのとも思える声色で優しくソフィーアを見下ろした彼は、賞賛するように小さく手を合わせる。
馬鹿にしているとも取られかねぬその言動に声を荒げる者は誰一人としておらず、そう言われたソフィーアもきょとんとしたように彼を見上げた。
小さく息を吐いたアレクシスは人差し指をトントンと動かしている。
「儀式を終えたばかりだというのにそのお心がけ。正に、聖女と呼ばれるに相応しい方ですね」
「そんな、そんな大層なものではありません」
「いいえ。素晴らしいことです。それに、教会へ行かれればご家族も安心するでしょう」
(この男は本当にどこまで分かっているのか。怖いなぁ)
兄三人の妹に対する過保護っぷりを目の当たりにしての言葉なのか、それとも違う意味なのか。
クオークがソフィーアの秘密を知るはずもないのできっと前者なのだろうが、彼ならばその秘密でさえも見抜きそうで恐ろしい。
国家を揺るがしかねない機密事項だけにそれを知っているコスモスは、思わず口にしてしまいそうになって毎回慌てるのだ。
危ない言葉は聞こえないようにしてくれると助かるのだが、そんな補正は働いてくれない。
悪気もなくついうっかり口から滑り落ちてしまうかもしれないというのが非常に怖い。
いい大人なんだから気をつけないと、と心の中で呟いてコスモスはソフィーアの様子を窺った。
「ソフィー。その話はまた後でゆっくりとしよう。今急いで結論を出す事もない」
「でも、お父様…」
「お前の気持ちは尊重したいが、問題は山積だ。そうだね、アクシオン氏」
「クオークで結構です。ヴレトブラッド卿」
軽いお家騒動に巻き込まれているというのにクオークは落ち着いた様子のままで、軽く頭を下げた。こんな状況においても冷静な彼にソフィーアは珍しいものを見るかのような目をして見上げる。
アレクシスはそんな様子の彼女を見ると、曇らせていた表情を緩ませて苦笑した。
「それは、先程話していたフェノール国周辺の事ですか?」
「それもあるが、それだけでもない」
「…というと、他でも目撃されているわけですね?」
ここへ来てからずっと声を出していなかったイストが硬質な声で父親に尋ねる。冷静に頭を切り替えるとは思っていなかったのかウルマスが珍しそうに片眉を上げた。
彼らの会話でエルグラードが話した内容を思い返したコスモスは、小声でウルマスに話しかけた。
「ユート君とデートしてた時に、怪しい輩を見つけたんだけど関係あるのかしら?」
「あぁ、さっき言ってたソフィーの事を悪く言ってた奴?」
「恐らくそうだとは思うのですが、証拠は何も無いので」
儀式の時に黒い蝶に襲撃されて場は混乱に陥った。
その最中、不安と混乱を更に煽るような発言をした人物が複数いた事をコスモスはしっかり感じている。耳を澄ませ、声を発した人物を探せばいとも簡単に見つけられた事を思い出した。
それでも見つけられたのはその中の一人で、睨む事しかできなかったのだが。
「記憶違いじゃない限り、騒いでたうちの一人には間違いないわ。怨念込めて睨んでやったから」
「さすが姉様」
「……」
ふふふ、と笑うウルマスに対してユートはどう反応していいのか判らない顔をしている。ふと視線を感じて顔を上げればエルグラードと目が合って、慌てて彼は頭を下げた。
その人物を見つけたコスモスが何をしたのかは言わないでおこうとユートは一人頷く。
コスモスが腐った卵牛乳をその人物にぶつけたなんて正直に言っても信じてもらえないだろう。
それに彼女の評判を落としてしまいそうな事実だ。
一体どこからそれらを調達してきたのか、ユートが彼女に頼まれて商品を購入している間に事件が起こったので詳しいことは分からない。
汚い悲鳴と罵るような声が聞こえたかと思えば、通りから人々の悲鳴がする。
駆けつけた警備隊ですら取り押さえるのを嫌がっていたくらい、その人物は強烈な匂いを発していた。
商品を買い終えたユートが外に出るとすでにその状態で、妙に清々しく登場したコスモスの声に何があったのかと尋ねたところ「オシオキ」と言われる。
「その男なら警備隊の牢屋にいます。ひどい腐臭が漂っていたので不審者として捕まりました」
「本当? 手際いいね、ユート」
「いや、あの自分は特に何も」
「それじゃあ、その男は私がそれとなく手を回しておくよ」
いつの間に傍にいたのか爽やかな笑顔を浮かべてアルヴィが会話に加わる。声を小さくしてひそひそと話していただけに目立ってしまったのだろうか。
「アル兄」
「ははは。悪いね、ウルマスが楽しそうに話しているからついね」
盗み聞きされても困る内容ではないが、それほど重要とも言えない。
そんな事に手を煩わせるわけにはと思うのはウルマスも一緒だったのだろう。
クオークに話を振られてまた穏やかに話す妹の姿を一瞥してから彼は眉を寄せて長兄を見上げた。
「マザーからもそれについては頼まれていたからね。優先度が低いとは言え気にしてはいたんだが、中々見つからなくてな」
「うん、判った。じゃ、よろしくねアル兄さん」
拒否するでもなく兄の好意を受け取る事にしたウルマスは笑顔を浮かべて「期待している」と言わんばかりに大きく頷いた。
その表情を見て「困ったな」と呟いたアルヴィだったがユートに視線を移すと何やら考え込むように顎に手を当て振り返る。振り返った先にいたエルグラードが大きく頷いたのを確認して、彼はポンとユートの肩に手を置く。
「ユート。君の身柄はこれから警備隊ではなくヴレトブラッド所属になる」
「はっ!?」
「あぁ、心配しなくてもいいよ。別に命を取るとかそういうわけじゃない」
何もできませんし、もっといい方がいます、と噛みながら呟くユートを見つめるアルヴィとウルマス。二人は視線を交わして笑うと同時に頷いた。
「今回の件は極秘だからね。だから君の身柄をこちらで預かっておきたいんだ」
「は、はぁ?」
「警備隊の方には私から伝えておくよ。勿論、仕事は今まで通り普通にしてくれて構わない」
何が何だか判らないと呟くユートにコスモスも頷く。
しかし、ソフィーアの安全とヴレトブラッド家、ミストラル王国の事を考えればそれは当然の事なのだろう。
あの時に案内役になったのが最後と諦めてもらうしかなさそうだ。
(腫れ物扱いの理由はコレ?)
「ただ違うのは、こちらからの要請を最優先にして欲しいんだ。いいかな?」
「は、はい。問題ありません」
憧れの人物から優しくそう話しかけられては拒否できるわけがない。この国の為、この家の人たちの為になるのであればとユートは敬礼をして答えた。
その様子を満足そうに眺めているのはソファーに深く座っていたエルグラードだった。
クオークの人柄も実際に会って良く話してみるまではと思っていたのだが、想像していたよりも害になるという事はまず無さそうで彼は安心する。
(御息女の支配権は絶対とマザーもおっしゃっていたからな)
コスモスですら知らないその事実を胸の内で呟きながら、彼は嬉しそうに自分の契約主について語るクオークを眺めた。




