34 小さな手
ソフィーアはぼんやりとしながら己の掌を見つめていた。
まるで夢を見ているようだと、握ったり開いたりを繰り返す。
高熱を出して寝込み、少し良くなってきた矢先に襲撃を受けたのはつい先日の事だ。
黒い蝶が混乱を齎してしまった儀式の事といい、自分のせいで周囲に迷惑をかけ続けているのが心苦しい。
役に立とうとすればする程、迷惑しかかけないので、積極的に何かしようとするのではなく、少しでも利用価値があるようにと努力した。
努力しているつもりだが、この有様である。
「そんなに無理をしなくてもいいんだよ?」
「ソフィーはソフィーのままでいいんだ」
「気負わなくていい。何かあれば、私が守るから何も心配するな」
「お前はお前の好きなように、やりたい事をやってもいいんだ」
苦労しているとは思わない。
無理して頑張っているわけでもない。
それなのに、自分にかけられる言葉はいつでも優しくてその度に己の不甲斐なさを思い知らされた。
(守護精霊を持てぬ身で姫だなんて笑ってしまう)
王族の娘としてではなく生まれていたらそんなことで悩まなくとも良かったのに。
誰に問うても答えが無い己の異常性はソフィーア自身が良く分かっていた。
だからこそ、それを上回る何かを探し続けて知識を深めたり、自分の容姿を少しでも良くするようにと努力してきたつもりだった。
けれども、王族の姫に必須な条件を持ち合わせていないことが何よりの欠点。
(苦手な裁縫も頑張ったけれど意味はなかったわね。精霊に好かれるように色々なことも試したけど、どれも駄目だった)
信心が足りないのかと思って教会に移ってからは毎日ひたすらに祈り続けた。
世界と国の平穏、そして人々が穏やかに暮らせますように。
そして、自分に一刻も早く精霊がついてくれるように、と。
こんな自分でも愛してくれる人々に恩返しができるように、寿命が縮まってもいいからと無茶な事を祈り続けたものだ。
今思えば、魔が囁いてもおかしくないくらいに必死だった。
いや、正確に言えば今も必死なのかもしれない。
(無事に教会に移るまでは油断はできないと、マザーがおっしゃっていたもの)
これから、アレクシスとの婚約破棄についても話さなければいけない。
生涯教会で過ごすという自分の意思を周囲に伝えて理解してもらうという難題が待ち受けている。
マザーからは父親に話しておこうかと言われたのだがソフィーアはそれを断った。何でも他人に任せてはいけない、こればかりは自分で言わなければいけないと思っていたからだ。
それは素敵な婚約者に対しても、なのだが。
(どうしたら、いいのかしら。こうなってしまってはどうしたらいいのか、分からない)
心の準備をして、文言を考えては頭の中で練習をする。
部屋で一人でいる時に、声にはせずただ口を動かし冷静に告げられるかを何度繰り返しただろう。
言葉の修正をしながらもその時がすぐ迫ってきていると、苦しくて仕方がなかったというのに。
「……」
小さくて、弱い自分の手。
守られてばかりで、簡単に傷ついてしまう自分の手。
良家の子女なのだから当然なのかもしれないが、昔からソフィーアはその事がずっと引っかかっていた。
父から聞く母の話に触発されたのだろうか。
『ごめんなさい、ごめんなさい。君たちを傷つけるつもりはないんだ。ただ、危ないから。儀式が終わってしまってごめんなさい』
ふと、頭に蘇るのは襲撃してきた人物の声。
気づけば音もなく室内に存在していたその人物は、不思議と怖くなかった。
驚いた表情で声も出ずにいるソフィーアに男は申し訳無さそうに謝り続ける。
なにをそう謝ることがあるのだろうかと疑問に思うソフィーアに男はこう言った。
『ごめんなさい。本当にごめんなさい。間に合わなくて、ごめんなさい』
『あの、儀式は無事に終了したのですよ? 精霊の加護も無事に得られましたし』
正確に言えば得られてはいない。
得られているように見せかけ、それに成功しただけだ。
しかし、そんな事を正直に言えるわけもなくソフィーアは優しい口調で穏やかな笑みを浮かべながらそう告げた。
最初は身代金目当てか、親族に対する怨恨かとも思ったのだがそれは違った。彼はしきりに儀式が成功してしまった事を悔やみ、自分に詫びている。
何一つ悪いと思うことなど無いのに、と思っていれば相手がポカンと大きく口を開けたのが分かった。
『うそ、だ…だって…だって』
『いいえ。嘘ではありませんわ。黒い蝶を操っていたのは貴方、でしょうか?』
様子を見ながら核心に触れるとソフィーアの想像とは裏腹に、相手の男は素直に頷く。よく見れば彼の周囲にはあの時に見た黒い蝶が飛び交っているではないか。
(これは、儀式の時と同じ蝶)
アレクシスは隣室で少し休むと言っていたので寝ているのだろう。
しかし、そのうち誰かがここを訪れるかもしれない。
それならば、その前に疑問に思うことを聞かなければ。
『そっか。そんなこともあるんだね』
『……あの、私をどうするおつもりですか?』
『どうもしない。誘拐もしないし、傷つけるつもりもない』
『ええと、ならばどうして』
ホッと息を吐いて安堵したような男はちらりと隣室へと繋がるドアに目をやる。
首を傾げながらソフィーアもそちらを見れば勢いよく開いたドアからアレクシスが飛び出してきた。
彼は男の存在を知っていたかのように抜いた剣を向ける。
予想していた男は手にしていた短剣でそれを受け流すと、ソフィーアに目をやる。
にっこりと笑う彼からは悪意が感じられなくて彼女は声をかけようとする。
『ソフィー!』
しかし、その前に鋭い声で自分の名前を呼ぶアレクシスに気をとられ反応が遅れてしまった。
気づけば無数の黒い蝶が窓を開けて外へ逃げ出している。
慌てて駆け寄るアレクシスに心配ないと告げたソフィーアは、気になる様子で消えてゆく蝶たちを見つめた。
「あの時、確かあの人は……」
気づけばその姿を消していたフードの男は、逃げる前に不思議なことを言っていたのを思い出す。
『ぼくはきっと、だめだけど。だから、大丈夫。君に本当に精霊がいるなら、それでいい』
あれは一体どういうことだったのだろう。
精霊がいると言った嘘を信じての行動ならば悪いことをしたとソフィーアは眉を寄せた。
彼は何をしたかったのか。
精霊がいないと思っていたから儀式を妨害したのだろうかと考えて彼女は頭を左右に振る。
(それはないわ。それだけはあってはいけないこと)
目を閉じて襲撃時を思い出していたソフィーアは、強く握り締めていた手をゆっくりと開いた。
力を入れ過ぎていたせいか、掌に爪の痕ができている。
白く不健康そうな自分の手。
それは昔から変わらない。
そしてこれからも変わることなど無いと思っていた。
「……あの方に、お願いしてみなければ」
体温は平熱。全身を襲っていた倦怠感も今はない。
食欲もあり、医師からも大丈夫だと言われた。
けれども未だ、部屋からは出られない。念の為にと家族に言われて自室で大人しくしている。
逆らう理由も無い彼女は、心配されているのは分かっているので部屋で大人しく過ごしていた。前よりも体調がいいので一日中ベッドで過ごすことがないという以外は以前と同じだ。
本を読んだり、裁縫をしたり。
見舞いに訪れてくれる方々を、窓から対応したり。
(直接会えると言っているのに、皆過保護なんだから)
失礼だろうとの言葉は家族の笑顔によって流されてしまった。またどこで危険があるか判らないからと言われれば仕方ないので、いつも見舞い客には丁寧に謝っている。
訪れてくれる人たちが心優しくそんな対応でも受け入れてくれるのが幸いだ。
ソフィーアが広げていた本を優しく撫でていると部屋の扉がノックされる音が響いた。
訓練所と言えば、飛び散る汗、男臭さ、むさ苦しさとイメージしていたコスモスだが、思ったよりも清潔できちんとされている様子に驚いてしまった。
(男子運動部の部室なイメージがあったんだけど、違うのね)
「結構、綺麗なんだね」
「あぁ。もっとごちゃごちゃしてると思いました?」
「汗の匂いが染みこんだ匂いがすると思ってました」
それが好きというわけではないが、と慌てて付け足したコスモスに笑いながらユートが「女の方もいますからね」と告げる。
それを聞いて納得したコスモスは訓練所に誰の姿も無いので首を傾げた。
騎士団の訓練所は城の敷地内にあるらしいのでここで練習をするのは警備隊の隊員だ。警備隊もそれなりに人数がいるはずなのにここには一人もいない。
あまりにも平穏過ぎて練習する人もいないのかと尋ねれば、ユートも不思議そうな顔をして首を傾げた。
「うーん。一人は必ずいるはずですけどねぇ。今日はいないなぁ」
「緊急の召集ならユート君も呼ばれてるはずだものね」
「ですね」
新人は腕を磨く為に毎日のようにここへ通って練習をするのだと言う。ユートも新人ではなくなったものの下っ端の一人には違いないので仕事上がりの練習は欠かさずやっているとの事だった。
つき合わせて悪かったわね、と申し訳無さそうにコスモスが告げれば彼は慌てた様子で首を左右に振る。
ウルマスから直々の頼みを蹴ってまでするような事ではないとあまりにも強く言うのでコスモスは笑ってしまった。
どうせなら今から練習するかと彼女が尋ねれば「御息女を放ってなどできません」と返される。
「見てるだけでも楽しいだろうから、気にしなくていいよ? 空気みたいなもんだと思ってくれれば」
「……勘弁してください。御息女に見られているなんて、緊張して無理です」
「じゃあ、その緊張を克服する為にも!」
「それはまた今度…こ、心の準備ができてからお願いします」
純朴で素直なユートをこうしてからかって遊び楽しんでいるコスモスはふと、弟のをことを思い出した。
一人暮らしをするようになって、顔を合わせる回数も減っていたせいかそれほど寂しいとは思わない。
薄情な娘だなと苦笑しながらコスモスはユートを見つめる。
「大体、御息女の声が聞こえる事も未だに信じられないくらいなんですよ? ウルマス様も交えて会話できていますから本当なんだって思いましたけど」
「あ、嘘だって思ったんだ? 幻聴とかアクマの囁きって思ったのかな? まぁ、しょうがないけど」
「いえ、ち違います! そうじゃないです! 本当です! 今のはつい、じゃなくて」
うっかりした失言をフォローしようとすればする程、深みにはまる。ユートも上手く嘘をつけないタイプかと思いながら気にしていないとコスモスは笑った。
しかしユートは両手をバラバラに動かしながら、バタバタと両足を動かして必死に弁明を続ける。
違う違う、と言いながら周囲を見回してコスモスを探すようにしている彼の姿は、はたから見れば変質者だ。頭がおかしくなったとしか思えないだろう。
「ユート。お前、ぶつぶつ呟きながら変な踊りして何やってんだ?」
(まぁ、そうよね。怖いわよね)
「あ、副隊長!」
ちょうど訓練所にて練習をしようと思っていたらしい中年の男性が入り口付近から冷めた視線を向けてくる。
それに気づいたコスモスはその人物が調査隊の隊長と同じだということに気づいた。
(あら、ナイスミドル! あ、でも私はもうちょい上でも大丈夫だわ)
中年とは言っても三十代だろう見た目を観察しつつ、コスモスは顎に手を当てて一人頷く。
変な踊り、と言われたユートは己の格好を冷静に見下ろして慌てて首を左右に振った。必死の形相で「違うんです!」と叫ぶ部下に副隊長は苦笑しながら頭を掻くと宙を見つめて何度も頷く。
「あー判ってる。アレだろ? アレがいんだろ?」
「は?」
(アレって、なに? え、ここって出るの?)
まさか幽霊か、幽霊だったらどこにいるんだとばかりに騒ぐコスモスにユートも目を大きく見開いて周囲を見回した。そんな部下の変な行動を眺めながら副隊長は彼に向かって手招きをする。
「あー、ユート。お前、今からヴレトブラッド邸に行ってこい」
「は?」
「お前をお呼びだそうだ」
「はっ!?」
人魂ならば似たような存在である幽霊も見えるかと思ったコスモスだが、周囲にそれらしいものは見当たらない。
驚いた声を上げて目を見開いているユートをそのままにして、彼女はいるはずの幽霊を探し続けた。




