29 天使か悪魔か
がっかりだ。
そう呟きながら愛くるしい容姿をした青年は、地面に転がる男たちを冷たく見下ろして剣を鞘に収める。
久しぶりに可愛い妹が帰ってきて、彼女の儀式も無事終わったというのに邪魔をするかのように現われた黒い蝶。
そのせいで妹はただでさえ病弱な体を更に悪化させ、長く寝込んでしまっている。
すぐ上の兄は猫可愛がりをしている妹が家にいてくれるだけで嬉しそうだが、彼は違った。
「何なんだろうね、本当に」
儀式前から妹は何かをひた隠しにしている。
きっとそれに気づいているのは次兄以外の家族だろう。
最初は自分につくことはないと言われていた守護精霊に関する事かと思ったが、どうやら違うらしい。
さり気なく探ってみるも勘付かれて笑顔で返される。
知らない振りをして首を傾げられれば、彼とてそれ以上聞くことができない。
彼女が父親以上に甘えられる存在の長兄に対してもだ。優しく、穏やかに長兄が彼女の心の奥に隠しているものを探そうとしても、固い壁に阻まれる。
家族にさえ隠し通したい事は何なのか、と考えながら彼女を見守り過ごす日々。
「ろくな情報は持ってない。そのくせ僕を攫おうなんて馬鹿じゃないの?」
外見で判断すると痛い目を見ると教えてもらわなかったのだろうかと思いながら、彼は自分を連れ去ろうとしていた男たちに溜息をついた。
その爪先を転がっている男の腹部にめり込ませ、彼は誰もが見惚れてしまいそうな愛らしい笑顔を浮かべる。
声は言葉に似合わず甘くて優しい。
彼の足元で呻いている男はくぐもった声を出すと大きく目を見開いた。
地面に倒れている数人の男たちのうち、意識があるのは愛らしい青年が見下ろしている小太りの男だけ。
「ぐぁ…っ!」
「僕さぁ、あんまり酷い事するのって好きじゃないんだよねぇ」
わかるかなぁと問いかける言葉は優しく、その表情は絵に描かれる天使のように美しい。
だからてっきり弱いとばかり思っていた男たちはこの有様だ。
(聞いてた話と、違うじゃねぇか!)
荒い呼吸を繰り返しながら小太りの男は心の中で叫ぶ。
とても簡単な仕事のはずだった。
その割りに報酬が高くてオイシイ話だったはずだ。
酒と女に金を使い、気がつけば明日の飯代すら無くなるような生活はいつものことで、困れば旅人を襲えばいい。
縄張りにしている街道を通る旅人を襲っては金品を強奪する日々がこれからも続くはずだった。
「どうせやるなら、もっとちゃんとしたプロを雇えばいいのにねぇ」
「くそっ!」
男が悔しそうに青年を睨みつけても彼はつまらなそうな表情をして溜息をつくだけ。
どうしてこうなったのかと男は歯軋りをしながら倒れている仲間たちを見つめた。
多くの旅人や行商人たちは整備されている大通りを通る。しかし、比較的安全な反面王都に着くまで遠回りになってしまうのが難点だ。
森を抜けるように作られたこの道はそれなりに魔物の出現も多いが王都に行くには最短距離で重宝されている。
その昔はここしか王都へ続く道はなく、旅人も多く見られたのが大通りが整備されてからその姿は少ない。
だからこそ盗賊たちの格好の餌場になるわけだ。
彼らは丈の長い草むらや木陰に身を隠し通りを歩く旅人を観察しては狙う獲物を定める。
いくら自分たちの数が多いからと言って、簡単に自分よりもレベルが上の者に手を出す馬鹿な真似はしない。
十数人を擁する山賊の頭となれば馬鹿が多いと思われがちだが、逃げ足も速く狙う相手を吟味しているからこそ未だ討伐されずにすんでいた。
まず装備品を見て脳内で金に換算する。
旅人であればその人数と構成を。商人であれば護衛の強さを遠目で確認して確実に仕留められるかどうか判断する。
実に当たり前で簡単な事だが、意外とこれを守らず自滅するものが多い。
襲撃する時は退路を断つように狭い道へと誘導し、挟撃する。目くらましに煙幕は必須だ。
荷物を奪うだけが目的なので基本的に人に傷をつけるようなことはしない。ただ、抵抗された場合は応戦するが命は取らないというのが組織内での鉄則だった。
それについては面倒だと不満の声を上げる者もいれば、つまらないと言って抜けるものもいる。だが、人殺しをしてしまった場合、警戒が厳しくなって仕事ができなくなってしまう可能性が高い。
治安が悪くなれば王都の印象も悪くなり、旅人は来なくなるだろう。そうなれば警備隊がやってきて自分たちは生死問わず討伐されるはずだ。
最近は荒稼ぎする奴が目立ち始めて、そろそろこの場所も危なくなっている。
「だから、本当に……知らねぇんだよ」
掠れた声で何とかそう呟いた男は緑玉の瞳で冷たく見下ろしている天使に死を悟る。今まで死ななかった事が逆に不思議かと思い笑えば、天使は不機嫌そうに眉を寄せて胸部を蹴り上げてきた。
細く折れてしまいそうな足だというのに、繰り出される蹴りは鋭く抉るような衝撃を与える。
自分で動かす事もままらなない体が軽く浮いて地面を転がった。
「ほんとに、知らないって。頼まれた……だけなんだよ」
「ふぅん。なんだ、本当にそれしか情報無いのかよ。使えない」
興味を失ったように溜息をついた天使が小さく何かを呟いている。男がそれに気づいた時にはもう遅く、彼の意識は暗闇へと飲み込まれていった。
これは、どうすべきなのか。
目の前の光景に頭が混乱して記憶を遮断したくなるコスモスだがそうもいかない。
洞窟から無事に外へ出たのはいいが、その先で目にした光景に言葉が出てこなかった。
幻でも見ているんだと自分に言い聞かせて隣にいたユートに意見を求めようとしたコスモスは、大きく口を開いたまま固まっている彼を見て穏やかに頷いた。
(うん、無理)
見てはいけない場面を目撃してしまったので二人は非常に気まずい気持ちでいっぱいだ。どう声をかけたらいいのかとタイミングを計りかねていれば、様子を眺めていたクオークが楽しそうに笑っている。
ざわざわ、と彼が纏う黒い蝶が羽を揺らしてその笑い声に合わせるように羽音を響かせていた。
彼が話しかけてくれればいいのだが、と様子を窺ってもクオークに動く気配は無い。ユートは口を大きく開けたまま天使様の行動を凝視している。
「ユート。ユート君。ちょっと貴方は後ろ向いてなさい。ほら、早く」
ケサランに手伝ってもらいながら固まったまま動かぬ彼の体を無理矢理反転させる。驚きの余り見つめてしまう気持ちは分かるが今後の彼の為を思えば見なかったことにするのが一番だろう。
消えないトラウマがこれ以上刻まれないように、と軽くユートの背中を叩いて視線を落とす彼にコスモスは息を吐いた。何かあったら心配なのでとりあえずケサランを傍で待機させておく。
深呼吸をして心を落ち着かせ、コスモスは大声で天使の名前を呼んだ。
「ウルマスー! ウルマスくーん!」
震えずいつもの調子で名前を呼べたことにホッとしながらコスモスは急いでウルマスの元へと駆けていく。
その声に鋭く反応した天使様は、悪魔のような所業を止めてくるりと振り返った。
「姉様!」
「無事だったのね、良かった」
とても心配しておりました、と言葉に滲ませて近づけば彼は天使のような愛くるしい微笑を見せてくれる。服の裾や手袋にこびり付いた赤黒い染みは見なかったことにしてコスモスは笑みを浮かべた。
乾いた笑いになりそうなのを堪え、地面に転がっている人々に目をやる。
「ええと、この人たちは?」
「山賊さんたちだよ。この辺ずっと荒らしまわってたんだって」
「そっかー」
「怖いよねぇ」
ゆっくりと近づいてきたクオークの姿を見た天使様ことウルマスはギョッとした表情をして一歩退く。気持ちが悪いと呟いた彼を一瞥してクオークは手際よく縛られた賊たちを見下ろした。
「ご無事のようでなによりです」
「どうも。人違いだったみたいだけどね、お馬鹿さんだよねぇ」
よりによって僕を攫おうとするなんてさ、と楽しそうに付け加えウルマスは笑う。訳が判らないがとりあえず合わせるように笑ったコスモスの視界に、ケサランに押されながらやってきたユートが映る。
彼は未だ混乱したような表情で目の前の光景を見つめていたが、ハッと我に返ると慌ててウルマスに土下座した。
「ウルマス様! 危険な目に遭わせてしまい、申し訳ありませんでした」
「ウルマス、できれば怒らないであげてね。腹立つのは判るけど」
「大丈夫だよ。誰も君のせいだとか思ってないから。寧ろ、こんな目に遭わせてくれてありがとうって敵には感謝しなくちゃ」
ふふふ、と可愛らしく笑いながら嬉しそうな笑みを浮かべるウルマスにコスモスとユートは冷や汗が止まらない。地面に頭を擦り付けていたユートは優しくかけられる声に顔を上げて目を大きく見開く。
遠目でしか見たことの無い存在だったウルマスの、あまり見ることのできない綺麗な微笑み。
容姿が整っているだけに男女問わずつい見惚れてしまうのも仕方がない。
「え…あの……」
「怒ってないから大丈夫だって。ほら、ユート君立って。まだ仕事は終わってないよ」
「は? あ、はい!」
言われるがまま立ち上がったユートは、震える体を叱咤して力強く大地を踏みしめた。今日一日で色々な事がありすぎて夢の中にいるようだ。
だがまだ自分の役目は終わりではない。
「では、このまま王都の……」
「いいや。王都には伝令を飛ばしておいたから大丈夫。このまま敵を締め上げに行く」
「しかし!」
(敵を締め上げにって、コレだけじゃないのか)
コスモスとユートのやり取りを無言で聞いていたウルマスは、ホッと安堵した表情をするユートにそう告げると大きな瞳を細めた。
緑玉が鋭く光り、人差し指を口元に当てた彼は地面に転がっていた賊を見下ろして「言いたい事は判っている」と答える。
自分の立場を理解しているのならば、このまま王都に戻ってしかるべき人物たちに頼むべきだ。しかし、事は急を要しており幸いな事にこの場にはマザーの娘であるコスモスもいる。
己の戦闘力と彼女の未だ判らぬ力を合わせれば何とか乗り切れるだろう。しかし、万全とは言えないのも事実。
「ユートはアクシオン氏を王都まで護衛してくれ。僕は姉様と別行動をする」
「しかし、それでは!」
強い意志を持った瞳でユートを見つめれば気圧された彼はそれ以上何も言えなくなってしまう。ウルマスは彼の従順な態度に満足するとコスモスを呼んだ。
「ごめん、姉様」
「あーうん。いいよ。仕方ない」
何があったのかは知らないが厄介事には変わりないだろう。そして、ここまでウルマスが真剣な表情をするのだから相当切羽詰った事に違いないと予想する。
自分に残れと言ったのは戦力的に頼りにされているんだろうとコスモスは小さく息を吐いた。
「ユート、よろしく頼むね」
「……はい」
ウルマスに頷いてクオークを王都まで護衛することになった彼は、静かに息を吐くと気持ちを切り替えるかのように先程から黙っている研究者に目をやる。
「ちょっと、待ってください」
ウルマスはコスモスと敵を締め上げに、ユートはクオークと王都へ。
それぞれ別行動をしようという時にクオークはゆっくりと手を上げてそれぞれの動きを止めた。
苛々するように小刻みに右足で地面を踏みつけているウルマスは不機嫌さを隠そうともせず、焦らすようにゆっくりと息を吐いたクオークを見つめる。
「なにやら相当にマズイ状況になったと推測しますが、それでよろしいですか?」
「答える筋合いはありません。申し訳ありませんが貴方は他国からの大切な来賓です。その身になにかありましたら困ります」
「私の事は結構。この身に何が起ころうとも責任を押し付けはしません」
「そういう問題ではないのです」
何があったのかを口にする事はなくウルマスは眉を寄せてクオークを引き下がらせようと彼を睨み上げる。他国の介入を拒む程の事ならば国の一大事か。
段々と厄介事のレベルが上がっていくな、と他人事のように思いながらコスモスは二人の様子を眺める。
「なるほど。ならば私が他国者というのが問題なのですね」
「うーん。ウルマス、面倒だから連れて行かない?」
「駄目だよ。これだけは、駄目だ」
確かに他国のクオークを一緒に連れて行ったら何かと面倒な事になりそうだ。だがコスモスとしてはその事でクオークがミストラルに害を与えるような事をするとは思えなかった。
確証は無くそこまで親しいわけでもないので保証はできないが、ここでこの狂喜の研究者が大人しく王都へ戻るとも思えない。
黙って尾行されるかもしれないくらいなら、最初から一緒に行った方がいい。
(困ったらマザーに何とかしてもらおう)
「ウルマス。他国が知ったらまずい事になりそうなくらい、厄介事なのね?」
コスモスの声はウルマスとユートにしか聞こえない。
口を開く事なく小さく頷いたウルマスにユートはビクッと体を大きく震わせて唇を噛み締めた。そこまでの一大事でウルマスが自分から行くと言い出すのならば考えられる事は絞られてくる。
ソフィーアの姿が頭に浮かんで彼女に関係する事かと尋ねれば、彼は静かに顎を引いた。
「誘拐されたわけじゃないのね?」
嫌な予感を払拭するようにそう尋ねるコスモスにウルマスは「それはないよ」と少しだけ優しい声で答える。
厳重な警備がされているとはいえ、誘拐しようと思えばできるだろう。
そうだとしても何が目的でソフィーアを狙うのかが分からないと思いながら、コスモスは沈黙するユートと冷静にウルマスを見つめているクオークに気づいた。
「ウルマス。悪いけど、彼は何があってもついてくると思うわよ。撒こうとしても無駄でしょうね」
「……」
「うーん」
コスモスはユートの傍に移動すると彼の耳元でこそこそと何事かを囁く。驚いた表情をしたユートだったが、背後から軽く突かれるので仕方無さそうに口を開いた。
「あ、あの御息女が血判のようなものを書いていただいたらどうか、とおっしゃっていますが」
「は?」
「ふむ、なるほど。そこまでですか」
「……ええ」
その程度の情報を与える事すら本当は嫌なのだろう。ウルマスの愛らしい表情が少々凶悪なものへと変化している。
顎に手を当てながら何やら考えている様子だったクオークは、ユートを見つめて大きく頷いた。
「分かりました。残念ながら契約に必要な道具は持ち合わせておりませんので……」
「ユートが王都まで護衛します。どうぞお気をつけて」
「いえ、簡易契約ならばできますからひとまずはそれでお願いします」
一礼をして見送ろうとしていたウルマスは大きく瞬きをしながら黒い蝶を纏わせる研究者を見上げる。話が噛み合わない上にこれでもまだ退かないのかと視線をぶつからせるが相変わらず折れる気配はない。
急いでこの場から立ち去ったとしても、この癖のある研究者ならば後をつけてきそうだとウルマスは眉を寄せた。
「簡易契約? 何とですか。僕はごめんですよ」
「当然、貴方とではありません。ここに適任者が一人いらっしゃるではないですか」
「あーそうなるわけ」
ウルマスとクオークの間で契約すればいいだけの話だが、ウルマスは拒絶しクオークもその気持ちを汲んで無理にとは言わない。
寧ろ、好機とばかりに眼鏡を光らせ口の端を上げるクオークにコスモスはやる気のない声でそう呟いた。
「本当申し訳ないけど、私もお断りしたい人物なのよね……」
「申し訳ありませんが姉様が嫌がっていますので」
「嫌がる? はて、私は何か嫌がられるようなことでもしたでしょうか」
心当たりがないと首を傾げて真剣な表情で考え始めるクオークにウルマスは盛大な溜息をつく。
彼もクオークを苦手としているのだろうと察したコスモスは、何かいい手はないかと考えた。
「あの、もしかしたらその黒い蝶かもしれないです」
小さく手を上げたユートが恐る恐るといった様子でそう告げる。黒い蝶を纏わせたクオークは自分の様子をゆっくりと確認して頭に手を当てた。
「なるほど。儀式を汚した黒い蝶をこうして纏わせている私を嫌がるのは当然ですね。しかし、これはこれで使いようがありそうなので払うようなことはしたくないのですが……」
「分かりました。僕と契約をかわしてください。簡易であれ、血判があり証人がいるなら問題ないでしょう」
(ウルマス?)
静かに息を吐いたウルマスはいつもより冷静な様子で懐から何か紙のようなものを取り出した。
絵を描くのが好きらしくペンと紙は常に携帯していると教えてくれたウルマスに、クオークが表情を曇らせる。
サラサラ、と紙にペンを走らせて署名するウルマスは笑顔でそれをクオークへ差し出した。
あれだけ嫌がっていた彼らしくもないとコスモスはウルマスを見つめるが、その笑顔からは何も読み取れない。
「どうぞ」
「真に申し訳ないのですが、御息女以外との契約であればお断りします」
「そうですか。ならばユートと共に王都へお戻りください」
「私が勝手についていくならば、問題ないでしょう」
「それが困るんです」
穏やかな雰囲気を取り戻したウルマスだが、目が笑っていない。
クオークの狙いが分かったと笑顔で告げる彼にコスモスとユートは揃って首を傾げた。
「貴方は危機的なこの状況を利用して姉様と契約を結ぶことを狙っていますね?」
「……そうだとしても、それが貴方に関係あるとは思えませんが」
「そう言われても、姉様は僕にとっても大切な存在ですから。嫌がるようなことを無理矢理させるわけにはいきません」
この場で言い合っている時間があるなら、自分が折れてさっさと移動してしまいたい。
そんな考えになりながらも中々言い出せないコスモスは二人の様子を窺った。
「マザーは現在ミストラルにおられますが、御息女の所属は恐らく教会なのでしょう。元々教会は国家とは違う独立した立場にありますし、貴方がそこまで深入りする理由もないのでは?」
「確かに個人的感情です。しかし、姉様と契約するとして貴方の利益はなんですか? なにより姉様が嫌がっています」
(クオークはただの興味本位から私と契約したいって言ってるのかと思ったけど、それにしてはしつこいかな?)
また違う目的があるのだろうかと考えるコスモスの目の前で、ウルマスとクオークの両者は睨み合ったまま動かない。
ユートはどうしていいか分からず、おろおろした様子で二人を交互に見ていた。
「それに、マザーの娘である姉様と契約したいのであればマザーに了解を得てからでは?」
「……」
王都に戻ればマザーがいる。許可をとってから出直せと言外に含むウルマスは落ち着いた様子で眉を寄せるクオークを見上げた。
ウルマスはにっこりと綺麗な笑みを浮かべ、クオークのコートにとまっている蝶たちを指差すと蝶は静かに羽を動かした。
「黒い蝶の採取も簡単に終わっている様ですし。あとは王都に戻られて黒い蝶についての研究をしてくださるとありがたいのですが」
「確かにマザーに了解を得るのが正式でしょう。しかし、この状況ではそうも言ってられないのでは?」
「つまり、クオーク殿はこの国を脅すのですか?」
「それは少々言葉が乱暴すぎるかと。簡易契約については貴方もよくご存知だと思いますが」
(クオークはどうしてそこまで私と契約したいんだろう。普通、ここまで言われれば退くよね?)
「知っていますが、あまりにも馬鹿げています」
簡易契約だの、何だの判らぬ単語だが契約という名が付く以上両者の合意によって成り立つものなのだろう。
二人の会話を邪魔しないようにコスモスがユートに尋ねてみれば、彼は難しい顔をして「判りません」と答えた。
(こんな事してる時間あるのかなぁ。折れてもいいやと思ったけど、簡単に了承すると面倒な事になりそうだし……)
「あ、あの。御息女が、自分との契約の件はウルマス様が用意した契約書にサインしてからだとおっしゃっているのですが」
「御息女が?」
「はい。話はそれからだ、と」
「つまり、貴方が本当に信頼するに値する人物かどうか確かめさせてもらうってことかな?」
互いに一歩も退かず火花散る睨み合いをしている二人は揃ってユートを見つめる。背筋をピンと伸ばしながら小さく手を上げる彼の隣で、コスモスはウルマスに聞こえるくらい大きな溜息をついた。
ふ、と表情を和らげたウルマスは笑いながら持っていた紙とペンをクオークに差し出す。
「そうですね。信用できぬ者との契約など言語道断。申し訳ありません。万に一つの好機に興奮して取り乱してしまいました」
深々と頭を下げるクオークにウルマスは「気にしていないよ」と明るく告げる。
受け取った紙にサラサラとペンを走らせたクオークは、懐から取り出したナイフで親指を軽く傷つけると名前の隣に強く押し当てた。
ユートとコスモスにそれを確認させたウルマスは、紙を折りたたんで懐へとしまう。
効力はどれほどのものか分からないコスモスであったが、安心したようにユートと同時に息を吐いた。




