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27 ただの兵士です

 これは悪い夢だ。


 そう思わずにはいられない現状に、兵士は項垂れた。

 怒鳴られ、叱責されるのを覚悟していたのにそれすらできない。

 落ち込むより先にやるべきことをしろと尻を叩かれているような感覚に、彼は近くでぶつぶつと呟く声に耳を傾けた。

「うわー、まさかここにきて退路を塞がれるとは。いよいよ何かいるって予感がするわ」

 心なしか少し楽しげな声の言う通り兵士の目の前には土と岩の壁がある。

 さっき通ってきたばかりの道が完全に塞がれてしまったのだ。

 己の運のなさを嘆きながら兵士は頭を抱えた。

 いくら叫んでも返事はない。ここで助けが来るのを待つかと提案しようにも、研究者の興味は塞がれた通路にはないようだ。

「とりあえず、先に進まない? 戻ってくるの遅かったら様子見に来るだろうしさ。私たちじゃどうやってもこれは取り除けないでしょ?」

「いや、でも……安全が確認されないままでは」

「今の状況も安全とは言いがたいけどね。ウルマスがどうなってるのかも分からないし」

「あ……あぁ」

 国賓と王族の案内役というのは誰にでもできる簡単な仕事のはずだった。

 しかし、その簡単な仕事すらまともにこなせない自分が情けなくて兵士は力なく肩を落とす。

 視線を落として目に入るのは腰からさげている剣だった。

 高価ではない、大量生産されている剣は入隊記念に父親から渡されたものだ。基本的に武器は警備隊から支給されるので自分で買い揃える必要はないのだが、個人で揃えても問題は無い。

 お守りも兼ねて傍に置いていた剣を、成人の儀に合わせて佩くことに決めていた。

 父親がへそくりを貯めて自分の為に買ってくれた大切な剣だ。

『お父さんたら、貴方が警備隊の入隊試験に合格したからってはしゃいじゃって』

 困った人だわと唇を尖らせて笑っていた母親も、どこか嬉しそうにしていたのを思い出す。

 有名になれなくてもいい。

 誇れる息子でありたい、との思いは傲慢だったのか。

「はいはい、とりあえず先に行こう? 誰か一人残って何かなると夢見悪いし」

「えっ……」

「いや、そりゃ私だってあの研究者は置いていきたいなって思っちゃうわよ。でも、あれでも一応国賓だからね」

 この件が片付いたら職を解かれるんだろうなと思っていた兵士は、全く危機感のない声にぽかんと口を開けた。

 流石は精霊と言うべきなのか、こんな状況でも全く動じた様子は見られなくて兵士は感心してしまった。

「そう、ですね」

「うん」

 離れた場所に立ち一人でぶつぶつと呟いていた研究者に兵士が先に進むことを告げる。

「ウルマス様の姿が見当たらない上に、戻ろうにも出入り口付近が土砂で塞がれてまして…」

「おや、それは大変な事になりましたね」

「楽しそうだな反応だなぁ」

 大変だって思ってないだろ、と兵士の隣で突っ込みを入れるコスモス。

 兵士は自分にだけ聞こえている声をできるだけ無視しようとするのだが、中々難しい。

「それで、思い出したのですが今は昔使っていた出入り口があるはずなのでそちらから外へ出ようかと。今は使用されていないのであるかどうかも分かりませんが」

「いえ、この洞窟の管理状態から見ればおそらく旧出入り口はそのままになっているはずでしょう」

「そうだといいですが。あ、あのこんな事になってしまって、申し訳ありませんでした」

 深々と頭を下げる兵士の後頭部を見つめていたクオークは「ふむ」と呟いて背を向ける。その音に慌てて顔を上げた兵士が戸惑っていればクオークが軽く肩を竦めた。

「脱出するのでしょう? このまま先に進めば良いのですね?」

「あ、あの」

「謝罪はしなくて結構。調査を怠り油断していた我々にも非がありますからね。それに第一、一兵士の貴方に責任をとらせるつもりもありませんよ」

 責めたところで何もならないでしょう、と冷めた視線を向けてくるクオークに兵士の体が縮こまる。何も言えずにそのやり取りを見ていたコスモスはポンポンと兵士の肩を叩くと慰めるように頭をくしゃりと撫でた。

「今は脱出が第一。狂喜の研究者もそう言ってるんだし、行こう?」

「……はい」

 得体の知れぬものに触れられたというのに恐怖は感じない。寧ろ、懐かしい気持ちになって兵士は泣きそうになるのを歯を食いしばって堪えた。

 こんな所で泣いている暇はないのだから。

「じゃ、私が先導するからついてきて!」

「いえ、それは私の役目ですから」

「言う事は立派だけど、震える足で言われても可哀想なだけなのよね」

「す、すみません」

 小さく笑いながら兵士の額を突くコスモスの指に黒い蝶が止まった。

 彼女は自分の姿が見えているのだろうかと思いながら蝶を見つめるが、それは触覚を小さく動かすだけ。

 周囲の壁に張り付いている黒い蝶を横目に観察していれば、目の前を一匹の蝶が通り過ぎる。

 尾を引くような光の粒子を目で追えば、その蝶は回転するように上昇して飛んでいた他の蝶たちを蹴散らしてゆく。

「わお……」

 羽の模様と大きさは他の蝶と何ら変わりがないはずなのに、纏う色が違う。

 黒い蝶も自分たちとは違う種類だと判るのか、その蝶の近くに寄ろうとはしない。近づけば逃げ、遠巻きに様子を窺うように一定の距離をとっていた。

「あの、どうかなされましたか?」

「あ、ごめん。蝶が気になって」

「一体の戦闘能力は低いですが、群れで来られると鬱陶しいですね」

「そうなのよ」

 気づけば音もなく目の前で停止飛行していた蝶がじっとコスモスを見つめるようにしていた。光の粒子を零しながらゆっくりと羽ばたく綺麗な羽に恐る恐る触れてみるが軽く動いただけで消える事は無い。

 立てた指に止まった黒い蝶を退かすようにしてその場を奪った幸福の蝶は、満足した様子で羽を閉じる。

 体当たりされて退かされてしまった黒い蝶は、淡く光って消えた。

「美味しくもないし、腹にもたまらないのよね」

「え?」

 指から手の甲へと移動する蝶に話しかけてコスモスは会話ができればいいのにと思う。しかしケサランとパサランでさえもまともに会話ができていないのだから無理な話かと溜息をついた。

「少々、よろしいですか?」

「は、はい」

 スッと手を上げたクオークが前を歩いていた兵士に並ぶ。

 首を傾げながら顔を覗き込まれた兵士は身を震わせながら数歩退いた。

 無言で顔を近づけられたら誰でも驚く、と同情しながらコスモスは動きを止めて二人の様子を見ていた。

「あ、あの?」

 切れ長美形に凝視されて身動きが取れない兵士は必死に声を絞り出し、何かあったかと尋ねる。

 やはりこのような状況になったことが許せないのだろうかと兵士が思っていると、クオークは目を鋭くさせ彼に問う。

「何か、いますね?」

「え?」

「え? 何かいるの? 蝶の他に? おかしいな、そんな気配は今のところないんだけど」

 何か魔物でも潜んでいるのかと周囲を見回した兵士に、コスモスも慌てる。

 蝶の他に何かいるのかと聞く兵士にクオークは眉を寄せて大きな溜息をついた。

「貴方は大きな独り言が得意なのですか? 見たところもう一人の人物の方が冷静のようですが」

「はぁ」

「あー、私のことか」

 何かいるのかと思ってびっくりしたと呟くコスモスに、そう言うことかと兵士も頷く。

 あまりにも普通に会話していたせいでクオークにその姿が見えないということを失念していたのだろう。

 どう説明したらいいのか、と悩む兵士の耳に幻覚が見えてることにしようと提案するコスモス。

 いくらなんでもウルマスと親しい精霊を幻覚扱いするわけにはいかないと却下されて、彼女は残念そうに溜息をついた。

「あの、恐らくそれはウルマス様と会話されていた精霊……かと」

「何ですって!」

「うわぁ……」

 クオークが大きく目を見開いたかと思えば大声を上げて見つめてくる。その目は血走り、ギリギリと歯軋りの音が聞こえて兵士は小さく震えた。

 泣かぬと決めたはずだが、もうすでに泣いてしまいそうだ。

 クオークに纏わりついている黒い蝶が兵士の肩や腕に止まる。ゆっくりとその数を増やし、己の姿が黒く染まりつつあるのを見て彼は声にならぬ声を上げた。

「ご、ごめんなさい。申し訳ないです。俺も何が何だか判らないです!」

「あぁ、ちょっと。怖がってるんだからやめなさいって」

 大した攻撃力は無いが、全身が徐々に黒い蝶に埋め尽くされる様を見るのは精神的に辛い。恐怖で上手く身動きができないでいる兵士の代わりに、コスモスが張り付いている蝶を払ってやる。

 軽く撫でるだけで消えてゆく蝶を見たクオークは、胸部に受けた衝撃に「カハッ」と大きく目を見開いた。

 スキンシップと称してケサランが体当たりしたせいだ。

「戻っておいでケサラン。ちょっとは正気に戻ったでしょう」

「あ、あの」

「大丈夫よ。あの程度大した事じゃないわ」

 硬直が解かれた兵士が自分の肩や腕に止まっていた蝶を払う。だが、蝶はひらりと逃げるばかりで消えはしなかった。

 攻撃はしてこないしその攻撃力も大したものではない。それは先の儀式の一件で判ってはいるが集団で纏わりつかれるとろくに身動きがとれぬので厄介だ。

 魔力の素質がもう少しあれば一気に消せたのだろうかと彼が思っていると、クオークがその体を大きく震わせているのに気づいた。

「ああ! 御息女がいらっしゃるのですね……そして、貴方はその声を聞けると!!」

「は? ごそくじょですか?」

 自分の知らない精霊の類だろうかと間の抜けた声を出す兵士に対し、地面に膝を付いたまま呼吸を整えていたクオークはそのまま頭を地面に打ち付ける。

 またか、と慌てて止めに入った兵士にクオークは額から血を流しながら目を爛々とさせていた。

「怪我の手当てを」

「……必要ありません」

 黒い蝶を纏い、従え、目をぎらつかせながら頭から血を流している姿は恐怖そのものだ。暗がりから出てきたら魔物か何かと間違われて攻撃されても仕方が無い。

「あぁ、何で……どうして私は聞けぬのですかっ!!」

「あのそれは自分も」

「はーい、ちょっと待った」

 自分もそんな素質は無いですと続けようとした兵士だったが、割って入った声に遮断された。ぴしゃり、と告げた彼女は続けて静かに言葉を紡ぐ。

「目の前のクオーク氏は見ての通り狂喜の研究者。けれど精霊や霊の類は一切見えないの。本人が焦がれるほど見たくてもね」

「え、でもだからそれは自分も」

「そこで貴方が『俺も見えなかったんですけど、突然見えるようになっちゃいました☆』って言ってごらんなさい。平兵士如きが生意気な、と逆恨みされるだけよ」

 静かに紡がれた言葉に兵士は開いていた口を静かに閉じる。その光景が容易に想像できたのだろう。心なしか表情が青褪めていた。

 自己防衛の為に軽く兵士を脅したコスモスは、元から霊感が少々ありました程度にしておけと囁いて何度も頷く彼に微笑む。

(事が大きくなってマザーに怒られるの嫌だからなぁ。それに、認識できる人は私が自由に選べますなんて知られたら面倒なことになりそうだし)

 兵士に接触して会話できるようにしたのは、緊急事態だったから仕方がない。他国より自国の兵士なのでそんな問題は無いだろうと彼女は口の端を上げた。



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