25 6帖ワンルーム
暗闇の中、ひらりと蝶が飛ぶ。
紫色に淡く光った輪郭は確かに蝶の形をしていた。
「……あらあら」
前方にいるケサランが発光しているお陰でランタンがなくても視界が暗闇に塗りつぶされることなく、恐怖が薄れる。
大きく瞬きを繰り返したコスモスの視界がはっきりとしてくるにつれ、彼女は首を傾げながら道なりに歩を進めた。
一本しかない道の先に開けた空間があるのだろう。誰かいるのか、光が漏れているのが離れた場所からも分かる。
(うわぁ、当たりか)
さっさと終わらせて戻ろうと彼女は脇目も振らずケサランに速度を上げるように告げた。
地面を蹴って飛ぶが音はしない。
途中で何かしらの妨害に遭うかと思ったがそんな心配はなかった。
あっさり開けた場所へと出たコスモスは、先に到着していたケサランが軽く飛び跳ねるのを見て呟いた。
「部屋?」
六帖ほどの場所に、机と椅子、大きなランタンとベッド、それに少しの食料と本が数冊置かれていた。洞窟内にはそぐわない物ばかりで生活感漂うその場所にコスモスは首を傾げる。
誰かがここに隠れて住んでいるにしても気配がない。ちょうど離席中なのかと思いながら見回していると蝶を発見する。
隅に置かれている大きな樽に止まっているのはあの黒い蝶だ。上蓋に乗せられた白い器に群がる様は少々気持ち悪い。
(洞窟内に蝶はいない。でも、ここにはいる)
椅子に掛けられた薄汚れた布。机や椅子、ベッドはどうやってここへ運んだのだろうか。魔法は何でも出来るのかと思いながら出来の良いそれら家具を眺める。
使用されている木材は安価で手に入りやすいものだが、作りが丁寧で綺麗に処理されている。
「うーん」
置かれているものを色々調べてみたいとは思うが、下手に触ると何が起こるか分からない。
ここを使用している人物が罠を仕掛けている可能性もあるからだ。
ケサランもパサランは警戒する様子はなく、暢気に歌を歌っている。
「ワンルームって感じよね。うちより狭いけど埃が溜まってる様子もないし、ランタンに明かりが灯ってる」
煌々としてその場を照らしているランタンのお陰で、陽の光が入らぬこの場所でも昼間のように明るい。暮していくのに不自由は無さそうだが、問題はここに住んでいる人物だ。
「となると、戻ってくる可能性が高いのかな?」
室内を飛んでいる蝶が黒い蝶ならば、その住人が関与しているとしか考えられない。
どうするかはウルマスやクオークが考えるのだろうとコスモスは一つ頷くと、黒い蝶をじっと見つめた。
今日は調子がいいとソフィーアは笑みを浮かべた。
しかし、油断すればすぐに体調を崩してしまうのでベッドの上からは動けない。
苦くて量の多い薬を飲み干したソフィーアは一息ついて侍女のサラから水を貰う。
随分と顔が良くなってきましたね、と微笑む彼女にソフィーアは謝った。教会に移った時も熱が下がらず数日間寝込んだことがあった。
けれど、家には知られたくなくて強がって無理をしてサラに怒られたものだ。
あの時に比べれば少しは逞しくなったと思っていたソフィーアだが、気のせいだったようだと苦笑する。
「早く良くなりませんとね」
「そうね」
出してもらう食事の量は教会にいた時よりも少ない。
一人分さえ食べれぬくらい食が細くなった事に衝撃を受け、頑張って食べようと詰め込めば体が耐え切れぬとばかりに戻してしまう。
結局無駄にしてしまったと落ち込むソフィーアにサラは次の食事から彼女が食べられる量だけを用意してくれた。
この場にコスモスがいたならば「残すの? 残すなら貰ってもいい?」と聞いてくれるのだろうか。
自分が食べかけたものを彼女に渡すというのは非常に気が引けるのだが、コスモスはそれを気にしていない様子でペロリと平らげる。
一度それをサラに咎められた時には自分が悪いのだと庇ったが、結局コスモスにも申し訳ないと謝られてしまった。
(あの方は、人が食べたものを食べるのは平気なのかしら)
自分だったら到底できないことだ。
立場が立場だけに毒が盛られているという場合もある。事実、過去には何度かそういう事があったと使用人たちが噂しているのを耳にした。
「あの方は、今何をしていらっしゃるのかしら」
体調が落ち着いてきてこのままで行けば無事に教会へと戻れるかと思っていた矢先、突然高熱を出して数日間魘されていたのだ。
その日にも彼女が見舞いに訪れていたとは長兄から聞いていたが、前回会った日から随分経ってしまっている。急にあんな熱さえ出さなければ、と思いながらソフィーアはグラスの水を飲み干した。
(儀式を成功させる為にあの方は力を貸してくださったのだもの。常に傍にいていただけるなんて、おこがましい)
そう、彼女は自分の守護精霊ではない。
守護精霊を持てぬ自分を補助する為に、マザーに頼まれた彼女の娘。
コスモスがどこで何をしていようがそれは彼女の勝手だ。アレクシスのようにもっと頻繁にその姿を見せて欲しいと思うのは我儘だとソフィーアも判っていた。
「ウルマス様と外出されましたよ」
「ウル兄様と?」
「はい。何でも、暫く帰って来られないとか」
体調が悪く自由に動けない自分に代わって、城下町を詳しく見てみたいと言っていたコスモスの願いを叶えてくれるようにと兄には頼んでいる。
すぐ上の兄は年齢が近いせいもあってかソフィーアも色々とお願いしやすい。
『一緒に町を散策したいね。元気になったら案内して欲しいな』
コスモスにとったら少女を元気付ける為の言葉だったのかもしれないが、その日が来るのをソフィーアは心待ちにしていたのだ。
いつも以上に規則正しい生活を送り、苦い薬も全て飲み干し、言いつけを守って静養する。
診察に訪れる医師はあと暫くすれば熱も下がるだろうと言っていたので、体力が回復したらどこをどんな順番で回ろうかとさえ考えていたくらいだ。
それだというのに、ささやかな楽しみを阻害するような突然の高熱に運のなさを自覚する。
楽しみに待っているだろうコスモスを思ってウルマスに案内をお願いしていた。
本当は自分が一緒に行きたかったのだと恨めしそうに頼んでくる妹に、ウルマスは苦笑しながら彼女の頭を優しく撫でて「丁重にご案内するよ」と告げたのを思い出す。
(暫く帰ってこられない? では、散策しているわけではないのね。でも、ウル兄様とコスモス様がどうして一緒に?)
自分には何も知らされていない。それはきっと、心配をさせないようにと配慮されているからだ。
だとすれば何だろうとソフィーアは考える。
(……あの、蝶?)
サラに聞けば彼女は知らないと申し訳無さそうに答える。いいのだと笑みを浮かべて軽く手を上げたソフィーアは儀式の事を思い出した。
視界一面の蝶。
真っ黒に埋め尽くして、不快だと思ったあの感覚が蘇る。
一人きりであの場に立っていたならばきっとすぐに気を失って倒れてしまっていただろうとソフィーアは思う。
しっかりと立っていられたのは、背中に感じる確かな温もりと精霊の存在だ。
一人ではない。傍で支えてくれる人がいるというだけで、あれほどの力が湧いてくる。
それが不思議で、けれど嬉しくて温かかった。
(結局は力を受け止めきれずにこうなってしまったけれど。それはあの方が悪いのではなくて、器の小さい私が悪いのだし。マザーもこの程度で済んで良かったとおっしゃっていたのだから、幸運だと思わなければ)
自分が生まれた意味に『何故』とは言いたくない。
この世界に生まれ、育ち、周囲の愛情に支えられて無事に成人まで迎えられたのだ。それにこの程度の災難は大した事ではない。
守護精霊が持てぬと告げられた時にはこんなに落ち着いていられなかったのだからとソフィーアは小さく笑う。
ただでさえ病弱で、その上“姫”という役割さえまともにこなせぬ己に苛立ち、傷つき、深く落ち込んだ日々の方が酷く辛かった。
周囲が優しければ優しいほど辛さは増す。
今回もお披露目を終えれば後はソワレに出て、挨拶をしながら来賓の方々と話すだけだったのに多くの人に迷惑をかけてしまった。両陛下にも父親にも家族にも、この国に来訪してくださった方々にも申し訳なかったとソフィーアは溜息をついた。
(対応はお父様がしてくださっているけれど、本来ならば私がちゃんと……)
見舞いに訪れてくれた方々は見たことも会ったこともない人物ばかりだったが、これも勤めとソフィーアは笑顔で穏やかに応対していた。
粗相があってはならぬ、と丁寧に対応したのが裏目に出て二度三度と押しかける輩が増えてしまったのだが彼女が知るわけも無い。
(せめて、見舞いに来てくださった方への対応だけでもちゃんとしたいのに)
無理だと分かっているけれど思わずにはいられない。
少しくらいの無理をしても体調はひどくならないと言っても父親と長兄に優しく宥められるだけ。
すぐ上の兄に愚痴を零せば、次兄が居座ってもいいなら好きにすればいいと笑顔で言われてしまう。
(アレクシス様にまで何度も迷惑をおかけして……イスト兄様の心配性も考えものだわ)
「ふふ、百面相をしてどうしたんだい? 調子が悪いようには見えないけど」
「あ、アレクシス様!」
「アレクでいいよって言ってるのに。君のお兄様方はそう呼んでくれているのだし。まぁ、イスト様だけは相変わらず呼んでくれないけど」
頬を膨らませてこの場にはいないすぐ上の兄に「ずるい」と念を送っていれば、いつの間にかいたのか爽やかな笑顔を浮かべたアレクシスがこちらにやって来る。
ノックをして声をかけ、サラに案内されてソフィーアにもちゃんと声をかけたのだと告げた彼にソフィーアは口を手で覆った。
膨らませていた頬を慌てて萎ませると、懐かしそうに目を細めた彼がじっと彼女を見つめる。
サラは部屋の端でお茶の用意をしながら二人へ穏やかな視線を向けていた。
「アレク、様」
「呼び捨てでいいんだけど……まぁ、仕方ないか。それにしても、淑女らしく振舞っている君らしくもないね。百面相とは」
面白いものが見れたと呟いて笑う姿はキラキラと輝いていてソフィーアには眩しく映る。
彼は昔からそうだった。生命力に満ち溢れていて、いつも自分を引っ張っていってくれる眩しい存在。
そう言えば幼い頃の自分は随分と彼に依存していたのかもしれない、と過去を思い返してソフィーアは目を細めた。
「振舞っているとは失礼です。それに、誰しも仮面をつけているものでしょう? 成人ともなれば尚更、立ち居振る舞いに気をつけなければならないのは当然のことです」
「ふふふ。そうだね」
ツンと肩を聳やかして背筋を伸ばすソフィーアに、慣れた様子で椅子を手にしたアレクシスは腰を下ろしながら穏やかに笑う。
小馬鹿にされているような気がするのだが、それを表情に出すのも悔しくてソフィーアはそのままゆっくりを首を傾げる。
「アレク様は、ウル兄様がどこへ行かれたかご存知ですか?」
「……恐らく君が考えている通りだと思うけど」
「……」
「悔しい気持ちは判るけど、仕方ないのも判るよね?」
同じ国に住んでいるわけでもないのだから共に過ごした時間は少ない。屋敷から教会へと移った時には縁も途切れるのだとばかり思っていたのに、まめに手紙をくれたアレクシス。
黒く塗りつぶし、検閲されたのだと判る手紙を頻繁にくれるのでソフィーアも律儀に手紙を返していた。
他人に読まれる事を知っても尚、どうしてまめに手紙をくれるのかと尋ねた事もあったがそれについての返事は一切なかった事も思い出す。
はぐらかされたのか、それとも自分が書いた文章が黒く塗りつぶされてしまったのか。
「理解しています。ですから、余計に悔しいのです」
「やっと成人の儀が無事に終わったのだから大人しくしていないと、エルグラード様やお兄様方がまた心配してしまうよ? 両陛下も倒れられてしまうかもしれない」
「そんなこと!」
「君は、君が思っている以上に色々な人に愛されている。見ていて羨ましくなるくらいにね」
できる事が増える度に、欲も増える。
だからこそ自分を戒めて慎ましくしなければと思うのだが、焦がれる気持ちは心の隅に残ったまま消える事はない。
彼の妻になるという事もその一つだとソフィーアは胸の内で溜息をついた。
誰か知らぬ男の妻になっても文句など言えぬ立場だというのに彼は自分を妻にと求めてくれる。妹のような存在でもある自分を守る為だとしても、嬉しい。
姫としても、例え彼の妻になっても役に立たぬだろう自分を知ればどう思うだろうか。
(同情されるのは嫌。私の存在が重荷になるのは、もっと嫌)
だからこそ、何も言わず教会にそのまま身を置くと決めたではないかとソフィーアは組み合わせていた手を強く握った。
「……」
(幸せはささやかでいい。それ以上、多くを望むのはわがままだもの)
「そうですね。儀式が無事に終わり、家にこうして戻ってきたせいでどうやら我儘になってしまったみたいです」
「ふふふ。甘えてもいいんじゃないかな? 君のご家族ならば大歓迎だろうし」
「いえ。せっかく成人になったのですから、気を引き締めませんと」
「まったく、君は昔からそういう所が真面目で頑固なんだから」
本心を悟られぬように作り慣れた笑みを浮かべてソフィーアは軽く両手を握る。
丁度良いタイミングでお茶を持ってきてくれたサラにホッとしながらカップを受け取るアレクシスを見つめた。
付き合いが長いとその貼り付けられた仮面すらすぐに見抜かれそうで怖い。
だが、穏やかな表情でサラと軽く話をする彼は全く気づいていない様子でソフィーアは胸を撫で下ろした。油断はできないが幼い頃から家族すら騙せる笑顔に彼女は自信を持っている。
誇れる事ではないと判ってはいるが、笑顔で「大丈夫」だと言えば安心してくれるのが嬉しかった。それ以上心配をかけずに済むのだと思えて自分も楽だった。
それは今も変わらない。
教会に移ってから自分の事を少しずつ自分でするようになり、視界も随分と広くなった気がする。
あの場所での慎ましく穏やかな暮らしが、自分に似合っているのだと彼らの話に合わせるように笑い声を上げてソフィーアは胸の内で呟いた。
「ソフィーア様、検診のお時間ですよ」
「はい、わかりました」
「それじゃあ、僕は部屋の外で待っているから」
貴重な時間をわざわざ自分のために使ってくれる、心優しい婚約者。
巷ではこれが美談として語られているのだそうだが、ソフィーアにとったら迷惑な話でしかない。事実は美談でもなんでもないのだから。
彼に迷惑をかけてしまうと謝罪すれば「どうして? 君が良く読んでいた絵本の王子様とお姫様みたいで素敵じゃないか」と本心かどうか判らぬ言葉で返された。
困った顔をしてしまったソフィーアに彼はにっこりと微笑んで笑う。
それが益々彼女を困惑させてしまうのだが、宝物を愛でるように彼は優しく笑うのだ。
「困ってしまうわ」
そんな風に思われる存在ではないからこそ余計に。
小さく呟かれた言葉を耳にしながらアレクシスは優しく彼女の小さな手に自分の手を重ねた。
驚いたように目を見開く彼女に、彼は何も言わず笑みを浮かべるだけ。
昔と変わらぬその笑顔に心がざわめくのを感じて、ソフィーアはとぼけた様に首を傾げた。




