236 何もない
朝早く訪れたそこには何もなかった。
文字通り何もなかったのだ。
目の前の牢を見ながらコスモスは軽く舌打ちをする。
(やっぱり、無理矢理にでも来ておくべきだったかな)
アジュールやアルズに話を聞くも、大したことはないとだけ。
そんなわけないだろうと突っ込んだが、それ以上の情報は得られずに終わった。
(現場に来れば分かると思ったから早起きしたのに)
「満足か?」
「ちょっと待って」
ため息をついてそう尋ねるアジュールにそう言ってコスモスは牢の中に入っていった。背後で制止する獣の声など無視である。
するり、と魔法がかけられた鉄格子を抜けて中に入る。
どこにでもあるようなつくりで特別なものは何もない。
ここに収容されていたらしい神官の姿は牢屋のどこにもなかった。
(気配からして個別に入れられたはず。ここに入っていたのは自称神官長のあの男ね)
にこやかな表情で恭しく出迎えた男を思い出してコスモスは集中する。
牢の外ではアジュールがため息をつく声が聞こえた。
好きにさせて飽きるのを待っているのだろう。
(何か少しでも残っていたらなぁ)
そう思いながら床を見つめていたコスモスは、あるものを見つけて笑顔になる。
(ちょっとだけどあった。これは、黒い蝶の残滓? 残ってるのも珍しいけどあの様子ならそれもそうかしら)
「ふむふむ」
近づいて触れれば簡単に消える。しかし触れただけで充分だ。
消える前に見えた光景に何となく状況を察した。
「わざわざ証拠隠滅せずにすんで良かったのかしらね」
「何か見つけたのか?」
「黒い蝶の欠片というか、残滓みたいなもの」
「なるほど。何もないと同じだな」
ニヤリと笑うアジュールを見下ろして今度はコスモスがため息をついた。
とりあえず今はルーチェが起きる前に部屋に戻るのが先だとコスモスは周囲を見回しアジュールの背に着地する。
「急ぎでお願い」
「了解した」
周囲の暗闇に溶け込むようにアジュールの姿が消える。コスモスは振り落とされないように気をつけながら目を瞑った。
再び目を開くと元の部屋に戻っており、ルーチェが起きた気配もない。
外もまだ暗く、皆眠っているようだ。
「よし、寝よう。ありがとうアジュール」
「大したことではない」
陽が昇るまでの数時間。休める時には休むべしと思いながらコスモスはすぐに眠りへと落ちた。
アジュールはその様子を見て目を伏せる。
目覚めるまでの短い間にコスモスは夢を見た。
断片的な光景が浮かんでは消えていく様子をただ眺めているだけだったが、やけに情報量が多かったことだけは覚えている。
目を覚ませば何かを見たということは覚えていても、ぼんやりとして思い出せない。
(そんな時の管理人よね)
便利なものだと頷きながら彼女は欠伸をした。
用意された朝食を食べてからお茶を飲みながら情報の整理が始まる。
(これも恒例になってきたわね)
巫女不在の神殿は先の自称神官長の件もあって混乱しているらしい。
コスモス達を出迎え、対応してくれた神官を中心として何とか回しているらしいが、自分達の中から裏切り者が出たというのが衝撃だったのだろう。
巫女は大精霊と共に大切な祈りをしていると誤魔化しているがそれもいつまで通用するか問題である。
神殿の極僅かな人物と王家の一部を除いて巫女が行方不明であることは知られていない。
(できるだけ早く巫女様を探す必要があるけど、手がかりを探しに動くのは後でかな)
「先に報告しておきますね。昨日地下牢に放り込んでいた神官達からの有益な情報は特にありませんでした。どうやら、権力と金に目が眩んだようですね」
「はぁ? あれだけの出迎えしておいて何もないってなんなの」
「そうだよねー。怒って当然だよ」
怒りを隠さぬルーチェの反応にレイモンドが同意するように頷く。
予想していたのかトシュテンはにっこりと微笑んで「事実ですので」と告げた。
「本人達は神殿を牛耳れることに興奮して細かいことは何も考えていないようだったからな」
「ふーん。あの人達が巫女様を攫ってどこかに隠したってわけじゃないのね」
「何もないわけないでしょう。私達が来ることが分かっていたんだから」
「ですが、何もないんですよ。どうやら、適当に私達をあしらって終わりにしようと思っていたらしく。巫女様が不在なのも適当に誤魔化すつもりだったようで」
「はぁ? バカにしてるの?」
「私も思いました」
淡々と返すトシュテンにアジュールが笑う。恐らく昨日の光景を思い出したのだろう。
簡単に想像できるわ、と思いながらコスモスはため息をつくトシュテンを見た。
「素性の知れない相手の甘言に惑わされ、このザマですからね……愚かとしか言いようがない。巫女様の行方についても知らず、取引を持ちかけてきた相手の正体も知らないんですから」
「彼らはまだ地下牢にいるのよね? 私が会ってもいいかしら」
「ルーチェ、危ないからやめなさい」
「残念ですが、会えませんよ」
「貴方も私が子供だからって甘く見ているの?」
「違います」
何か考えがあるのだろう。地下牢に行きたいと告げるルーチェに父親であるレイモンドが顔を顰める。
血生臭い場面に何度も遭遇してきたはずだが、それでも彼はそういう場所に娘を近づかせたくないらしい。
(だからって、いいよって笑顔で言う親もどうかと思うけど)
「会せようにもいないんです」
「いない?」
「はい。僕達がお話を聞いている途中に文字通り消えてしまったので」
ムッと眉を寄せる少女に優しくそう告げたのはアルズだ。
不思議なこともあるんですね、と呟きながらアルズは会えない理由を教える。
彼の言葉はすんなりと受け入れられるのか、ルーチェは納得したように「そうなの」と頷いた。
「最初からその程度の駒でしかなかったってことかしらね。バカな彼らがそれすら知らずに消えていったのはある意味幸せなのかしら?」
頭が痛いと呟きながらルーチェは額に手を当てる。大精霊を奉る神殿の神官ともあろう者がその程度の頭しかないことに腹立たしさを覚えたのだろう。
神官として神殿に入ることが認められれば衣食住だけではなく勉強もできる。
大精霊や精霊について詳しく知ること、正しい知識を持って神殿に仕えることは大事なので神官見習いの時にみっちりと勉強するはずだ。
(勉強は適当で、世渡り上手の人に取り入るのが得意なだけであそこまで成り上がった?)
基本的に教会や神殿の神官は真面目な者が多いが、そうでない者もいる。
彼らは恐らく後者なのだろうとコスモスは苦笑した。
「侵食度合いがどう変化したのかは知らないけど、出会った時点で末期だったのよね。けれど自覚症状は無し。麻痺や幻視の術がかけられていたのか、魔獣にでも変化するのを期待されていたのか」
「鈍いバカが揃っていたという事も考えられるぞ」
「あぁ……うん、まぁ……それも、ある?」
それはないでしょうと笑って言えないあたりが困る。
コスモスは微妙な表情をしながら楽しそうに笑うアジュールを見下ろした。
「マスター、末期ってなんですか?」
「あぁ、変化の過程は分からないけど初めて会った時にはもう人ではなくなってたから。そういう意味で末期」
「そう言えば、マスターがいきなり突撃した理由って聞きましたっけ?」
「聞かれない気がするけど、見た瞬間に黒い蝶が人の形取ってるの気持ち悪いと思って気づいたら突っ込んで蹴散らしていた感じよ」
イメージとしては集められた枯葉の山に飛び込むようなものだ。
外に出た途端、人の形をした黒い蝶の塊が何体もいて驚いた。その上人語を喋ったのだから進化したのかと勘違いして恐怖したのを思い出す。
(あれはもう、考える前に体が動いたってやつよね)
「御息女……その話は聞いていませんが」
「私も初めて聞いたけど、想像しただけで寒気がするわね」
「そりゃ初めて言ったもの。アジュールは気づいているようだったし、彼らと会った貴方も分かっているかと思ったから言わなかったけど」
少し怒ったような口調でじっと見つめてくるトシュテンの目が怖い。
そんな顔をされても、とコスモスは困ったようにアルズの頭上でため息をついた。
「嫌な匂いはしましたけど、僕には普通に見えました」
「そうなの」
「仮に黒い蝶の塊に見えたとしても表面上だけかもしれません。それに魔獣に変化するとどうしてそう思うのですか?」
「うーん。勘?」
自分でも直感でそう思ったからとしか言いようがなくコスモスは唸った。
彼らを見た瞬間、もう人ではないのだと思った。違うものに変化する前に消さなければと思ったのは何故なのか。
(どこかで似たようなものでも見たかな?)
「でも気絶しただけで消えませんでしたね」
「そうね」
「で、どうなの?」
むむむ、と唸るコスモスの声を聞きながら同じようにアルズも唸り出す。
そんな二人を横目にルーチェはトシュテンに問いかけた。
「霊的活力を見た限りでは御息女のおっしゃる通り末期でしたね。尋問する前に消えてしまったのでそれ以上なにもできずに終わったわけですが」
はぁ、とため息をついてもっと他に方法があったかと呟き始めるトシュテンにルーチェも困ったように眉を寄せる。
不在の巫女を探すにも情報が少なく、これから神殿内を移動して痕跡を探す他ない。
しかし、巫女が行方不明だと知らない神官にその事実を知られてはいけないから大変だ。
「そうね……消えてしまったものはしょうがないわ。ふぅ。じゃあ私は書庫に行ってくるわね」
切り替えが早いなぁと感心しながらコスモスは部屋を出て行く親子を見送った。
アルズとトシュテンは人手が足りていない場所の手伝いをするらしい。
特にトシュテンは教会本部に所属しているだけあって、期待されていた。
「神殿ではなく、教会なのですがね……」
「似たようなものでしょ」
「はぁ……御息女」
「私は神殿内をぐるりと回ってみるわ。誰かに断った方がいい?」
遠回しに入ってはいけないところがどこかあるか、と聞くコスモスにその意図を感じ取ったトシュテンは顎に手を当て少し考えた。
にこりと微笑んだ彼は何かを呟いてからコスモスに触れる。
「うわ、敬愛するマザーの娘に追跡魔法とかかける? 位置特定したいならやれるじゃない」
「はははは。念のための虫除けですよ。それに許可は特に必要ないので心配ないと思います」
「はぁ。外出する時は声かけるわよ」
「マスター、それ解除できないんですか?」
「やったら余計酷くなりそうよね」
「あぁ」
なるほど、と納得したように頷くアルズはコスモスを慰めるように撫でた。
彼に軽蔑の眼差しを向けられたところでトシュテンは動じない。
「アジュールが一緒にいるんだから心配することないのに」
「信用できないのだろう」
「いえ、信用していますよ」
にこにこ、と胡散臭い笑顔ではっきり言うトシュテン。鼻で笑うアジュールの声を聞きながらコスモスは部屋を出る。
「さて、どこから行く?」
「とりあえず、大精霊の間かな。大精霊様も姿見せなくなったらしいし」
「ならばこっちだな」
近くの影に潜んでいたアジュールに先導されてコスモスは大精霊の間へと着いた。
分厚い壁をするりと抜けて中に入れば、室内には誰もおらず静かで少し薄暗い。
「混乱して人手が足りていないせいか、綻びができているな」
「そうね。何かあったら困るから処置しておきましょう」
このくらいならできる、とコスモスは綻んだ魔術の修復と強化を始める。
そんな彼女を放置してアジュールは室内で実体化すると周囲を探り始めた。
他の神殿にある大精霊の間と大して変わりはない。
(水の神殿らしく水の属性を強く感じて、水を思わせるような紋様があるくらいだけど)
「ふむ。特に争った気配はないな」
「大精霊は普通の精霊以上に気まぐれだからこの場にいないのも分かるけど。巫女様が行方不明なのも知らないのかしらね」
「巫女に危険があれば大精霊も怒るだろうからこんな悠長にはしていられないだろうな」
「ということは、少なくとも巫女様の身は安全だってことかしら?」
巫女の役目が嫌になって逃げ出したとも考えにくい。
事前にコスモス達が来るのを知っており、待っていると迎える準備もしていたはずだ。
「こちらが連絡をした後、移動する間に何かがあった?」
「それは情報収集が終わってからだろうな」
「そうね。私達は私達で何か手がかりになるようなものを探せればいいけど」
何かいい手はないかと首を傾げていたコスモスは、周囲を漂う水の精霊を見つめてある考えが浮かんだ。
「ねぇ、巫女様がどこに行ったのか知らない?」
問われた精霊はキュルと鳴いて集まってくる。頼られているというのが嬉しいのか、コスモスが呼んだ精霊だけではなく室内の精霊達が集まってきた。
水の精霊だけではなく他の精霊達の姿も見える。
水の精霊達はコスモスの周囲をくるくると回りながら水で色々な形を描き始めた。
何か手がかりになるかと見ていたコスモスだったが、あまりにも芸術的過ぎて理解ができない。
「マスター、そいつらはただ遊んでいるだけだと思うぞ」
「そっか」
楽しそうな精霊達の様子に怒ることもできず、コスモスは小さく唸る。
室内に手がかりになりそうなものはない。
そう思っているとキュルキュルと鳴く精霊が近づいてきた。
自己主張の激しい精霊は何かを訴えるようにコスモスの前で動く。
「風の精霊……風の、噂?」
にこにこと手を振る風の大精霊の姿が浮かび、コスモスは目の前の精霊を見つめた。
「よし、知ってること教えてちょうだい」
「そんなものを信じていいのか?」
「闇雲に探すよりはマシでしょう。徒労に終わったとしても途中で何か見つけられるかもしれないし」
「ふむ。マスターが良いなら良いのだが」
広い神殿をくまなく探すのは時間がかかる。広範囲を詳細に探索できる魔法でもあればいいのだがそんな便利なものはないだろう。
(あったとしても、制御は難しそうだし使用する魔力量も多そうよね)
張り切るように先方を行く風の精霊が室内で動かずにいるコスモスに向かって声を上げる。
早く来いと言わんばかりの様子に返事をしてコスモスはするりと壁を抜けた。




