20 淑女は遠い
困った兄だと大きく頷きながらウルマスと共にソフィーアの部屋を訪れたコスモスは、いつものように見舞いにきたアレクシスとイストが顔を見合わせ険悪な雰囲気になったのを見て溜息をつく。
いつもは止めるウルマスは動かずに二人の様子を見ていた。
イストが不機嫌な表情でアレクシスに何か言う前に、彼の鳩尾に衝撃を与えた“何か”により彼は大人しくなる。
あまりにも一瞬の出来事に驚いていたウルマスだが、すぐに犯人を察し驚きに静まり返るその場で一人笑みを浮かべた。
「あぁ、ごめんね。イスト兄が相変わらず煩くてさ、ソフィーの精霊さんが怒っちゃったみたいだね」
確かに彼の鳩尾に衝撃を与えたのは精霊である。
だが、それを投げたのはコスモスだ。
ポンポンと彼女に投げられ慣れているケサランもいつもならば文句を言うのだが、今回ばかりは楽しそうにイストの体の上で飛び跳ねていた。
(はいはい、精霊さんたち集合。倒れたイスト兄様をお運びしましょう)
うふふふ、と笑い声を上げながらコスモスが周囲の精霊にそう呼びかけると、ふわふわと集まった精霊たちが絨毯の上で横になったまま胸部を押さえているイストを運んでいく。
精霊に運ばれるイストを横目に、サラは慣れた様子でベッドサイドに置いてあった洗面器の水を張り替えた。
ぽかん、としているアレクシスにウルマスが申し訳無さそうに「今日は体調悪いから、ごめんね?」と告げればアレクシスは「大丈夫です。また伺います」と丁寧に一礼して従者と共に帰ってゆく。
精霊に運ばれる情けないイストを目撃した彼の従者は、必死に笑いを噛み殺しながら窘める主の後を慌てて追いかけていった。
「さて、ウルマス君。どうしようかね、これは」
「廊下に放置していても邪魔なだけだから、中庭にでも転がしておいてよ」
(あらこの子、目が本気だわ)
仮にも血の繋がった自分の兄を「転がしておく」発言。しかも部屋にではなく中庭ときた。
天使のような微笑での言葉は相当にギャップがあって恐ろしい。
スルスルと床の上を滑るように移動してゆくイストは、呻きながら手を床につけて動きを止めようとする。だが、彼の上でぴょんぴょん跳ねているケサランのせいで「うぐ」だの「ぐはっ」という呻き声を上げながらそのまま運ばれていった。
先導するウルマスについて行く様に指示するとイストを運んでいた精霊たちは中庭にあるお花畑の上で止まる。ウルマスが頷いたので、下ろすようにとコスモスが頼めば乱暴に彼の体が落とされた。
「ウ…ルマス……お前、覚えて、ろよ」
「あのさぁ、イスト兄。ソフィーに嫌われたくなかったら大人しくしてろって言ったよね? ソフィーの体調悪くなって驚いたのは分かるけど原因はイスト兄なんだから反省してよね。あぁ、でも反省しないから同じことばっか繰り返すんだよね。え、でも、何? ソフィーは病人だっていうのに、ドタバタ煩く廊下は駆けるわ大声出して使用人に怒鳴り散らすわ本当にソフィーのこと大事に思ってるの? 思ってたらそんなことできるわけがないよね。その上、見舞いに来てくれたアレクにまた文句つけようとしてたじゃん? あぁ、分かってるから。違うとかそんなわけないでしょ。あのさ、本当にそれでもヴレドブラッド家の次兄なの? 何なの? 外面くらい良くできないわけ? あんまり酷いとさぁ、父様に頼んで僻地に飛ばしてもらうよ?」
(すごい、相手に口を挟ませないマシンガントーク! そして、最後の部分で悪魔の笑みとは恐ろし過ぎる)
花畑の上、横になっていたイストがびくん、と大きく反応した。
呼吸を整えながら口を挟む隙を狙っていた彼だったが、結局何も言えないままゆっくりと見下ろしてくる弟の笑顔を見つめる。
青い空を背景に、天使のような可愛らしい微笑で見下ろす弟は「ソフィーが大事なら分かるよね?」と穏やかな声でもう一度告げた。
途端に蒼白になってしまうイストを眺めながらコスモスは彼の耳元で「ウフフフ」と囁いてみた。
「ひっ! なんだ! 女、女の声がしたぞ!」
「はぁ? 何言ってるのイスト兄」
「本当だ。本当なんだ! 何かいる!」
「あのさ、こんな昼間からいるわけないでしょ。いたとしたら、相当強い存在だろうし」
土気色になりそうなイストの顔を見つめていたコスモスは、想像以上に効果があるとびっくりしてしまった。
ウルマスはオバケ嫌いだと言っていたが、正直半信半疑だったからだ。
「もしかして、先祖の霊が怒ってるのかもね。ソフィーや家に迷惑なことばかりしてるからさ」
「分かった。気をつける。だから……ウルマス」
「ふぅん。それならいいんだけど。オバケさんは後で僕が宥めとくよ。そういうの、得意だから」
イストは鳩尾に受けた衝撃が余程痛かったのか摩りながら何度も何度もウルマスの言葉に頷く。
ここまで彼が必死になってやめてくれと頼むほど、効果的ならもっと早くにやっておけばよかった。
呟いたコスモスの言葉が聞こえたウルマスは顔を上げて、宙を見つめるとにこりと笑う。
「な、ウルマス。お前、一体どこを……!」
「さぁ。どこだろうね」
(オバケか。まぁ、人魂だからオバケには違いないな)
花畑の上で仰向けになって深呼吸をするイストと少し会話をしたウルマスは、立ち上がって周囲を見回す。
「お話終わった?」
「うん。行こうか」
コスモスが声をかければ、ウルマスはいつもの笑顔で頷く。
これで少しは大人しくなるだろうと告げるウルマスに、コスモスはトラウマにならないといいけれどと彼のことを心配する。
「姉様は優しいね。いいんだよ、暫くすれば忘れたように繰り返すだろうから」
「それは、いいの?」
「駄目だよね。でも、次からは多少大人しくなるんじゃないかな」
そうだといいけれど、と呟いてコスモスは振り返った。花畑の上で横になったまま動かない彼の胸部で精霊がぴょんぴょん跳ねている。
ケサランの行動を見て楽しそうだと思ったのだろう。
「やれやれ。あ、姉様は今暇?」
「まぁ、うん」
マザーの周囲をうろつくか、読書をするか、ソフィーと話すかくらいしかやる事の無いコスモスは何を言われるのかと身構える。
調査隊の結果が気になって仕方がないが、クオークがいるのならば大丈夫だろうと心配はしていない。彼の国は知識の国と呼ばれるほど頭のいい賢い人たちが揃っているからだ。
もちろん、国民全員がそうというわけではないが他の国に比べてその割合が高いという。
用事があれば行ってみたいなと海外旅行感覚で考えているコスモスは執事と話しているウルマスの姿を遠くに見つけ、慌てて駆け寄った。
コスモスが近づけばちょうど話は終わったらしく、執事のスティーブが恭しく一礼をしてその場を去ってゆく。正に執事と聞いて思い浮かぶ通りの老執事を見つめているとウルマスの溜息が聞こえた。
先程までの小悪魔な彼はどこへやら、綺麗な柳眉を寄せてじっと石柱を見つめている。
何かあったのかとコスモスが聞けばウルマスは再び溜息をつく。
「城からの呼び出しだよ。それも、陛下直々とのことらしくてね。逃げられないように迎えまで寄越してくれたって」
「迎えは護衛のためで、逃げるとか逃げないとかじゃないと思うけど」
つい忘れてしまいそうになるが、彼らの父親であるエルグラード・ヴレトブラットは王弟である。つまり、ウルマスは伯父である王から呼び出されているわけだが仲は良好と聞いていた。
しかし、なぜかウルマスの顔は冴えない。
迎えが来るのは王都とは言え彼の身を案じてのことで、当然なのだろうとコスモスは思う。
「違うね。逃げられないように寄越したんだよ。絶対に。あぁ、仕方ないけど行ってさっさと終わらせよう」
「……そんなに嫌なの?」
「あぁいや、そうじゃないよ。迎えなんて寄越さなくても馬車くらい家でも用意できるし、馬車なんて乗らずとも一人で城くらい行けるからね」
気乗りしなさそうに歩いていくウルマスに、コスモスはとりあえず玄関まで彼を見送ることにした。
ミストラルは穏やかで治安も良いのだろうが、儀式を台無しにしてくれた黒い蝶の件もある。用事があって呼び出すにしても心配になるのは当然だからこそ迎えを寄越したんだろう。
普段がどうであれ、そこまで不快に思う必要はないんじゃないかと彼女は首を傾げる。
未だぶつぶつと呟いているウルマスに何が不満なのかと尋ねれば、彼は溜息を付いてコスモスの声が聞こえてくる右を向いた。
「お姉様も一緒に来るんだよ? あ、それはマザーかららしいけど」
「え!?」
教会じゃなくてなぜ城に呼ばれるのか。所用でまたマザーは城にいるのかと考えていると、表の玄関ではなく裏口から出た先に黒塗りの馬車が停めてあった。
御者が被っていた帽子を取り胸に当て一礼をする。軽く手を上げて頷いたウルマスが乗り込んだのを見つめていると手招きをされた。
馬車と並走しようと思っていたコスモスは誘われるがまま馬車に入る。御者によって扉は閉められていたがコスモスにとっては問題ない。
するり、とすり抜け「姉様?」と呼びかけるウルマスに「お邪魔してます」と答えれば満足そうに微笑まれる。
(おお、初馬車。貴族ってこんな感じなのかな? 綺麗な天使も一緒だなんて、幸せだなぁ)
元の世界では味わうことの出来なかった体験に少々興奮しながら流れてゆく景色を見る。ウルマスは小さく息を吐いていたが、キャッキャと年甲斐もなくはしゃぐコスモスの声に頬を緩ませた。
コスモスは最近王都を散歩しているが、案内役なしに一人で回っていたので町並みは見慣れても詳細は知らない。
商店は看板の文字と並んでいる商品で何なのかは大体判る。ウインドウショッピングをするに人魂の身は最適で、最初の頃は店を覗いては興奮して声を上げていたものだ。
正にファンタジー! と大声を出しても反応する者は誰もいない。お金もないので欲しいものがあっても買う事はできないのだが目を楽しませるには充分だ。
「もう大体どこが何なのか知ってると思うけど、あそこの店は品揃え悪いから二本先にある店に行った方がいいね。道具やならさっきの所よりこっちの店の方がマニアックかな」
「ほうほう」
「ここのパン屋さんは美味しくて人気だよ。数量限定のりんごのデニッシュが美味しいんだ。ソフィーは昔からクリームパンが好きだね」
「ほっほう!」
大きなパン屋さんは行列はないものの常に人が行き来しているのは知っていた。美味しそうな匂いにつられ寄ってはみたものの、結局見ているだけしかできなかったので早々に退却した場所でもある。
大抵、食事系の店は興味のあるところだけ覗いてあとは逃げるように通り過ぎた。
(お金ないから食べられないし、物も買えないもんなぁ。しょうがないけど)
そもそも人魂で食物摂取は基本的に必要の無いコスモスだったが、肉体があったとしてと仮定するとどうやって稼げばいいのか判らない。
(ゲームみたいに都合よく、モンスターがお金落としてくれるかな? でも、それには戦わなきゃいけないし。戦うには武器防具が必要で、それにはお金がいるでしょ? 無難に、その辺でバイトっていうにも素性不明の輩をあっさり雇ってくれるものか)
街の外には確かに魔物がいる。だが、危害を加えない限りはこちらからも手を出す事はしないらしい。
数が増え過ぎたり、飼っている家畜が食べられたりすると王国騎士団の兵士たちが間引きに行くと聞いていた。
地鳴りのように唸るコスモスの声に、ウルマスは笑いを噛み殺しながら腹を押さえる。食べ物の話をすると食いつきが良いのは知っていたが、ここまでとは思わなかったのだろう。
「姉様は食事ができるんだっけ? だったら僕があとで買ってあげるよ。帰りは徒歩で行こうか?」
「いやいやいや、それは御身に何かあれば危ないから」
「大丈夫だって。僕こう見えても結構強いから。それに、何かあればお姉様に守ってもらうし?」
(守る必要はなさそうなんですけどね)
儀式が終わったのだからコスモスがソフィーアと一緒にいる必要はない。
それを知っているのはマザーとソフィーア、そしてコスモスの三人だけだ。つまり、彼女の家族は守護精霊を何とか授かったと勘違いしたままである。
個人的に心配で顔を出していたのがまずかったのか、見舞いに行くにしてももっと気をつければ良かったのかと思っているとクスクスと笑い声がした。
「心配しなくても、お金なら持ってるよ?」
「いや、そうではなく……うん。じゃあ、お言葉に甘えて」
「よーし。ソフィーにも頼まれてたから丁度良かった」
「姫に?」
「うん。自分がこんな状態だから、時間があって姉様が要望すれば町を案内して欲しいって」
そう言われてコスモスは大人しくなった。
確かにソフィーアの見舞いに行った中で「一緒に町を散策したいね。元気になったら案内して欲しいな」とお願いしていたのだ。
笑顔で頷いてくれた彼女は自分の体調の悪さが暫く続くと判断し、その役目を兄であるウルマスに頼んだのだろう。
コスモスが退屈せず、楽しんでくれるようにと。
「……どうやったら、お金稼げますかね」
「え?」
「お土産とか、持って行きたいなと」
「うーん。お金で買えなきゃ駄目なの?」
誰に持って行きたいのか理解したウルマスが優しく微笑みながらそう問いかける。その言葉にハッとしたコスモスは小さく唸りながら悩んだ。
確かに無理に稼ごうとするよりもいいかもしれない。しかし、それでいいのだろうかと不安になった。
「いいんでしょうかね」
「大丈夫だと思うよ。姉様から貰えるものならどんな物でも喜ぶよ、ソフィーは」
「優しいからなぁ」
ありきたりだが花にしようか、それとも美味しい木の実がいいかと悩む声を聞きながらウルマスは目を細めた。
「イスト兄は精霊より姉様の方が嫌いなんだろうなぁ」
「え?」
「ほら、ドシスコンだから。ソフィーは姉様に凄く懐いてるし」
あれは懐いていると言うのだろうかとコスモスは首を傾げる。
ある意味生命線を握られているようなものだから大人しくせざるを得ないような気がする。実際、偶々コスモスがいたことにより、彼女が盾となってソフィーアに精霊が近づけるようにした。
コスモスが潤滑油のような役割をしたお陰でソフィーアとケサランの力が僅かだが繋がったのだ。コスモスがいる限り効力は持続するらしいので彼女は華奢な体に常に触れながら後頭部にケサランの温もりを感じていた。
(私以外には人魂にしか見えないらしいからいいけど、人型にして考えてみると相当な痴女よね)
年端もいかぬ可憐な少女の背中を常に触っている、おばさん。
男じゃないから犯罪には問われないとかそういう問題じゃない。元の世界であんな状況になれば間違いなく突き出されるだろうとコスモスは想像して顔を青くした。
(いや、でも男じゃなかっただけマシ!)
「姉様?大丈夫?」
「あ……うん」
もし仮にその役目が自分じゃなかったとして、同性だったら「大変だなぁ」と冷めた目で見ているかもしれない。異性だった場合はその人物の反応にもよるだろうが、気持ちとしてはすぐに蹴り飛ばしたくなってしまう光景だろう。
「女で良かったなと思って」
「ん? あぁ、男だったらイスト兄はさらに面白いことになりそうだよね」
笑っている場合ではないのだがウルマスは楽しそうに腹を抱えている。
もしもイストが兄ではなく姉だったらまた違ったのだろうかと思いながら、コスモスは溜息をついた。




