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いえ、私はただの人魂です。  作者: esora
祝福の代償
161/291

160 はげましのつもり

 翌朝、気づけば戻っていたアジュールはアラディアと話を終えてから主のいる部屋へと向かっていた。

 音も無く影に潜みするりと移動する。室内に入ることすら余裕の彼だが、殺気が飛んでくるのでひょいと避けた。

 舌打ちと共に聞こえた溜息を無視して未だ夢の中にいる主のもとへ向かう。

「それでじゃれているつもりか?」

「そうですよ」

「だったら殺気くらい隠せ。妬いている暇があるなら仕事をしろ」

 淡々とした口調でそうアジュールが告げると、椅子に座って眠るコスモスを見ていたアルズが顔を歪めた。

 可愛い顔が台無しだぞ、とからかわれて更に凶悪な表情に変化する。

 全く相手にされていないのは分かっていたが、実際にそんな反応を見ると怒ることすら馬鹿らしくなってくる。

「冷たい先輩ですね」

 音を立てずに寝台へと上り、アジュールはその長い前足でコスモスを踏むとコロコロと転がした。バッと立ち上がったせいでアルズの座る椅子が倒れる。

「マスターに何して……」

「起きているのだろう、マスター。これから忙しくなるから気合を入れろ」

「はぁ。バレてたか。二人が仲いいもんだから大人しくしてようと思って」

「主としては嬉しくて泣けてしまうだろう」

「そうね」

 微塵も思っていないくせにと心の中だけで呟いてコスモスはころり、と軽く転がった。

 人型で眠っていたつもりだったがいつの間にか球体になっていたらしい。

 力の消費を抑えるにはちょうどいいか、と思いながら彼女はアジュールの頭に飛び乗ってそのまま滑るように背中を転がっていく。

「お帰りなさい、アジュール。アルズも警備してくれてありがとう」

「いえ、当然のことです」

 にこりと微笑むアルズは先ほどの失態を知られていたというのにも関わらず平然としている。その様子に小さく笑った魔獣は尻尾にぶつかった主を軽く飛ばして頭上へと移動させた。

 ここのところずっと球体で過ごしているのは万が一の為だろう。そして彼女の力が前よりも増しているのは当然だが、その成長速度が通常よりも早い理由が気になった。

 当の本人はコロコロと転がったり、フラフラと浮遊してあちこち移動したり、時間があればとりあえず何か食べたりしているので自覚はなさそうだ。

 レサンタを出たら縁が切れると思っていたエステルは未だ彼女についているらしいので、何かあっても安心かと思う。

「アラディアと話してきた。準備が出来次第、マスターは奴等が潜んでいる場所に向かうことになっている。ギュンターが迎えに来るそうだ」

「留守番じゃないのね」

「ユリアのことは心配するな。アラディアとレナードが残ることになっているからな」

「マスターを危険な目に遭わせるのは嫌ですけど、サクッと処理しますから心配しないでくださいね」

(あぁ、笑顔が眩しい)

 キラキラとした愛らしい笑顔でそう言われると思わず頷いてしまいそうになるとコスモスは慌てて身を震わせた。

 歓喜に打ち震えていると勘違いしたらしいアルズは嬉しそうに彼女を抱え上げて食堂へと向かった。



「本来ならば、私が直接出向くべきなのでしょうが彼には精霊様に任せておけと言われまして」

“気にしないでください。危険なことならば慣れています”

 さらさら、とペンを走らせながらコスモスは床で伏せているアジュールを睨みつける。安請け合いして困るのはこちらだというのにあの獣は何を考えているのかと呟く彼女に、アルズは笑いを堪えるように咳をした。

“恐らく、こちらにも襲撃があると思うので気をつけてください”

「はい。それもアジュール殿から窺いました。アルズからも怪しい敵の動きは聞いております」

 もしかしたらユリアを奪取しにくるかもしれないということはアラディアも考えていた。だからこそ本家から戦力を借り、私兵を動かして相手に気取られぬよう屋敷の周辺に配置している。

 防御と罠の魔法も使用し、念には念を入れていると彼女は説明した。

“何かあればアルズが連絡します”

「はーい。お任せください」

「はぁ。本当に大丈夫かよ。ピクニックに行くんじゃないぞ?」

「……ハゲ」

「ハゲねぇから。俺は、ハゲねぇから」

 そんなに心配しているとハゲますよとアルズは言いたかったのだろうが、食い気味でレナードが否定する。

 その様子を大きく瞬きをしながら見つめていたアラディアは、ぷっと噴き出すように笑った。

「なるほど。それで、急に育毛剤を……」

「おーっと、アラディア様。貴方は何も見なかったはずです」

「ええ、そうね」

「あとで、いい薬を調合しますね」

「いらん。お前は絶対にハゲになる薬を作って押し付ける気だろう? 俺は知ってる」

 そんなに悩んでいたなんて知りませんでした、とぶりっ子のように言うアルズは同情するような視線をレナードに向ける。

 しかし、レナードはその言葉を鼻で笑って愛らしい美少年を睨みつけた。

(からかわれているけど、そんなハゲそうには見えないんだけどなぁ)

 強いストレスを抱えていればそうなってしまうかもしれないがと考えたコスモスは、もしかして隠れた場所にもうあるのではないかと心配になった。

 自分も元の姿のままだったら円形脱毛症と、胃痛に悩まされていたことだろう。

 比較的、優しい世界だと思っているが何の力もない三十近くの女がこの世界でどう生きていけるだろう。

(死ぬ確率が高いわね。本当に、この身で良かったのか悪かったのか悩むところだわ)

 ゲームのように、便利なクエスト進行でも表示されればいいのだが残念ながらそんな便利機能はない。

 どうすればいいんだと悩みながら流されるように進んでいくだけだ。



 心優しき可憐な令嬢なのは表面だけ。中身はワガママで腹黒いとギュンターに言われたドリスは顔を引き攣らせながら彼を睨みつけていた。

 笑顔なのにピクピクと血管が浮き出ている。

「ギュンター様、それはあまりにも失礼ではありませんか?」

「ここにいる者は皆、アラディア様から説明を受けている。取り繕ったところでどうにもならないだろう」

「あら、酷い。仮にも元婚約者の言葉とは思えません」

 これからお茶会にでも行くのかと首を傾げたくなるようなドリスの装いにはコスモスも驚いた。

 自分が何をやらかしたのか全く反省していないように見えるからだ。

 ドリスはデニスと修道女に騙されたと喚いていたようだが、それも本当かどうか疑わしい。


『お主にしては随分と手厳しいではないか』

『見た目だけ綺麗でも中身がドロドロに醜かったら意味ないですからね。妹を思って私を遠ざけたならまだしも、悪霊とか悪いもの呼ばわりして除外しようとしたのは都合が悪いからと納得してしまいますし』

『まぁな。ユリアはこの姉を慕っていたようだからな。その言葉も信じていただろう』

『信じた結果が、結晶化なんて笑えませんけどね』


 美しいもの、綺麗なもの、可愛らしいもの、カッコいいもの。

 それらには無条件で心奪われる傾向があると思っていたエステルは苦笑しながら冷たく告げるコスモスの声を聞いていた。

 リーランド家の中でも美しく可憐だと噂のドリスだが、見かけだけなので残念がっているのだろうとエステルは一人頷く。

「近くまでは馬車で移動だが、その後は馬か徒歩になる」

「僕たちは大丈夫です」

「まったく、私を歩かせるなんて何様なのかしら。場所も悪いしせっかくの靴が汚れてしまうじゃない」

「だったら何故来た。正直、貴方は足手まといで邪魔だ」

 アルズが口を開くより先にギュンターが腕を組んだままそう告げる。頬を膨らませて外の景色を眺め、眉を寄せていたドリスは不快感を露にして彼を睨んだ。

 座席に伏せているアジュールは楽しそうにその目を輝かせている。

「私だって来たくなかったわよ。でもしょうがないでしょ! お姉様の命令なんだから」

「はぁ。ドリスさんは御自分の立場が分かっておられないんですね」

「なによ」

「貴方が何をして、誰がどうなったか。リーランド家で知らぬものはもういないと思いますけど」

 にっこりと綺麗な笑顔でそう告げるアルズに気圧されるように、ドリスの表情が曇った。膝の上にコスモスを置いたまま声は優しい。

 いくら美しく可憐だと噂になるくらいの美人だろうが、アルズには関係ない。普通の男ならば頬を染め、彼女の機嫌を取ろうとするだろうがその必要がないのだ。

 ドリスの隣に座っているアルズは、彼女に負けないくらいの整った顔立ちで哀れみの視線を向ける。

 彼の容姿の美しさはドリスも思うところがあるのか、悔しそうにぐっと唇を噛み締めていた。

 その様子を反対側の席に座って見ていたギュンターは、顔を逸らしてわざとらしく咳をしながら笑う。


『完全には消滅しないか』

『あぁ、黒い影ですね。影響受けてるからじゃないですかね』

『コスモス、万が一に備えるのだぞ』

『分かってます。そうならないことを祈りますけど』


 コスモスがふぅ、と吹けば消えるような影だが注意しておかなくてはいけない。レサンタ王のようなことにはならないと思うが、エステルがそう忠告してくるくらいだ。

 一般的にも負の感情が昂ぶれば霊的活力(オーラ)のバランスが崩れて発狂したり、病気になってしまうことがある。

 ただ、そうなる前に防衛本能が働いて気絶してしまうのがほとんどだ。通常、そこまで狂ってしまうことは滅多に無い。

 そしてレサンタ王のような魔物化するという事例は稀だ。

(修道女の正体さえ分かれば、レサンタの占い師についても何か分かるかしら)

 分かったところでそれが帰還の手がかりになるかは分からない。しかし、コスモスが行く先々でこうも出会ってしまったらある意味運命を感じるしかないだろう。

(始まりはソフィーア姫の成人の儀だけど、あれ以来ソフィーア姫周辺は大人しいようだし)

 何かあればエステルが報せてくれるだろう。婚約者のアレクシスは帰ってしまっただろうが、ソフィーアには頼もしい兄たちがいる。

(メランも追放されてからは行方知れず。これが厄介なのよね。適当に暴れてくれれば何しているのか分かるんだけど)

 あれだけ好き勝手生きていた彼が急に大人しくなってしまうと少し怖い。

 平穏なのは良いことだが、何かよからぬことを考えているのではとコスモスは不安になる。

(気にしていてもしょうがないのは分かってるけど)

「ちょっと、何でこんな場所を行くのよ」

「うるさいぞ。相手に気取られたらどうする」

「その時は餌にする、というのはどうです?」

「ああ、そういう手があるか」

「やめておけ。あんな煩いだけの女なぞ、食べても腹を壊すだけだ。相手を更に怒らせることになるぞ」

 ドリスが悪路に腹を立て、ギュンターがそれを咎める。にこにこ顔でアルズが提案すればギュンターは考えるように顎へ手を当てた。

 そんな彼らを横目に溜息をつきながらアジュールがそう言うと、アルズとギュンターは同時に頷いた。

 それを聞いていたドリスは今にも噴火しそうな顔をしていたが、盛大な溜息をついてからいつもの可憐な表情へと戻す。

 ドレスの裾を摘んで先を行く彼女の足取りは、先ほどまで虫や生い茂る草を気にしていたものとは思えない。

 怒りを露にしてどんどん先に進んでいく様子を面白そうにギュンターが見ていた。



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